第三十三話 縋りたい背中
誰かの優しさにすがりついて泣きたくなる思いを、止めることができなかった。
じんわりと眉尻に浮かんだ涙を見て、料理人は目を見開いた。
店はまだそれほど忙しくなく調理場は全く持って暇だった。
その日は調理場の手伝いに入ることになっていたセナは、いつものようにエプロンをかけて、その場に立ち尽くしていた。
「何があった。また差別でも受けたか?」
問いかけに首を大きく振って否定する。
それならと彼は首をかしげながら「体調が悪いんじゃないのか」と再度、訊いてきた。
「ロアッソ。ごめんなさい、私どうしていいかわからない」
これから先、今よりもはるかに大変になることは分かっているのに、こんな弱気でどうするのか。
心の中でそう叱りつけてくる自分がいる。
それと向き合いながら、セナはもう一人の自分に向かい、今のままではどうしようもないと、弱音を吐いた。
ロアッソは怪訝な顔つきになり、最近の様子から、彼女には長期的な休みが必要かもしれないと思案する。
自分の家を買うために少女が健気に頑張っていることを彼は知っている。
どうしてこんなに超過勤務を自分から望んでしているんだ、と訊いた時の返事がそれだったから。
夢を叶えるために頑張っていて、まだ若いといっても、彼女もやはり人間だ。
何事にも限界がある。
過労のために精神が疲れ果て、自分でどうしようもできないくらい病んでいるのかもしれない。
もしそうなら長い休息が必要となる。
一月か、二月か。
それほど長い時間を休めばホテルはいい顔しないだろう。
時と場合によっては彼女を解雇して新しい人間を雇う可能性だってある。
それならばと、ひとつの提案をロアッソは考えてみた。
「俺にわかるように説明してくれ。助けになってやれるかもしれない」
「無理よ、そんなの」
できっこない。
単なる同僚で、しかも移民の女だ。
そんな自分を助けてくれる誰かがいるはずがない。
この国では一人で頑張って生きていくしかないのだ。
セナはそう思いつめていた。
ロアッソはとりあえず座れ、と調理場に椅子を持ち込んで、そこに腰かけさせる。
ホールから果物を絞ったジュースをグラスに注いで、セナに渡した。
それに口をつけたら、彼女は奇妙なことを言った。
「ちょっと酸味が強い?」
「はあ? 甘いだろう。疲れて味覚までおかしくなったのか?」
「……疲れ?」
「そうだ。働きすぎたら体のどこかに不調をきたす。味覚がおかしくなったり、耳鳴りがしたり、めまいがしたり、場合によっては内臓が悪くなって、長い休養が必要となる」
「私がそうだと言いたいの」
「俺はそう思っているが……違うのか?」
少女の瞳を、ジュースの中へと落とした。
視線の先でグラスの底を眺めるようにして、じっと黙り込んでしまう。
どうやら単なる体調不良じゃないらしい。
男には男の、女には女の、それぞれ特別な事情というものがある。
だいたいの場合、女性の方が、より辛い立場に置かれることが多い。
男の俺が話を聞くより、女性従業員に任せた方がいいなとロアッソは感じた。
白いコック帽を取り、短く刈った黒髪が顔をのぞかせる。
椅子の上で膝を組むと、さて誰にそれを任せるべきかと、ホールの方に目をやった。
バーのホールにはウェイトレスを含めてホテルの女性従業員が三人いる。
しかしその誰もが王国の人間で移民に対しては厳しい目を持っていた。
批判的な言葉もよく口にしており、この場には適任だと思えない。
亡くなった妻がいてくれれば自宅にも泣いて話を聞くこともできるが、どうやらそれも難しいようだ。
「今ここでちゃんと話してくれないと、俺はマネージャーにこのことを伝えなきゃならん。それでもいいのか」
半ば戻すように問いかけたら、セナは銀色のポニーテールを大きく振って、それだけは止めて、と小さく叫んだ。
それなら話をしろと肩を竦めてみせる。
「体調不良。そんな感じなんだけど、でもそれだけじゃなくて」
「自分でどこか悪いという自覚があるのか」
セナはまた首を大きく振った。
眉根を寄せ、口元を引き締めて、言いたいことを我慢している。そうロアッソは感じた。




