私は社畜
翌朝。私は自室のベッドで目を覚ました。昨日の服装から着替えていない様子を見るに、どうやら私は帰宅して早々に寝てしまったみたいだ。
なにやら幸せな夢を見ていた気がする。かわいいギャルがこの部屋にいて、彼女は悪魔と名乗り、私を蠱惑的に惑わした。
まだまだあの夢の続きを見たい……けれど、これから仕事だから二度寝はできない。布団から起き出そうとしたそのとき、ベランダのガラス戸がガラッと開いた。
「やばーい! ねえねえ、みことっち聞いてー!」
甲高い悲鳴で、一気に微睡みから覚醒した。私はびくっと飛び上がり、そして、目に飛び込んできた光景に絶句した。
金髪ギャルが、ベランダから部屋に上がってくる。
「みことっちー! やばい、あたしめっちゃバカ!」
彼女は私のベッドへとダイブしてきた。寝起きの頭が大混乱を起こす。
「ぎゃー! 待って待って! 誰!?」
布団を抱き寄せる私に、ギャルが目を剥く。
「は!? 記憶喪失?」
「君……ゆっぴ! 実在してたんだ!?」
夢から覚めたはずなのに、黒い翼の金髪ギャルは、今も目の前にいる。彼女は呆れ顔で、尖った牙を覗かせた。
「してるに決まってんじゃん! なんで今更!? イカれてるくらい働いてる人だなあと思ってたけど本当にイカれてるな」
半開きのカーテンから暖かな日差しが差し込んできている。少し散らかった、いつもどおりの私の部屋だ。
飛び起きた勢で、固くなった体がボキボキと関節を鳴らしている。
「ここ二階なんだけど、今ベランダから入ってきた?」
「階段上り下りするの怠かったから、ベランダから出入りさせてもらってる。飛べるんだから飛んだ方がショートカットじゃんな」
ゆっぴはそう答えてから、思い出したように付け足した。
「あ、みことっち、昨日、床で寝ちゃったからベッドに引きずったよ。細すぎてびびったわ。マジで食べてないじゃん」
次第に脳が覚醒してきて、いろいろ思い出してきた。ゆっぴが用意してくれた食事のあと、私は気絶するように眠ってしまった。そして目が覚めて、これである。
目の前にゆっぴがいるのだから、昨日の出来事は夢ではなかった……いや、今もまだ夢の中なのか?
ゆっぴは布団越しの私の膝の上で青い顔をして、スカートのポケットからスマホを取り出した。目が痛くなるようなラメピンクに、黒い悪魔の翼が描かれたド派手なケースが地味な室内で妙に浮いている。
「てかそれどこじゃないんだった。やばいよ、やらかした。見てこれ」
手に持っていたスマホをずいっと、私に突きつけてくる。
表示されていた画面には、シンプルなゴシック体が刻まれていた。
『二十六歳・四月X日二十三時四分・過労死』
「か……過労死……?」
ぞっとする字面を、つい口に出して読む。ゆっぴはスマホを向けたまま、キャンキャンと嘆いた。
「タイムラインが更新されてたの! みことっち、昨日死ぬはずだったんだよー! お仕事から帰ってきて、そのままくたーっと眠って起きなくなる予定だったの! なのに、なのに」
ゆっぴは打ちのめされた顔で半泣きで続ける。
「あたしが栄養摂らせて、元気にしちゃったのー!」
彼女の絶叫が、鼓膜をキーンと震わせる。私は数秒固まってから、はあ、と間抜けな返事をした。
「それはどうも……」
「いやいや、どうもじゃないんだよ。みことっちはまたもや死に損なったんだよ?」
「またもや?」
困惑する私の膝の上で、彼女はすいすいとスマホを操作した。そしてなんらかの画面を表示したらしく、彼女はそれを私に向けた。
『十八歳・八月X日二十一時二分・過労死』
『十六歳・十二月X日一時十八分・凍死』
『十四歳・七月X日十時二十三分・溺死』
「なに……なにこれ!?」
血の気が引く私に、ゆっぴは半泣き顔で尻尾をへにょへにょさせた。
「これは冥府で死神大先生から共有される『あの世タイムライン』」
物騒なフレーズがあまりにもしれっと出てきた。
「あの世タイムライン……?」
「うん。世界中の人間たちの生死が、これが更新されていくの。死神大先生が、魔界の皆に共有してるんだ」
頭がガンガンしてきた。寝起きのせいか、いや寝起きでなくてもなにを言われているのか分からなかっただろう。
「死ぬはずだったのに死ななかった『臨死』の場合、つまりスカも同様にアップされる。本来死ぬはずだった瞬間に死に損なうと、こうして更新されるんだよ」
「本当なら私はそこに書かれてたタイミングで死ぬはずだったのに、運良く生き残ってるってこと?」
「そうだよ。回避してなかったら死んでるから今ここにいないもん」
私は言葉を失った。かなり軽い口調で、恐ろしいことを言われている。
いろいろ言いたいことはあるが、ともかくこのタイムラインに上がっている臨死のタイミングを改めて読んでみる。
十八歳・八月X日二十一時二分・過労死。高校の頃だ。吹奏楽部に所属していた私は、この頃からすでにブラック体質な部活で心身ともにすり減らしており、大会前に意識を失った。休めなくて皆勤したが。
十六歳・十二月X日一時十八分・凍死。高校一年のとき、冬のキャンプで皆とはぐれて遭難、凍死しかけたことがある。翌朝無事に発見されたけれど。
十四歳・七月X日十時二十三分・溺死。中学二年のときにプールで溺れて呼吸困難になった。でも奇跡的に息を吹き返した。
タイムラインに書かれた、それより前の記述も流し見る。中学一年のときに体育祭で熱中症で意識不明になった日。小学校の頃に遊具から落ちた日。
どれも、事実だ。
「このとおり、みことっちは、死ぬはずだったのに死ななかった体験を何回もしてる。昨日も、眠ってそのままご臨終のはずだったの」
ゆっぴは私の目の前に突き出していたスマホを自分の方に向け、すらすらと操作した。
「さっき見せたのは検索で絞っただけで、みことっちのは全件だともっとあるよ。ほら」
改めて画面を見せられる。『二十六歳』で始まる文字の羅列が、だーっと連なっている。轢死、転落死、轢死、失血死、脳死、圧死、転落死……と、死因とその時間がびっしり書かれ、二十六歳のページだけでも百件は超えているようだ。信じられないが、しかし書かれている日付や時間と照らし合わせると、たしかに心当たりがある。
「これ階段から落ちたときの……これは会社の倉庫の備品が崩れてきた日……え、私、こんなに小刻みに死にかけてたの?」
「そうだよ! みことっち、不運に見舞われまくってるのに運良く助かりすぎなの!」
その出来事自体は本当だった。全部デタラメなら良かったのに、事実私は人生において何度も死にかけている。しかしなにが起きても、無事に乗り越えて今がある。
「やっぱり私、まだ夢を見てる……?」
だんだん怖くなってきた。幸せな夢のはずだったのに、流れが変わってきた。こんな悪夢……現実ならなおさら見たくない。
顔を伏せる私をよそに、ゆっぴはマイペースに続けている。
呆然とする私からスマホを引っ込め、ゆっぴはまた画面を指でつついた。
「でね、みことっちはね」
スクロールして、再びその画面を私に突き出してくる。そこにはシンプルなゴシック体で、『三歳・轢死』と書かれていた。
「これ! みことっちは本当は、この三歳のときの事故で死んでるはずだったの!」
「あ、この事故も覚えてる」
私はなぜか妙に感心して、ぽんと手を叩いた。
「保育園の帰りだ。歩行者信号が青に変わって、走って渡ろうとしたら信号無視の車に撥ねられたっていう……」
「そう、それ」
ゆっぴが見てきたかのように相槌を打つ。
三歳のとき、母親と手を繋いで歩いていた私は、信号が変わったのを見て、母の手を振りほどいて走り出してしまった。直後突っ込んできた車に思い切り撥ねられて体が宙を浮いた、その感覚までしっかり覚えている。
「でも、なぜか無傷だった」
すぐに病院に行って診てもらったが、どこにも怪我がなかったのである。ゆっぴはそうなのよと大声で言った。
「科内深琴っていう人間の生涯はここで閉じるはずだったんだけど、なぜか死ななかったの。このきっかけを逃して、次は保育園の遠足で山で迷子になって一週間誰にも見つけてもらえなくて今度こそ死んだと思ったのに生きてた。そうやってみことっちはずーっと死にかけちゃスルーし続けてるの」
「それを何度も繰り返して、現在二十六歳……」
「そう! みことっちは普通じゃ考えられないくらい通知が増えてる! たまに九死に一生しちゃう人はいるけど、ここまで死なない人は過去に例がないんだよ!」
もともと大きい声をさらに張り上げ、ゆっぴは私にスマホを突きつけた。
「そこで! あたしが直接、みことっちのお傍に舞い降りたってわけ」
スマホの先が角に触れるか触れないかのところに止まっている。私は数秒、目をぱちくりさせた。
「いや、『そこで』と言われても全然意味が分からないんだけど……」
「簡単に言うと、みことっちが死ぬのを見届けに来たんだよ」
ゆっぴがにこりと、牙を覗かせる。
「あたしたち悪魔は、魂をいただくついでに死神大先生のお手伝いをしてるの。本来ならほっといても死ぬ人間が必要以上に生きてるのをタイムラインで見つけて、その人間から魂を奪う」
最初からずっとだが、ますますもってなにを言っているのやら。
「こないだタイムラインを見てたら、偶然みことっちを見つけたんだ。こんなに死んでない人、初めて見た。死神大先生が気づいてるかどうかはさておき、完全に保留案件として溜まっちゃってる状態だったわけよ」
ゆっぴは赤い目で空中を仰いだ。
「あたしは悪魔だから、みことっちの願いを三つ叶えたら、みことっちの魂を奪える。そしたら流石のみことっちでも死ぬ」
「うん……うん?」
「みことっちが死んでくれればひとつ仕事が片付くのよね。あたしの業績にもなるからランクアップできるし」
「ああ、なるほど。ゆっぴは私に死んでもらいに来たと……」
言ったあとで、私はハッとした。
「死んでもらいに来た!? 私、死ぬの!?」
「うん、そう!」
ゆっぴはにぱっと眩しい笑顔を見せ、楽しげに背中の翼を広げた。あっけらかんとした笑顔に、私は何度目かの絶句をした。こんなに悪意のない殺意、初めて見た。
悪魔とか死神とか、そんなものは全く信じていない。だが仮に彼女の説明が事実であると仮定すると、私はこのギャル悪魔に命を狙われるということで。
「やだよ!?」
「やだじゃないよ。みことっち本当は三歳で死ぬべきだったんだから! ボーナスタイム長すぎだから! 潔く死んでよね」
ゆっぴはまるで私がわがままを言っているかのように宥めてきた。
「だいたいね、生きてたってみことっち、どうせ歯車のように働くだけでしょ。そんな人生楽しくもなんともないんだし、長生きする必要ないじゃん」
「なんだとお前ー!」
襟首を掴みそうになったが、ゆっぴはひゅっと体を仰け反らせて躱した。
「図星突かれたからって怒るなし。冷静に考えてみ? 本来あるべき姿に戻るべきだと思わないかい?」
「いやいやいや、なに言ってくれてんの!?」
全然納得していない私を置き去りにして、ゆっぴは勝手に続ける。
「んで、後出しで分かったけど、昨日みことっちは過労で死ぬはずだったの。でもそれに気づかなかったあたしは、ほっとけば死んだみことっちの命を救っちゃった……」
彼女の落胆ぶりを見て、私は先程のゆっぴの「やらかした」の意味を理解した。
死を望まれるのは冗談でも腹立たしいが、だがゆっぴの言うことが本当なら、たしかに私のボーナスタイムは長すぎる。死ぬべき時に死んでいないで、寿命以上に生きているのだ。
「そうだとしても、生きてるからには死にたくないな」
「なんでよ、死ねるときに死んでおこう!」
ゆっぴはむーっとむくれて、翼を揺さぶった。
「こうなったら意地でもみことっちの願いを叶えて、魂奪ってやるかんね!」
いろいろ突っ込むべきことはあるが、言葉が出てこない。
何度も言うが悪魔とか死神とか、そんなものは全く信じていない。だが私の知っている常識では、今目の前で起きているこの状況を説明できかねる。頬を抓っても寝ても覚めても、私の前から「悪魔」は消えてくれない。
こんな現実が起こりうるのか。現実ではないとしたら、どうしたらこの夢から覚めるのか? 覚めないなら、これは現実?
「そのためにも、みことっちを死ぬほど甘やかして、欲望まみれにしてあげる」
イカれたワーカホリック三年目。
私を甘やかす悪魔が、私の魂を奪いに来た。
それはヒリヒリするのに豊かでもある、デッドオアアライブな日常の序章だったのだ。