第三話 客室係
「浮かびなさい」
セナ・ローエングリンは荷物を運ぶカートにそう命じた。
すると、底部に仕込まれている刻印が、青白く光を放った。
浮遊魔法が発動し、積み込んでいるリネンが入ったカートが、ふわりと床上数十センチの距離に浮いた。
中に入っているのは大きさもさまざまな、使用済みのシーツやタオルなどが詰め込まれた袋たちだ。
宙に浮かんでも、移動させるにはそれなりの力が必要で、セナは下半身にぐっと力を入れて、カートの持ち手を押した。
これを押すにはコツがいる。
最初は腰を落としてしゃがみこむと、そのまま斜め上に向かって地面を蹴るように上体を起こすのだ。
鈍い衝撃がもどってきて、それからずるりと静かにカートは静かに走り出す。
のろまな亀のような歩行で、後は踵に重心をかけながら前へ前へ、と押してやる。
すると、カートはさきほどまでの重さがまるで嘘のように、するすると空中を滑り出した。
コツをつかむには慣れが必要だが、慣れてしまえば子供数人でも運ぶことができる。
洗濯室に向かうため、従業員通路を使い、同じ制服をきた仲間たちが、いくつものカートを無言で押しているのが目に入った。
「ふう……重い。もう少し……」
セナはグリザイナ王国の高級リゾート地でも一等地にある、リゾートホテル、ギャザリックで働いていた。
洗濯室に入ると、袋をよいしょっと持ち上げて、部屋の隅にある、洗濯待ちリネン用の大きなボックスに放り込む。
明日の朝には、清潔な洗い立てになっているだろうそれらは、いまはどことなく人の汗や脂の臭いが染みついていて、自分もまたその一部になった気分にされてしまう。
「駄目ね。さっさと戻らないと」
空になったカートの向きを変えると、備品室へと向かった。
そこで明日の作業に必要な資材を用意して、同じようなカートが並ぶ列に、それを収納した。
早朝早くから出ていく客たちに挨拶をして、室内の清掃を始めたのが、朝の七時。
気づけば十六時になっていて、昼休みもろくにとらず、ぶっ通しで九時間も経過していることになる。
流石に働き過ぎかな、誰にいうとでもなく呟くと、自分の衣類を収めている、ロッカールームに向かった。
そこに入ろうとして、隣の男性社員が使う扉が開いた。
出てきた彼を見て、セナはいやな気分になり、さっと目を背ける。
バルドだ。
大柄な二十代の赤毛の男が、頬を軽く持ち上げていやらしげな視線をじろじろと、セナの全身に這わせてくる。
……彼はこのホテルの正社員だった。
「なんだセナ。今日はうまくいったようだな?」
「バルド……さん。お疲れ様です。ええ、おかげさまで、いま終わりました」
「ふうん。いまね?」
リネン部の課長でもある。
直属の上司に、セナはこころばかりの笑顔を作ってやる。
「遅いな。他の連中は二時間前には仕事をおわらせている。お前、手を抜いているんじゃないのか?」
「えっ、そんなこと……」
今日のシフトは人員がすくなかった。
普段は二十人からいるリネン部だが、今朝はやくから体調不良を訴える者が多くて、そのヘルプにセナは回っていたのだ。
「人数がすくないとかは、お前の言い訳だからな。俺はそれでもできるように、仕事を振っているんだ。役立たずが」
「はい……すいません、バルド、さん」
それは私の仕事じゃありません! と声を大にしてセナは叫びたかった。
彼女の担当は、昼から回った一般客室ではなく、スイートルームなのだ。
この後、住み込みで働いているために与えられた寮の自室にもどって食事をする余裕はなかった。
寮まで徒歩で往復でかるく二十分はかかるし、一時間も経たないうちに、次のシフトへと入らなければならない。
自分の家、あるいはマンションやアパートを購入するのが、セナの夢だった。
そのためには他人よりもながい時間を働かなければならない。
次は十七時から、最上階にあるバーのウエィトレスの仕事が待っていた。
「まったく、シフトを融通してやったら、これだ。だから、異国の人間は使えねえ……」
「はい。すいません」
セナは首を萎縮させて謝罪した。
心にもない謝罪だったが、さっさと彼との会話を打ち切りたかった。
シフトに入る前に、寄りたい場所がある。
しかし、バルドは得意げな顔をして、嫌味を延々とのべようとした。
「二日前のあの事故だって、お前のせいみたいなもんじゃないか」
「あれは……カティとゼットが」
「他人のせいにするんじゃない!」
バンっ、と激しく壁が叩かれた。
威圧的なバルドの態度に、ますますセナは萎縮する。
二日前の事故とは、セナが廊下でカートを押していると、前方でおしゃべりをしながら歩いていた二人組が、足元に段差があったのに気づかずに、揃って転んでしまった件だ。
その際に、二人のカートもおなじように転倒してしまい、中身が廊下に散乱してしまった。
セナは慌てて動きを止めようとしたが、重たいそれは一度動き出すと、そう簡単には止まらない。
倒れたカートと段差のあいまにいた同僚のカティとゼットの少女二人組は、危うく押しつぶされかけた。
そのことを、バルドはセナのせいだと言う。
バルドは管理責任と問われ、お偉いさんからこっぴどく叱られたらしい。
医務室で手当てを受けた二人は、ほどなくして業務に戻ったが、バルドの機嫌はその日からとても悪く、セナには特に厳しく当たった。