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マイスイート・ハニーデビル  作者: 植原翠/新刊・招き猫⑤巻
Ep.7・エンカウンターウィズザ・アンノウン
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まさかの拉致監禁

「どこか遠くへ行きたいな……」


 とある休日の、午後。私はひとりぼっちの部屋の中で呟いた。

 窓の外から、木々の揺れる音がする。差し込んでくる光は初夏の温度で、照明を点けていない部屋を静かに照らしている。


 土曜日、一週間分の疲れを癒す日。

 今までは当たり前だった休日出勤がほぼ発生しなくなったおかげで、こうして豊かな休日を過ごせる。体にのしかかる疲れも、がむしゃらだった頃よりは健康的な疲れだと感じる。


 この日は特に予定がなかったので、ゆっぴと一緒に買い物にでも行こうかと考えていたのだが、珍しくゆっぴの方から断ってきた。なんでも今日は大好きなベルフェゴール様のライブがあるらしく、一昨日くらいから魔界に帰ったままこちらに現れていない。

 ならば小春と遊びに行こうかと思い至るが、小春も地方への取材で家を空けているという。私は久々に、自分ひとりの休日を過ごすこととなった。


 午前中に部屋の掃除をし、一週間分の食事の作り置きをした。やるべき作業はすぐに終わってしまい、時間が余る。趣味でもあれば没頭できるのかもしれないが、生憎私にはまだ趣味と呼べるような趣味がない。


 どこか、遠くへ行きたい。そうだ、旅行の計画でも立ててみようか。

 昼下がりの退屈な時間。旅行雑誌でも買ってみようか、と、私は家を出たのだった。


 室内で過ごすのは嫌いではないが、天気の良い日の外は気持ちが良かった。梅雨が明けて空は青く澄み渡り、初夏の風が眩しい緑を揺する。深呼吸して、アスファルトの上を歩く。夏の匂いがする。


 書店へ行く道のりを、少しだけ遠回りする。散歩で時間を過ごすのも良いかもしれない。私は足を公園に向け、のんびりと歩いた。

 近所の公園は、昼休憩中らしきサラリーマンがひとりと、私と同じく散歩中のお年寄りとその飼い犬、それから地面に木の枝で絵を描いて、ひとりで遊んでいる幼い男の子がひとりいるだけだった。桜の木がすっかり緑色に染まっている。気の早い蝉が鳴きはじめているようで、どこからか声がした。


 閑散とした公園を歩いていて、ふと気づく。砂に絵を描く男の子は、ぐすぐすと涙を流しているではないか。小学校低学年くらいだろうか。黒髪にしてはやや明るめの、茶色っぽい髪をしたかわいらしい顔をした少年だ。小さくしゃがんで地面をつつき、ひっく、としゃくりあげている。

 そういえば、この子はどうしてひとりぼっちでこんなところにいるのだろう。友達らしい子供はいないし、親も見当たらない。


 少年は大きくて歪な丸を描いて、その下になにか、四本脚の動物のようなものを描いている。犬だろうか、遠目ではちょっと判別できない。

 涙に気づいてしまったらそのまま目を逸らすわけにもいかない。だが話しかけようにも、このご時世、知らない大人が話しかけたら警戒させてしまう。迷っていると、少年は描いた絵の上に手のひらを翳し、砂を擦って絵を消してしまった。咄嗟に、声が出る。


「あっ」


 その声に反応して、少年が顔を上げた。びっくりした顔の彼と目が合い、私は下手に後に引けなくなった。


「え、えっと……消しちゃうんだ、と思って」


 少年は目をぱちくりさせていたが、やがてぽそっと言った。


「上手じゃない、から」


「そんなことないよ」


 なんの絵を描いていたのかはしっかり見えなかったくせに、反射的にフォローする。少年は自分で絵を消した地面に目を落とし、数秒沈黙した。それからまた、消えそうな声を出す。


「でも、褒めてくれる人、いない」


「それは……」


 どういう状況なのか、分からない。だがこの少年が寂しそうなのはたしかで、見れば見るほど放っておけなくなってくる。


「それは、さ。私が褒めるから」


 我ながら、なにを言っているのか。でもそれくらいしか言葉が浮かばなかった。少年は僅かに目を上げ、聞き返してきた。


「お姉さん、一緒に遊んでくれるの?」


「ああ、ええと……」


 蝉の声がする。知らない子と遊んでいて通報されるのも困るが、この流れで突き放すのは忍びない。私は少し考えて、少年の前にしゃがんだ。


「私、深琴。いいよ、一緒に遊ぼう」


 どちらにせよ、私はこの意味深な発言をする少年を放ってはおけない。どうせ今日は、特にすることがないのだ、少しくらい、この子と過ごすのもいいだろう。

 我ながら不思議な気分だ。今まではこんな気持ちになることなんてなかったのに、この見知らぬ少年に意識が向いて、話を聞いてあげたいと思った。私自身に余裕が生まれた証拠だろうか。

 少年はぱあっと目を輝かせた。


「本当!? 僕、宙人ひろと。深琴お姉ちゃん、お友達になって!」


「うん」


 ああ、なんて純粋な目だろう。心が洗われるようだ。どう対処すべきか戸惑いはあったが、やはりこの選択は正しかった。

 少年、宙人くんは、消した絵の前からすっと立ち上がった。


「深琴お姉にちゃん、来て! 秘密基地に連れて行ってあげる!」


 彼は私の手を取ると、元気よく走り出した。突然のことに、私はふらつきながらも引っ張られるまま追いかける。


「えっ、ちょ、ちょっと!?」


 戸惑う私を連れて、宙人くんは迷いなく駆けていく。どこへ行くのだろう。お絵描きをして褒められたいのではなかったのか。

 犬の散歩をする人の脇を通り抜け、ベンチで休むサラリーマンの前を通過する。公園の端から広がる緑地へと、宙人くんは入っていく。


「秘密基地って、どこにあるの?」


「えへへ、こっち!」


 顔だけ振り向いて笑う宙人くんを見ていると、驚いたのもどうでも良くなってくる。ひとりで泣いていたこの子が今こんなに楽しそうなら、まあいいか。

 木漏れ日が眩しい。宙人くんの丸みのある後ろ頭に、まだら模様の光と影が落ちている。

 緑地を走っていると、蝉の声が少し強まった。木の上にいるのだろう、先程までは遠く微かだったその声が、わんわんと降り注いで聞こえる。

 久しぶりに走ったせいか、頭がくらくらしてきた。


「待って、宙人くん。少し休みたい」


 酸素が足りない。久々の運動に体がついていかない。

 蝉の声はみるみる大きくなっていって、より頭が重くなってくる。目眩がする。感覚が、狂ってくる。なんだろう、ぼうっとする。

 蝉の声の合間に、宙人くんの声がする。


「こっち、こっち」


 気絶するのではないかというくらい不安定な感覚の中、宙人くんの声だけが私の意識を保たせる。手を引かれ、導いていく。

 と、突然、体が浮いた気がした。


「あれ……?」


 目の前が真っ白になった。

 遠のいていく意識の中、私は「熱中症かな」なんて妙に冷静な自己分析をしていた。


 *


 どれくらい眠っていたのだろう。体の疲労感からして、多分一瞬意識が飛んだだけ、だと思う。

 私はゆっくりと、瞼を開いた。

 まず目に飛び込んできたのは、真っ青な晴天だった。頬に砂利が触れる。どうやら私は仰向けで倒れているようだ。軋む体を起こすと、すぐ隣から声がした。


「あっ、起きた」


 そこにいたのは、宙人くんである。体育座りで微笑む彼の向こうには、見慣れた公園の景色があった。


「あれ……? 私、いつから倒れてた?」


「衝撃が強すぎちゃったかな。深琴お姉ちゃん、全然起きないから死んじゃったかと思った」


「そんなに?」


 私は肩を強ばらせ、周囲を見渡した。よく知っている、近所の公園だ。でも、周りに人はいない。私と宙人くんだけだ。

 意識を失う前の記憶を呼び起こす。私はこの公園で宙人くんと出会い、一緒に脇の緑地を走っていたはずだった。


「ごめんね、なんか私、途中で熱中症かなんかになったみたい」


 突然倒れたりして、宙人くんをさぞ驚かせただろう。私はくらくらする頭を支え、宙人くんと目を合わせた。


「介抱してくれたのかな。ありがとう」


「大丈夫?」


「うん。さ、もう誰もいないし、そろそろおうちに帰ろうか。送ってくよ」


 立ち上がろうとすると、宙人くんは、きょとんと首を傾げた。


「ん? おうち? 深琴お姉ちゃんは、今日からここがおうちだよ」


「……はい?」


 一瞬、なにを言われたのか分からなかった。いや、考えても分からない。宙人くんがにこりと笑う。


「ここは空気中の成分も重力も、地球の環境に似せてある。ここにいれば、死なないよ」


「なにを……言って……」


 ふいに、どこからか機械音らしき音声が響いてきた。


「システムhakobune・テラクリエイトナンバー・エーマルマルヨンゴーヨン、探査コードネーム宇野宙人。ポイント獲得」


「えっ、なにこの音」


「やったー!」


 宙人くんが両手を振り上げる。私はまだ、事態に置き去りにされていた。なにがなんだかさっぱりである。

 宙人くんがにこにこスマイルでこちらを向いた。


「深琴お姉ちゃんのお陰で、僕にもポイントが入ったよ。これで褒めてもらえる。ありがとう!」


「なにこれ……?」


 困惑する私に、宙人くんは怪訝な顔になった。


「喜んでくれないの?」


「ええと、ごめん。どういうことか、なんにも分からなくて。ポイントってなに?」


「そっか、分かった。教えてあげる。そうだなあ、深琴お姉ちゃんの星の、深琴お姉ちゃんの国の言葉で言うと……“お仕事”みたいなものかな」


 宙人くんが足首だけ組んで言う。


「キャトルミューティレーションって知ってる?」


 キャトルミューティレーション……昔アメリカで起こった事件の名だ。家畜が宇宙人に攫われたとか、なんとか。


「名前くらいは知ってるけど……」


「それだと思って。深琴お姉ちゃんは、僕の牛」


 かわいらしい少年の甘い声で、淡々と語られる。


「僕らは今、各々が探査する星の生物や物質をマザーシップに回収して、その生態を調査してるんだ。僕の担当はテラ……地球。この部屋は、集めた生物、物質を収容しておく場所。通称『秘密基地』」


 説明を受けたところで、やはり分からなかった。


「えーっと、宇宙人ごっこ?」


「ううん。あの星にあったあの公園、というか、あのエリアをコピーしただけで、ここは僕らの船の中だよ」


 頭の中が真っ白になる。


「星……船……え? なにその言い方。まるでここが地球の外みたいな……」


「うん、そうそう! これは宇宙探査船hakobune! 僕たちのマザーシップさ」


「なにその冗談……面白いね。笑えないけど」


 頭にいくつもの疑問符を浮かべている私に、宙人くんは続ける。


「深琴お姉ちゃんみたいな高等生物の回収は初めてだから、反応を見るのも初めて。そうか、受け入れられないか。まあそりゃそうだよね、テラの技術では考えられない状況だもんね」


 ああ、多分これは夢だ。

 久しぶりの運動で、体が限界に達して倒れたのだろう。これは魘されながらみる白昼夢だ。そうでなくちゃ嫌だ。


「嘘だ」


 弾かれたように立ち上がり、駆け出す。背中に宙人くんの声が響く。


「深琴お姉ちゃん、どこ行くの!?」


 街路樹の立つ歩道へ飛び出し、見慣れた町を見回しながら走る。人も、他の生き物も、なにもいない。道路はしんと静まり返り、車一台走っていない。全てが、異様だ。まるで私だけを取り残して、全ての生き物が消えてしまったかのような。

 停まっている車を見つけて、転げるように駆け寄る。窓を叩いて、叫んだ。


「すみません、すみま……」


 しかし、車の中にも誰もいない。

 私は冷や汗を拭い、また走り出した。自宅アパートに辿り着き、階段を駆け上がる。隣の小春の部屋の扉は、出かける前に見たのと全く変わらない。むろん、私の部屋も同じ。


 持っていた鍵で部屋を開け、中に飛び込もうとした、その瞬間だ。

 足元がぐらっとして、体が沈みかけた。扉の向こう、私の部屋は……いや。そこに私の部屋はなかった。真っ白なだけの空間が、延々と続いている。

 呆然と立ち尽くす私の背中に、少年の声が届く。


「ごめんね、コピーの精度はそこまで高くないんだ。個々の家の中までは描き込まれてなくて……」


 宙人くんの優しい声が、私の背中をぞわぞわさせる。脚が震えて、私はその場にがくりと座り込んだ。


「わ、大丈夫?」


 私の横に宙人くんがしゃがみこみ、こちらを覗き込む。


「どうしたの? 悲しいの? どこか痛いの?」


 しばらくの間、私は凍りついたまま思考が動かなかった。

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