未知との遭遇
凍りつく私の背中に、少年の声が響いた。
「深琴お姉ちゃん、ゆっぴお姉ちゃん! こっち!」
振り向くと、小さな少年……宙人くんが、数メートル向こうで手招きしていた。私は咄嗟にゆっぴの腕を引き、宙人くんの方へと駆け出した。
宙人くんは公園を駆け抜け、砂場を乗り越え、その向こうの植え込みを飛び越えた。私も無我夢中で植え込みに足を踏み入れる。鋭く尖った枝が、容赦なく脚に突き刺さる。
私とゆっぴが植え込みを越えるのを見届けると、宙人くんはさらにその向こう、公園を囲う緑地を駆け出した。私たちの背後からは、同じく植え込みを乗り越えて謎の生き物たちが追ってきている。
それらの様子をちらりと見、宙人くんが呟く。
「ゲートが開いてたから、変だなと思ったんだ。いつから侵入されてたんだろう」
「宙人くん、あれはなに? 宇宙人?」
私は混乱気味に訊ねた。宙人くんが草木を踏む音がする。
「僕の星の仲間だよ。仲間であり、敵だ。僕が集めた他の星の生物データを横取りにしに来てるの。たまにいるんだ、そういうルール違反を犯す奴が!」
宙人くんは見た目どおり拗ねた子供みたいな口調で、走りながら怒った。
「僕のこの、地球をコピーした基地は、公園に鍵があるんだ。通常はその鍵をかけて、外とのやりとりを一切遮断するんだけどね。あるポイントに触れると、他の基地や船の外に繋がる外部リンクが開放される仕組みになってるんだ」
宙人くんの説明によると、どうやら公園の中にあるポイントが、この「秘密基地」と外部のリンクを繋げたり断ったりする鍵になっているという。宙人くんは外へ出かけるとき、基地を守るため鍵をかけて出ていくそうだが、今回なんらかのきっかけでその鍵が開いたらしく、外から宙人くんのライバルが流れ込んできてしまったそうだ。
そしてその者たちの目的は、宙人くんが回収した地球の生物のサンプル。即ち、私とゆっぴである。
「宙人くんの仲間ってたしか、サンプルを容赦なく解剖するとか言ってなかった!?」
「うん。地球の生物はまだまだ謎が多い。みんな、いち早くふたりを調べて手柄が欲しいんだよ。もう、僕は時間をかけてじっくり調べるつもりだったのに!」
宙人くんの甲高い声が、木々の隙間に響く。
最悪だ。元から充分厄介な状況だったのに、さらに悪化した。なんでこんなことになるのか。
公園の中に基地と外とを繋ぐ鍵があったというが、そんなもの知らない。命懸けの鬼ごっこがいきなり始まるなど、たまったものではない。
と思ったが、途中でもしかして、と思い当たった。宙人くんが絵を消した、砂の擦れた地面。あの辺を触ったときの異様な感触を思い出し、もしやと首を捻る。
「鍵、開けたの私かも」
「それは責めないよ。どっちにしろ、開いてるからって他人の基地に勝手に入ってきて荒らす輩がいちばん悪い!」
宙人くんが強気に言いきると、なぜかゆっぴも加勢した。
「そうだそうだー! 防犯意識が低いより、空き巣する奴が罪だよ!」
ゆっぴが翼をパタパタさせ、後ろに顔を向ける。
「しかもなんか数増えてるくね?」
彼女のひと言で、私も振り向いた。押し寄せる化け物たちは、先程よりさらに数倍に増えている。
「僕が地球の生物の回収に成功したのがバレたからね。情報が広がっていくにつれてさらに集まってきたんだ。地球の生物は価値が高いから、お姉ちゃんたちふたりはすごく貴重なんだよ」
「へー、うちら大人気なん?」
ゆっぴが悠長に聞く。宙人くんは大真面目に返した。
「うん。地球の生物は持ち帰りが難しくて、こうしてきれいな状態で捕獲・保管できるケースはすごく珍しいんだよ」
緑地が続いている。この緑地はこんなに広かっただろうか。公園を囲んでいるだけで大した範囲ではなかったはずだが、明らかにそれ以上の道程を走っている気がする。背後を追ってくる化け物との距離は、縮まってきている。
「宙人くん、これ、どこに向かってるの?」
焦燥半分に聞いてみる。宙人くんは少しの無言ののち、はっきりと言った。
「地球」
「……え? 地球? 帰れるの?」
都合のいい聞き間違えかと思ったが、どうやら間違いないみたいだ。宙人くんは、顔をこちらに向けて繰り返した。
「地球だよ。本当は帰したくないけど、こうなったらもう仕方ない。大好きな深琴お姉ちゃんとゆっぴお姉ちゃんが、後ろから来てるあいつらの手に渡るくらいなら、僕はサンプルもポイントも評価も全部諦める」
最後の方は、自嘲気味な笑いを含んでいた。
「僕は僕の意志を貫くんだ。大事なサンプル……ううん、大事な友達を傷つけられないために、地球と仲良くやっていくために、ふたりには地球に戻ってもらう」
ぽかんとする私に背を向け、宙人くんはぽつりと付け足した。
「深琴お姉ちゃんが褒めてくれたのは、僕のそういうところだから」
私はこの子に捕まって良かったと思った。
いや、こんなことを思うのはおかしいが、たとえ宇宙人でもこれほど心の通じる子だったのは本当に幸いだった。
延々と続く緑地を駆け抜け、緑の木の葉の隙間を木漏れ日が煌めく。眩しくて、網膜が焼けそうだ。
宙人くんの後ろ頭が言った。
「この緑地、やけに長いでしょ。実はもう既に基地を出てるんだ。今、ワームホールを抜けてる最中だよ。鍵が開いている状態で直線距離を一定速度以上で移動することで、こうして基地と外部を繋ぐ通路に入れるんだ」
頭がくらくらしてきた。思えばここへ連れ出されるときも、こうして意識が遠のいたのだった。あのときと同じ、熱中症に倒れるみたいな感覚が脳と体を支配していく。
と、宙人くんが立ち止まった。
「ここからが本番。深琴お姉ちゃん、ゆっぴお姉ちゃん。死なないように気をつけて」
「死な……えっ!?」
ぐらつく頭で、宙人くんの言葉を聞き返す。宙人くんは早口に告げた。
「今から、僕らの船から地球へ移動するにかかる全ての負荷が、一瞬のうちにのしかかってくる。一瞬で地球に着陸する代わりに、光を超えるスピードで飛んで、大気圏を突破する。そのためにふたりの身体を一時的に光の粒子に変換する。それらのダメージがまとめて一気に体を襲う」
頭が働かなくて、宙人くんの説明が入ってこない。
「地球の生物の回収が難しいのは、このせいなんだ。大抵みんな、ここで粒子が霧散して死んでしまう。深琴お姉ちゃんは意識が飛んだだけ、ゆっぴお姉ちゃんはノーダメージで突破できたけど、これは本当に例外的で奇跡的だったの」
「マジ!? あたし最強じゃん、やば! 悪魔だからかなー?」
ゆっぴの明るい声が、私の溶けた脳に妙に響く。
「みことっちもすごいよね! 真人間なのに無事だったなんてさ」
「でも一度目は気を失うだけで済んだけど、帰りも成功するとは限らないからね?」
宙人くんの声が遠く聞こえる。それに返すゆっぴの明るい声も、同じく遠のいていた。
「みことっちはねえ、なにしても全然死なないから今回もどうせ死なないっしょ!」
私はぼうっとしているなりに、質問を絞り出した。
「地球に……帰れる、の?」
「死ななければね」
このやりとりを最後に、私の意識は完全に途絶えた。
*
蝉の声がする。痛む頭にガンガン響いて、心地悪い。汗ばんだシャツも気持ち悪くて、最悪の目覚めだった。薄く目を開けると、夕方の真っ赤な空が私を見下ろしていた。眩しくて、もう一度目を閉じる。
また眠りかけた私を、ゆっぴの声が邪魔をする。
「あ、起きた。みことっちー、こんなところに寝てると腰痛くなるよ」
彼女の甲高い声が頭を痛くする。改めて目を開け、急に覚醒した。
「ここは!?」
飛び起きると、ズキズキしていた頭に衝撃が走って即蹲った。横には膝を抱えたゆっぴがいる。
「公園!」
「公園……? えっと、宇宙船の中のコピーされた世界の……」
私がむにゃむにゃと口をつくと、ゆっぴは笑いながら首を横に振った。
「なに言ってるー? 普通に地球だし」
「あれ……?」
額を押えて、周りを見渡した。視界には緑地に囲まれた公園が広がる。隠れんぼしている子供たちが、「みいつけた」などと大声を上げ、赤く燃える空には黒い鳥の影が通り過ぎていく。私はその端っこ、砂の地面に横たわっていた。
間違いない、よく知っている、アパートの近所の公園だ。
「本物?」
「本物だよ。どしたん、みことっち」
ゆっぴがきょとんとしている。彼女はまるで宇宙規模の不思議な体験なんてなにも知らないみたいに、普段どおりの面持ちだ。
ひょっとして私は、夢でも見ていたのだろうか。
「……なんでもない。なんで私、こんなところで寝てたんだろ。帰ろっか」
日の沈みかけた夏の夕暮れに、黒っぽい影になった雲がのんびり流れている。立ち上がると、頬に触れた少し風が冷たかった。
涼風に冷やされると、だんだん冷静になってきた。夢で当たり前だ。宇宙人に連れ去られて地球そっくりだけれど全てが違う場所で、何日もさまよっていたなんてありえない。すごく変な夢だった。多分、熱中症で倒れて魘されていたのだ。なんだか小腹が空いたし、帰って夕飯にしよう。
ゆっぴは背中で手を組んで、軽やかに足を踏み出した。
「てかみことっち、やっぱり死なずに無事に宇宙から帰ってきたよね。ヤバヤバのつよつよじゃーん」
夢だと思おうとした途端、これだ。絶句する私を横目に、ゆっぴは続けた。
「あたしは悪魔だからともかくとして、みことっちは人間のくせにマジ強すぎてワロ。あ、会社に電話しときなよー? また押しかけてくるとウザイから」
「あー……うん」
会社には、なんて説明しようか。体調不良でいいか。私にだってよく分からないのだし。
赤く燃える空を見上げて、伸びをする。飛んでいる鳥の影のさらに向こうで、なにかがきらっと光る。一瞬それが宇宙船のようにも見えた気がしたが、多分普通の飛行機だろう。そうであってくれ。
空と同じ色をしたゆっぴの瞳が、私を振り向く。
「宇宙、つまんなかったけど楽しかったね」
「怖くなかった?」
「怖くはないよ。怖くはないけど、ドキドキした」
ゆっぴは柔らかに目を細め、そして顔を背けた。
「本当の本当に、みことっちとふたりきりの世界だったね」
それは、私も同感だ。
ゼンマイが切れて停止したような世界を、君をふたりだけで歩いた、あの時間。それは恐怖や焦燥とは違う胸の高鳴りで。今思うと、あの場で死んでも良かったかもしれない。でもゆっぴをひとりぼっちで残してしまうのは嫌だな。
アパートへ向かっていく私の背中に、公園で遊ぶ子供たちの歓声が届いてくる。
盛り上がる子供たちの声の中に、どこか聞き覚えのある甘い声が混じった。
「ねえ、僕も隠れんぼ、混ぜて」
「いいよー!」
「ありがとう! じゃあさ、」
そのかわいらしい少年の声が、あどけなく笑う。
「僕の『秘密基地』で遊ぼう」




