雨が上がれば
数日後。いつの間にか雨が降る日が少なくなって、コンビニのキャンペーンも終わってしまった。当然、私たちの日常からも、雨の日のルールは消えた。
でも、あのコンビニへは今も変わらず出向く。
仕事帰りに立ち寄った私を、自動ドアが出迎える。
「いらっしゃいませー」
「しゃーせー」
間延びした声が、ふたつ重なって聞こえた。
私は店内を見渡した。レジには若い女性店員と、最近入った大学生くらいの外国人の男性がいる。
無精髭の店員は、あの日以来見なくなった。
私は彼に、助けてもらったお礼にと、菓子折を持ってこの店を訪れている。しかしそのときにいたオーナーによれば、あの店員は唐突に辞めてしまって、それ以来連絡がつかないとのことだった。
彼の名前は、妖崎精一郎さんというそうだ。
今日もこのコンビニを訪れた私は、無意識的に店を見回し、彼がいないか探してしまっていた。もう辞めてしまったと聞いても、ここに来ればまた会えるような気がしてしまう。とはいえ、いないのが現実だ。私は明日の昼用にパンをふたつ買って、店をあとにした。
アパートに帰ると、入口で偶然、小春と会った。
「おっ、深琴。お疲れ様。今帰ってきたの?」
「うん、コンビニ寄って帰ってきた」
部屋が隣同士の私たちは、一緒に階段を上がった。私の手の中で、コンビニの袋がカシャカシャと音を立てる。私は徐に、小春に尋ねた。
「あのさ、小春。ちょっと前まで、近所のコンビニに不思議な人がいたんだけど、知ってる?」
「不思議な人?」
あの出来事は、未だに消化しきれていない。強盗の握る刃物が、突然、花に変わった。まるでマジックみたいだったが、強盗もびっくりしていた。あれは多分、いや絶対、あのとき後ろにいたあの人が……。
事情を話したら、小春はまず私が強盗に遭っていたことに驚いたあと、そうね、と続けた。
「その店員、多分あれね。妖精」
「妖精……?」
あまりに可憐な響きに、耳を疑った。
「いやいや、普通の見た目のおじさんだったよ。妖精って小さくてきらきらしたものじゃないの?」
そんなまさかと思った。いや、自分の周りに悪魔やらハルピュイアやらがいるから、コンビニバイトに妖精が潜んでいること自体はすんなり受け入れられる。受け入れるのもどうかと思うが。ただあの野暮ったい無精髭の冴えない店員に、「妖精」なんてファンシーな響きがミスマッチな感じがするのだ。小春がさらりと続ける。
「妖精にも種類があるからね。深琴が想像するような小さいものは、所謂ピクシー系。他にもエルフとかドワーフとかゴブリンとか、いろんなのがいるのよ。かわいいものから、悪さをする不気味なやつまで」
彼女は腕を組み、虚空を見上げた。
「たしかゴブリンの一種に、そういうのがいた気がする。なんか、鳥の羽根で作ったステッキを持ってて、物体を花や葉っぱとすり替える……そんないたずら程度の魔法を使うやつ」
そういえば、あのときあの人は、鳥の羽根のハタキを持っていた。
「その程度の魔力しか持たないんだけど、魔法を一度使うために百年も魔力を溜めなくちゃならないっていう」
「百年も!?」
「しょぼい魔法しかできないのに、一度使ってしまったら、魔力を使い果たしてしまう。そしたら自分の姿を知る人間から離れて、遠く新しい場所でまた百年魔力を溜め直すんだって」
頭の中に、数日前のその光景がリアルに蘇る。強盗の持つ刃物が無害な花に変わった、あの奇跡の瞬間。
「じゃあ、あの店員さん、百年もかけて溜めた魔力を、私のために使ってくれたの……?」
「かな。直接会ったわけじゃないし、話したこともないから、定かじゃないけど」
小春があっさりした口調で言う。
信じられなかった。彼とはレジで必要最低限の会話をするだけで、特に親しいわけでもない。魔法の力が貴重なものだったのなら、私なんかよりもっと大切な場面で使うべきだったのではないか。
でも、鳥の羽根のハタキ、刃物が花に変わる魔法、音信不通……妙に辻褄が合う。
階段を上り終えて、それぞれ部屋の前に着く。小春は部屋のドアノブを捻りつつ、私に目線を投げた。
「なんで私なんか助けたの、って思ってるでしょ」
頭の中を言い当てられて、どきりとした。強ばる私に、小春はふっと微笑みかける。
「これは私の想像だけどさ。妖精さんも、咄嗟に体が動いたんだと思うよ。きっと優しい人だから、考える間なんてなかったんだよ」
なるほど。自分の働く店に強盗が押し入った緊急事態だ。慌ててしまったのかもしれない。小春はひとつ、まばたきをした。
「でも、後悔もしてないと思う。妖精といったって、人間に交じって働いていれば人間にと同じ目線に立ってるからさ。毎日買い物に来る深琴を覚えてて、ゆっぴとの会話を聞くの、楽しんでたんじゃないかな」
コンビニに行くまでの道のりで、死にかけた日があった。そうでなくても私はしょっちゅう死にかける。強盗に人質に取られたのは初めてだったが、死を覚悟するのは初めてではなかった。
だけれど、そんな私の命を助けるために、百年を投げ打ってくれた人がいた。名前も知らない私のために。
廊下で立ち尽くしていると、自分の部屋の扉が内側から開いた。
「みことっち、お帰りー!」
顔を出したのはもちろんゆっぴである。小春が怪訝な顔をするも、ゆっぴは気にしない。
「ねえみことっち、帰ってきたところ早速で悪いんだけど、あたし甘い物食べたい! コンビニ行こ!」
「さっき行ったとこ」
「もっかい行こう。新作スイーツが今日から発売だぞ!」
ゆっぴは今日も絶好調に、色んな意味で私を誘惑してくる。でも改めて私は、まだ残りふたつの望みを口にはできないと思った。
私を助けようと、百年に一度の大切なものを使ってくれた人がいる。そう考えると、その先の一分一秒を無駄にできない。
「新作スイーツね。コンビニ、行こっか」
今日は雨ではない。キャンペーンももう、終わってしまった。特別なご褒美の日はなくなって、普通の日常が帰ってきた。
それでも私は多分、これからもあのコンビニに通い続けるだろう。




