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マイスイート・ハニーデビル  作者: 植原翠/新刊・招き猫⑤巻
Ep.6・アフターザ・レイン
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雨の日の新習慣

 翌日、また雨が降った。朝は晴れていたけれど、午後からぱらぱらと霧のように降り出すタイプの雨模様だった。降るだろうとは予想していたので、傘を持って出かけて正解だった。

 仕事から帰ってきた私が部屋の扉を開ける前に、ゆっぴが先回りして開けてきた。


「おかえり! みことっち、コンビニ行こ!」


「え? ああ、半額キャンペーンか」


 畳んだばかりの私の傘を、ゆっぴが横から奪って勢いよく開く。


「行くべ! 昨日のチョコケーキ、また食べたい」


「同じのにするの? 昨日最後まで迷ってたプリンは?」


「そうだった、それも食べたい!」


 雨が降る町を、一本の傘にふたりで歩いていく。雨音の中のゆっぴの声は、昨日以上に弾んで聞こえた。

 ぼんやりとそんなことを考えていると、ゆっぴが私の横で甲高い声を跳ねさせた。


「あっ、みことっち!」


 え、と思ったときには、私の体は突き飛ばされていた。思考が止まる。止まっているなりに、衝撃を受けた方向に目を向ける。歩道に乗り上げた大きなトラック。私の手を離れて、遠くへ飛んでいく傘。しっとりと体にしみていく冷たい雨。

 私は歩道の隅っこに吹っ飛んで、転がり、寝そべったまましばらく起き上がれなかった。


「みことっちー!」


 ゆっぴの声が雨音に霞む。トラックのドライバーが運転席から降りてくる。雨のせいで顔がよく見えないが、慌てているのは分かる。

 私は、痛む体を軋ませてのっそり起き上がった。


「びっくりしたー……」


「うおっ、生きてる系?」


 雨の向こうでゆっぴが顔を顰める。私はびしょ濡れの体を軽く見渡した。どこも痛くない。突然の出来事に驚いたけれど、それだけだ。トラックのドライバーが青い顔で駆け寄ってくる。


「すみません、タイヤがスリップして! お怪我は……!?」


「いえ、どこも」


「ひとまず良かった。すぐ救急車を呼びます」


 ドライバーが雨の中で携帯を取り出すも、ゆっぴが私の腕をぐいぐい引く。


「死んでないんだからいーんじゃね? それよりスイーツ! 売り切れちゃう!」


「えー……私、今トラックにはねられたんだけど。でも、たしかにスイーツの方が大事か」


 私は立ち上がり、ドライバーに一礼した。


「すみません、大丈夫なので。お兄さんもお気をつけて」


「えっ、ええっ!?」


 ドライバーが困惑しているのを置き去りにして、傘を拾い、ゆっぴに引きずられるようにコンビニへ向かった。

 コンビニに到着してから思ったのだが、事故に遭ったときは例えその場で痛みがなくても病院に行くのが決まりである。でもドライバーの連絡先も聞いていないし、多分私は簡単には死なない気がするし、まあいっかと開き直る。


 一度傘を手放してしまったせいで、私もゆっぴもずぶ濡れである。外で服の裾を絞ってから入店したが、それでも床がびしょびしょになる。掃除をしていた無精髭の店員が、私たちの姿を見てぎょっと目を丸くする。お尻のポケットから覗く羽根のハタキが、ちょっとかわいい。


 ゆっぴはスイーツのコーナーに直行し、私はサンドイッチの棚に寄り道した。ついでだから、夕飯もここで買ってしまおうと思う。

 無精髭のおじさんの他に、レジには学生バイトと思しき若い女性店員がいる。店内を見渡してもあまり客はおらず、静かだった。

 そんな中、ゆっぴの甲高い声がやけに響く。


「わー、どれにしよう!」


「チョコレートケーキかプリンか?」


 サンドイッチを片手に、ゆっぴのいるスイーツのコーナーに向かう。ゆっぴは真剣な顔でスイーツを見比べていた。


「チョコレートケーキかプリンか、シュークリームかミルクレープか……」


「選択肢増えてるね」


「見たら全部食べたくなった。でもー、でもー、ここで全部買ったら、明日以降の楽しみが……」


 ゆっぴは大真面目に頭を抱え、そしてぽんと手を叩く。


「おいしいものは毎日食べたっておいしいんだから、雨の日の度に欲しいもの全部買えばいいのでは?」


 そしてもう一度手を叩く。


「なんなら晴れの日でも買えばいいのでは? そうだ、みことっち。『雨の日にどれかひとつ』というのはあたしたちが決めたルールにすぎない。無視しても良いのでは!?」


 一瞬「たしかに、好きなだけ買えばいい」と納得してしまった。しかし我に返り、自制心を働かせる。ゆっぴの悪魔の囁きに負けてはいけない。


「こらこら、ルール違反だよ」


「そう言わず。今日はみことっちに、トラックに轢かれて散々だったんだしさ。ちょっとくらい特別にスイーツ十個ずつくらい買っても良くね?」


「ゆっぴは轢かれてないよね? それに私はまだ、茉莉花さんを目指してるんだよ。ダイエットらしいダイエットはやめたけど、目標が変わったわけじゃない。食べ過ぎは良くない」


「みことっちはもっと自分に甘くなろうよ」


 ゆっぴがしつこい。たしかに私は、小春からも「我慢しすぎ」と言われていた。でも、あの頃の私は疲れきって甘え方を忘れていたのであって、今の私の我慢とは違う。


「なんと言われようと私はひとつに絞る! このクリームチーズのプリンに決めた」


 プリンを掴んで籠に入れると、ゆっぴが裏返った声で叫んだ。


「あーっ! それ、あたしも迷ってたやつ!」


「じゃあひと口あげる」


「やった! ほいじゃ、みことっちにもあたしのひと口あげんね。どれがいい?」


 このなにげないやりとりが「恋人とのひととき」っぽくて、幸せだなあと思った。

 その日は私がプリン、ゆっぴはシュークリームに決めて、加えて夕飯のサンドイッチを買って、店を後にした。帰る頃には、トラックとの衝突事故なんかすっかり忘れていたのだった。


 *


 その翌日は、久しぶりに晴れた。朝出かける前の私の後ろで、ゆっぴが不服そうに窓の外を睨んでいる。


「雨降れし。今日はきなこわらび餅食べる予定なんだから降れし」


 あんなに雨を嫌がっていたくせに、わがままである。でも気持ちは分かる。雨が億劫でありながら楽しみでもあるのは、私も同じだ。


「そうだなあ、今日は夕飯も作り置きを食べればいいし。コンビニに行く理由がないなあ」


「てか定価で買えば良くない? きなこわらび餅買おうよ、みことっち!」


「いやいや、私はまだ茉莉花さんみたいになるのを諦めてないって何度も……」


 ああでも。今日は昨日から持ち越した面倒な仕事を抱えている。今日が忙しい日になるのは、朝の時点から判明しているのだ。なにか楽しみがないとやる気が出ない。コンビニに向かってゆっぴの隣を歩く、あの短い時間に詰まった幸せが恋しい。

 鞄を手に提げて、私はぽつりと言った。


「ご褒美デーということで……」


「よっしゃ来たー!」


 ゆっぴは飛び跳ねて喜んで、羽ばたいて浮いて宙返りまでした。我ながら、自分にもゆっぴにも甘い。でも、その分仕事を頑張れば良いのだ。自分にそう言い聞かせ、私は家を出た。


 *


 その翌日は文句なしの土砂降りだった。逆にコンビニに行くのが危険なのではないかと尻込みするほどの大粒の雨で、風も強い。今日はお休みするつもりだったが、当然、ゆっぴがそれを許さない。


「大雨なんだからスイーツでしょ!?」


「そうだけども、この雨じゃ外歩くの危ないよ」


「大丈夫だって、みことっち死なないじゃん」


 ゆっぴがあまりに騒ぐので、根負けした私は傘を広げた。ゆっぴと共にコンビニへ向かう。

 こんな習慣ができたのに、ゆっぴは自分用の傘を用意したりはしない。私も用意しない。傘は相変わらず一本だけ。傘の中という狭い空間は、雨に閉ざされたふたりだけの世界のようで、肩同士がぶつかる距離が心地よかった。


「ミルクレープもいいけど、あのチョコケーキも捨てがたいな」


「今回はミルクレープにするんじゃなかったの?」


 ゆっぴと取り留めのない話をしながら、短い道を歩く。大雨の中、無事にコンビニに着いた。傘立てに傘を突っ込んで、自動ドアを開ける。無精髭の店員が、眠たそうに仕出ししている。レジにはもうひとり、小柄なおばさん店員が立っていた。

 ゆっぴはスイーツのコーナーに駆け寄ると、きらきらした目で商品を眺めはじめた。


「やば! 今日めっちゃ充実してんじゃん。大雨だから客足遠のいてる的な?」


「ああ、かもしれないね」


 私も彼女の追いかけて、スイーツの列に目をやる。ゆっぴの目的だったミルクレープがある横に、新発売のいちごクリーム大福が増えていた。ゆっぴはすぐさま、ふたつとも手に取った。


「うわー、迷う。迷うくらいなら両方買うか」


「また言ってる……」


 そんなやりとりをしていたときだった。


「動くな!」


 急に、後ろから襟首を引っ張られた。肩を引き寄せられ、背中からがっしりと首を押さえつけられる。

 しばらく、なにが起きたか分からなかった。ただ目の前で、きょとん顔のゆっぴと真っ青になったレジの店員たちが絶句している。

 ちょんと、喉元に冷たいものが触れた。ちらりと目線を下げて確認すると、視界にきらっと、銀色の刃が飛び込んできた。


「えっ、え!?」


 困惑する私の耳元で、男の太い声がした。


「レジの金を全部出せ。今すぐだ」


 動かした目線の先には、サングラスにマスク顔の大柄な男。キャップ帽を被っていて、顔も髪型も年齢層すらも分からない。

 そのとき私はようやく、自分がコンビニ強盗の人質にされたのだと気がついた。

 こういうとき、咄嗟に体が動かないものである。否、がっちりと掴まれて身動ぎもできないし、無理にもがいたら強盗の持つ刃物が喉に当たるから、動けないのだが。

 しばらく、店内に沈黙が流れた。凍った空気を破壊したのは、ゆっぴの声である。


「えっ、み、みことっち」


 途端に、強盗の腕が私を強く締め付ける。


「騒ぐな」


 しょっちゅう死にかける私でも、強盗の人質になるのは初めてだ。驚きのあまり、一周回って冷静でいられる。

 取り押さえられているせいで、首が動かなくて視界が狭い。正面に見えるレジカウンターで、店員のパートのおばさんが凍りついている。私以上に焦燥しているのが分かる。


「あの……今日はオーナーがいなくて……」


「いいから金を出せ!」


 男の腕に一層力が込められた。ぐいっと締め付けられ、喉に刃物の先が触れる。

 パートのおばさんはパニック状態のようで震えて動けない。私の喉から離れない刃、どうにもできずに立ち尽くすゆっぴ。


 ゆっぴは普段見ている表情からは想像できないほど、蒼白な顔で固まっていた。彼女のあんな表情は見たことがない。見たくない。ゆっぴにそんな顔をさせたくない。

 今すぐこの強盗を殴り飛ばして、ゆっぴに駆け寄りたい。そんな衝動に駆られた、その瞬間。


 ふっと、喉に触れる冷たい感触が変わって、尖ったチクリとする痛みを感じなくなった。代わって、やけにふにふにと柔らかいものが喉を擽る。

 カウンターのおばさん店員が、目を丸くして絶句している。ゆっぴも、笑うのをやめて目をぱちくりさせた。

 強盗さえも、素っ頓狂な声を出す。


「……は?」


 なにかが、起きた。でも見えない。


「えっ、なに?」


 首が回らない私だけが、置いていかれている。強盗がふるふると、私の首から刃物「だったもの」を離した。


「な、なんなんだよ、これは!」


 握っていたそれを、前に突き出す。彼の仕草で、私の目にも見えた。

 強盗の右手に握られていたのは、白い花びらにいきいきとした緑色の茎と葉、可憐な一輪花だったのである。

 これには驚いた。この男が握っていたものは、たしかに刃物だったはず。いつの間に白い花に切り替わったというのだろう。

 しばらく固まっていたゆっぴが、再び火がついたみたいに笑い出す。


「やっばー! かわヨ! えっ、やばマジウケるんですけど!」


 そして人差し指を突き立て、私の後ろの強盗、の、さらにその後ろへ投げかけた。


「おじさん、めっちゃユーモアあんね!」


 強盗の腕の力が弱くなっている。私は少し首を回して、自分の背後を確認した。

 後ろには、仕出しをしていた無精髭の店員が、床に尻もちをついている。そして震えながら、こちらに向かって掃除用のハタキを突き出していた。

 彼が真剣な顔で、肩を震わせながら、か細い声で言う。


「お客さんを、離してください……!」


 なにが起きたのかは、未だによく分からない。でも、私の動きを制限する刃物がなくなったのは紛れもない事実だ。

 ゆっぴが腹を抱えて笑いながら、スマホを向けて写真を撮りまくっている。途中で向きを変え、ゆっぴ自身も入るようにインカメラでも撮りはじめた。


「はー、めっちゃ笑う。自撮ろ。これモンスタグラムに上げていい?」


 平常心の彼女を見ていると、私も落ち着いていられる。私は身を捩って、強盗の腕を振り解いた。


「それ、バズるの?」


「バズるっしょ。てかみことっち、コンビニ強盗にまで遭うとかどんだけ死亡リスク高いん!?」


 ゆっぴの切り替えの早さは羨ましい。彼女が笑っていると安心して、体の力が抜ける。

 人質に抜けられた強盗は、しばらく花を握って打ち震えていた。そしてやがて、がくりと膝をつく。


「くそ……俺はどうしてこう、なにをやっても上手くいかないんだ」


 そんな彼に、無精髭の店員が静かに呟く。


「やり方が悪いからですよ。どんな事情があるのかは存じませんが、無関係のお客様を巻き込んで強盗なぞして、人生が上手くいくはずなどないのです」


 強盗にも驚いたけれど、この店員はなんなのか。

 レジカウンターでは相変わらずおばさん店員が惚けていて、私の横ではゆっぴがけらけら笑っていた。

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