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マイスイート・ハニーデビル  作者: 植原翠/新刊・招き猫⑤巻
Ep.8・マイスイート・ハニーデビル
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死神大先生

 その後も、普段どおりの慌ただしい日々が過ぎていった。朝家を出て、仕事をして、帰ってくるだけの日々だ。でも、数ヶ月前とは違う。出かける前にゆっぴが送り出してくれ、帰ってくると迎えてくれる。その日の出来事を話すと興味深そうに聞いてくれる。

 たまに事故に遭って死にかけたりもするが、私は今日も、当たり前の日常を生きている。


 その土曜日は、朝からよく晴れていた。日差しは強いが、風は涼しくて心地よい。私はベランダで眩しい青空に目を細め、洗濯物を干しはじめた。

 ふと、ベランダの柵にゆっぴが座っているのが目に入った。


「うわっ。いつからそこに?」


「さっき来たとこ。休みの日も早起きかよ? もっとだらだら寝てろしー」


「折角いい天気だから、洗濯したくて……」


 からっとした空気に晒されたゆっぴの黒い羽根が、濡羽色に艶めいている。私は白いタオルを勢いよく広げ、洗濯バサミで吊した。

 ふいにゆっぴが、柵の上に立ち上がった。細い柵にバランスよく立つなんて器用なものだ。二階のベランダなのに怖くないのか、とは思ったが、考えてみたら彼女は背中の翼で飛べるので、高いところも不安定な場所も平気なのだ。

 高い位置から遠くを眺めていたゆっぴは、急に尻尾を立てて騒ぎはじめた。


「うお! やば、ねえみことっち! あそこあそこ! こっち来て、あれ見て!」


 ゆっぴの手が私の方に伸びてきた。私は持っていたタオルをひとつ干して、言われるままにゆっぴに歩み寄る。ゆっぴが私の手を握り、引っ張りあげようとする。


「ここ、立ってみて」


「柵に? やだよ、危ないよ」


「平気だって! それより見て、あそこにUFOっぽいもの見える! もしかしてヒロヒロの船かな?」


 ゆっぴが翼をはためかせて浮き上がる。手を取られた私も、足が少し浮いた。


「そんな強引に引っ張らないでよ、危ないって……!」


 ゆっぴに釣り上げられた私は、柵の上に腹ばいになった。上半身が柵の向こう側に投げ出される。建物の下、コンクリートの地面が見えて脚がひやっと竦む。真下には、駐車場の車止めが並んでいる。

 と、ゆっぴは急に、私の手を離した。


「あれ? 船見えなくなっちゃった。やっぱUFOって一瞬で消えちゃうんだねー」


 悠長に間延びした声でなにか言っているが、こちらはそんな場合ではない。強引に柵に引き上げられてそのまま手を離されたのだ、全身の血の気が引く。


「ひゃっ……うわあああ!」


 人間の重心というものを感じさせられる。私の足は高く放り上げられ、柵の向こう側へと体が沈んでいく。

 こういうとき、なぜか時間の流れをやけに遅く感じる。それなのに、自分自身もスローモーションになって体勢を立て直すなんてできないものだ。

 重力には逆らえず、頭から真っ逆さまに落ちていく他なかった。


 ほんの一瞬、一秒あったかどうかも覚えていない。衝撃音とともに激痛に襲われ、私は全身を痺れさせた。


「いっ……たあ」


「あっ! やっべ。ごめんごめん、みことっち」


 上空からはゆっぴの明るい声が聞こえる。私は痛む頭を手で支え、しばらく悶絶していた。

 部屋の位置は二階。そのベランダから落ちたのだから、死にはしないかもしれないが骨折くらいはしただろう。痛くて体に力が入らない。目も開けられず、ただ身動ぎするばかりだ。


「ゆっぴのバカ……」


 もごもごとぼやく。側頭部が痛い。ぼやけた頭でも分かる、多分駐車場の車止めに命中しているのだ。

 と、意外と近くから、声が降ってきた。


「うわ、キモ」


 しかし、ゆっぴの声ではない。なんだか妙に脱力した、少年の声だ。まだ声変わりしていない、かわいらしい声である。通りすがりの人が駆けつけたのか……いや、そんな感じでもない。

 薄目を開けてみる。真っ先に目に飛び込んできたのは、飴色の髪と真っ黒な瞳だった。

 中高生くらいだろうか。甘い童顔だが、どこか鋭く、そして冷めた目をしている。彼は私の横にしゃがんで、気だるげな顔で私を覗き込んでいた。

 私は、力なく声を発した。


「すみません、救急車呼んでもらえます?」


 しかし少年は、眉を顰める。


「はあ? 生きてんのに? なんで?」


「生きてるうちに呼んでほしいんです」


「やだよ、面倒くせー」


 ワイシャツに学ランを羽織り、耳にはピアスがひとつ煌めく。


「つーかこの俺に指図すんなよ。不愉快」


 ベランダから落ちただけでも充分だというのに、そのうえこんな変な子供に絡まれるとは私も運が悪い。

 文字どおり頭を抱えていると、パササと羽音が届いてきた。私の真横にローファーを履いた足が降り立つ。


「流石はみことっち、生きてるね」


 ゆっぴである。彼女は私を一瞥したのち、くるりと学ランの少年にくるりと顔を向けた。


「ちっす、死神大先生!」


 全く、こちらは一大事だというのに、どうしてそんなに平然としていられるのか。悪魔だからか。……などと心の中で呟いたあと、私はゆっぴの言葉にハッとした。


「……死神?」


 聞き間違えでなければ、たしかにそう言った。そういえばこの前、土曜日に死神がバカンスに来るとかなんとか聞いていたような。目の前には、しゃがんだ膝に頬杖をつく眼光の鋭い少年。

 私は一気に体を起こした。


「死神って、君が!?」


「おーおー、超元気じゃねーか。とんだ化け物だな」


 少年……もとい死神大先生とやらは、気だるげな口調で言った。

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