好きだよ、私の愛しい悪魔
仕事を辞めたくなる節目は、「三」にまつわる時期なのだと聞いたことがある。入社して三日目、次は三ヶ月経った頃、といった具合だ。
今、私は入社から四年目。三は関係ないけれど、それはさておき大体同じ毎日に、そろそろ飽きてきている。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって言うそれは、私の中にいつの間にか根付いた習慣である。
この癖は未だに変わらない。また今日も、開けた扉の先に向かって私はこれを呟いた。
しかし、返事はない。部屋は真っ暗で、誰の気配もない。散らかった部屋は、朝出かけたときのままだ。
電気をつけて、鞄を下ろす。ストッキングを無造作に伸ばして脱いで、テーブルの横に置いたクッションに腰を下ろす。
悪魔との共同生活が終わって、一年が経過した。今思うとあの日々が懐かしい。ヒリヒリしてはいたけれど、その刺激が楽しかった……ような気もする。
自分ひとりで座るこの部屋で、私はそっと目を閉じた。
*
あの夏の日。
黒焦げになったチーズハンバーグを食べながら、私は彼女に言った。
「タイムリミットの七時は回ったんだから、私はゆっぴから逃げ切っちゃったんだよね」
そして今度は死神の方に顔を傾ける。
「制限時間以内に魂を奪えなかったゆっぴは、どうなるの?」
「決まってんだろ、強制労働だよ」
死神が冷たい声で答える。
「遊んで過ごした分は、仕事で返してもらおうじゃねーか」
「えー! 無理すぎて無理! 強制労働とかブラックじゃん! ちょっと前のみことっちみたいじゃん!」
ゆっぴが私を引き合いに出してくる。死神は容赦しない。
「働け。手え抜くのは大事だが、やることやんなくていいわけじゃあねーからな。死ぬ気で働け」
「怖ーい。死神大先生、マジ死神」
捨て台詞を吐いて、ゆっぴはハンバーグを口に運んだ。もくもくと咀嚼して飲み込んで、彼女は改めて、私と目を合わせた。
「そういうことだから、みことっち」
赤い瞳が、窓から入る日差しを反射する。
「あたしはもう、これからはみことっちを追っかける立場じゃない。悪魔として、お仕事頑張んなきゃ」
うん、と返事をしようとしたが、なぜか喉で詰まって声にならなかった。ただ無言で頷いた私に、ゆっぴがにこりと笑う。
「まあ、ほどほどにテキトーにやるけんね。みことっちもそんな感じでいんじゃね?」
これにも、返事ができなかった。代わりに胸の中で呟く。
さようなら、私の悪魔。私に、蜂蜜のように甘い悪魔。
*
今はもう、帰ってきても、迎えてくれるあの子はいない。私の「ただいま」に返事は返ってこない。
灯りのついていない部屋に帰ってきて、ひとりでキッチンに立って、作り置きしていた料理を温め直して。
そして。
バサバサバサバサと、近づいてくる羽音を聞く。私は皿を置いて、ベランダへと駆け出した。
直したばかりの鍵を開け、大きく窓を開いて。
「おかえり、ゆっぴ!」
「ただいまー! みことっち!」
ふわっと、鼻先に黒い羽根が落ちてきた。
ギャル服に身を包んだ蜂蜜色の悪魔を、窓から迎え入れる。
「あっ、いい匂い! 今日ハンバーグ?」
赤い目を輝かす彼女に、私は笑いかけた。
「そう! 今日は私も残業頑張ったから、特別にチーズを載せます!」
「最高すぎるー! みことっち大好きー!」
勢いよく抱きついてきた彼女からは、とろけるような甘い匂いがした。
「あれ、こんなのつけてたっけ」
つい口をつくと、彼女は私に抱きついたまま、自身の耳に触れた。
「あーこれね、今度発売するコロン。試しにつけたんだけど、あんまあたしっぽくないんだよね」
「へえ、コロンなんて作ってたんだ、あの会社」
「うん、服に合わせて作ってるんだってー。おかげであたし、このあとまた店に戻って事務仕事しないとなんないの。マジないわ」
やれやれと肩を竦める彼女に、私は苦笑いを返した。
「本当に激務だね。まあ、ご飯くらいはゆっくりしていきなよ」
「そうする気満々だし」
彼女は牙を覗かせてニッと笑い、ハンバーグがふたつ並ぶテーブルへと跳ねていった。
私の魂を奪えなかったゆっぴは、強制労働に身を置くこととなった。
彼女は今、こちらの世界で暮らす魔界出身者向けアパレルブランドで、販売員をしている。私を追いかけていた頃とは違い、私以上に忙しそうになった。
でも、夕飯時になると必ずここへ戻ってくる。
私もハンバーグの前に座り、手を合わせた。
「ゆっぴが私を追いかけなくなったときは、もう二度と会えないのかなって思った」
「んー? なんで? 追いかけなくなるとは言ったけど、だからってもうみことっちのとこには来ないってことにはなんなくね?」
ゆっぴが尻尾をくねらせて首を傾げる。私は箸を握り、たしかに、と呟いた。
「それもそうか」
ゆっぴは毎日、この部屋に帰ってくる。一緒に食事をして、おやつを食べながら仕事の話や交友関係の話なんかをして、また仕事へと発っていく。
お別れしたと思っていたのに、次の日にも当然のように現れたのには本当にびっくりしたが、今となってはこれが新たな日常として根付いている。
と、ゆっぴが私の顔の前で手を振った。
「みーことっち、聞いてる?」
「え、ごめん。ちょっとぼーっとしてた。なに?」
我に返って聞き返すと、彼女ははにかみ笑いで続けた。
「だからあ、新作のコロン。あたしっぽくないけど、みことっちっぽくはあるから、今度持ってきてあげるって話してたの!」
「コロンって、その甘い匂いの? でもそれ、魔界出身者向けのブランドだったよね。私がつけても変じゃない?」
変な懸念で尻込みしていたら、ゆっぴはあっさり言った。
「良んじゃね? みことっち、ゾンビだし」
「そっか」
「てかさ、誰でも好きなものつけて良んじゃね。かわいければなんでも最強じゃん」
ああ、やっぱり好きだな。
私は毎日、彼女への気持ちを再認識する。最初はひと目惚れだったけれど、彼女を知れば知るほど好きになった。騒がしくておバカで、単純で、自分本位で、そんなところも全部まとめて、世界でいちばんかわいい、私だけの悪魔。
「ところでゆっぴ、私の『望み』の返事、まだ聞いてないんだけど」
「ん? なんだっけ」
目をぱくちりさせる彼女に、私はにこりと微笑んだ。
「『私の恋人として、一生一緒にいてほしい』……本当ならこれが二個目のはずだったよね。もう叶ってる気がするけど、叶ってるなら三つ望みを言ったことになるから、私、死んでないとおかしいんだけど」
「むぐ……」
ゆっぴはハンバーグの手前で箸を止め、じわりと頬を赤らめた。
「……だって、それ叶えたらみことっち死んじゃうんだもん。だからまだ、恋人じゃない」
「恋人じゃないんだ」
「そうだよ。恋人じゃないから……もっと、いけない関係」
そう言っていたずらっ子な笑顔ではにかむ彼女は、まさに私の心を掻き乱す悪魔そのものだ。
死んでも死なない私と、私を甘やかす蜂蜜のような悪魔。
デッドもアライブも超えた日々は、まだもうしばらく続きそうだ。




