雨で翼が湿気る
五月下旬。この頃、雨が多くなってきた。この日曜日も、朝からずっと雨である。そんな昼下がり、ゆっぴが部屋の中で突っ伏していた。
「もう雨ばっかでマジサゲなんですけど。翼湿気るじゃんマジウザイ」
彼女は雨の日は悉く不機嫌である。
「折角みことっちお休みなのに、どこにも遊びに行けないし、ジメジメしてるし、みことっちは望み言ってくれないし」
「私が望みを言わないのは晴れてても同じじゃない?」
私は壁に背中を預けて、会社で貰った地元の情報誌を捲っていた。
ゆっぴが寝返りを打つ。
「にしても、みことっちの死ななさ加減、流石に異常すぎっしょ」
「ね。そろそろ、自分でもそう思うよ」
昨日、私は職場の屋上の掃除をしていて、うっかり足を滑らせて落っこちた。五階建てビルの屋上から落ちたというのに、私は運良く死ななかったどころか無傷だった。流石に自分でも驚いたが、二十三年も死を躱し続けただけはあるなと我ながら感心する。
どうしてこんなに死なないのか、私自身も不思議になってきた。ゆっぴは仰向けになって翼を背中で押し潰し、彼女は不機嫌な声で言った。
「前にさ、『死なない人間もいるのか、死神大先生に聞いてみる』って言ったしょ。あれ、こないだマジに行ってきた。死神大先生のとこ言って質問タイムしてきたわ」
そういえば以前、ゆっぴはそんなことを口走っていた。
「おお、どうだった?」
好奇心半ばで聞いてみると、ゆっぴは急に、鼻にかかった声で舌っ足らずな口調になった。
「はあ? 死なねー人間? んなもんいるわけねーだろバァーカ」
そして、ふうとため息をつく。
「って、言われた」
「今の、『死神大先生』の物真似?」
「うん」
「そういう喋り方なんだ」
死神大先生なる存在の声色や態度はさておき、やはり「死なない人間」などいないようだ。とあれば、私はやはり運悪く死にかけるわりに運良く死なない、そういう運命にあるらしい。
ゆっぴが投げやりな声を出す。
「あ、あと、『俺も地上にバカンス行きてーなー』ってボヤいてたよ。あたしはバカンスじゃなくて仕事だっつの。失礼しちゃうな」
雨の音に混じって、私が捲る地元情報誌の紙の音が静かに響く。新規オープンした雑貨店のインタビュー記事のページを開いているが、意識は上の空でまともに読んではいない。
ゆっぴが窓に顔を向け、唸る。
「雨止まねーしサゲサゲのサゲすぎて無理」
「まあ、暇だよね」
正直私も、この雨にはうんざりしている。情報誌を見ているのも興味があるからではなく、ただ暇だから開いているだけだ。パラパラと捲っていると、ふと、あるページが目に止まった。
「あっ。ここから徒歩五分のコンビニ、雨の日はスイーツ半額キャンペーン中だって。梅雨の時期限定で」
「はあ!? やば! ブチアゲなんだけど!?」
つい数秒前までサゲサゲのサゲだったゆっぴが、一気に興奮して勢いよく飛び上がった。弾かれたようにこちらに飛びついてきて、私の持つ情報誌を覗き込んでくる。私が記事を指さすと、ゆっぴはぱあっと翼を広げた。
「天才の所業!」
*
雨の日は翼が湿気る、と、ゆっぴは言っていた。それでも彼女は、チャームポイントの翼を畳んで背中に隠し、傘の下を歩いていた。嫌いな雨の中へと繰り出すほど、彼女はコンビニの半額スイーツに惹き付けられている。
「本当は飛ぶ方が速いんだけどね。雨の中だと濡れるからさ」
透明のビニール傘の中で、ゆっぴの横顔が呟く。雨の音が鼓膜を擽る。私は降り注ぐ雨粒で霞んだ視界に、じっと目を凝らした。
「晴れててもあんまり飛ばないでよ。小春も言ってたけど、地上の人間は飛んでる人を見るとびっくりするからね。ところで……」
吹き込んでくる雨が、傘の中の私たちを濡らす。傘の柄は、私が握っていた。
「傘、一本しかないのにふたりで出かける必要あった?」
ひとり暮らしの私の家には、傘は自分用ひとつしかない。会社に置き傘があるけれど、部屋に置いているのはこれだけなのだ。だったら一方がもう一方の注文を聞いて、ひとりで出かけて買ってくればいいと思うのだが、ゆっぴがそれを許さなかったのである。
「スイーツは実物見て自分で選びたいじゃん!」
「私はそこまではこだわらないけど……」
「チョコプリンの気分だったとしても棚に並んでるのを見たら急にミルクレープ食べたくなることあるでしょうが!」
「あるけどさあ」
ゆっぴと相合い傘できるのは、内心ガッツポーズである。しかもゆっぴ自ら申し出てきた。雨の日様々である。
雨音が断続的に続く中でも、至近距離のゆっぴの声はクリアに耳へ届いてくる。
「それにさ! 雨の中歩くと死ぬチャンス多めじゃね? みことっちっていつ死ぬか分かんないから、あたし、目を離すわけにはいかない」
「気をつけて歩くね」
そんな会話をしているうちに、コンビニに着いた。軒下に入って傘を畳み、傘立てに差し込む。慌て気味に店内に入り、すぐに扉を閉める。扉で外の音が遮られて、雨音が急に遠のく。
草臥れた感じの無精髭のおじさん店員が、レジの内側からもごもごと篭った声で言う。
「いらっしゃいませ」
濡れたロングヘアを指先で弄りながら、ゆっぴはスイーツの並ぶショーケースへと直行した。ケースのあちこちに「雨の日半額」のポップが貼り付けられて、カラフルに目立たせられている。このキャンペーンのお陰だろう、スイーツはだいぶ売れていて、ショーケースの中は隙間だらけだった。
ゆっぴがプリンやケーキを次々と手に取って、籠の中へ並べていく。
「これと、これと、これもおいしそう」
「全部買うの?」
目を剥く私に、ゆっぴは平然と頷く。
「だって半額だよ。みことっちもいっぱい買おうよ」
「ついこの間までダイエットしてたの知ってるでしょ」
「だからこその解禁祝いっしょ」
「意味ないじゃない」
私はゆっぴの籠の中のスイーツたちに目を落とした。たしかに半額キャンペーンは魅力的だが、一度にこんなに買ったら今度こそ自制心を失ってしまう。こんなところで悪魔に心を売ってはいけない。頑なに買おうとするゆっぴに、私は提案した。
「じゃあゆっぴ。これから、このキャンペーン中は雨が降ったら買いに来るなんてどう?」
途端に、ゆっぴの顔がくるんとこちらに向いた。
「雨の度に? それってほぼ毎日スイーツ買いに来れるってことじゃね!?」
「そうだね、毎日のように雨降るもんね。とすると、一度に一気に買ったら明日以降飽きちゃうよ?」
そう諭すと、彼女は目から鱗な顔で数秒停止し、ハッとして籠の中のスイーツと睨めっこをはじめた。
「ええー、じゃあ今日はどれにしよう……どれを諦める……? 諦めても明日以降に回すだけだけども」
ゆっぴの説得に成功した。私はほっと息をつき、改めて並んでいる商品にひととおり目を通した。並んでいる商品はどれもおいしそうで、ひとつに絞るのがなかなか難しい。ゆっぴみたいに贅沢な買い方をしたくなるのも分かる。
その中で私は、ベリーのソースがかかった小さなチョコレートケーキを選んだ。
「ほお、それにするん?」
ゆっぴが顔を寄せてくる。私はケーキのパッケージをじっくり眺めた。
「これ、紅里くんがおいしいって言ってた」
「あー、あいつコンビニスイーツ大好きだもんね」
ゆっぴが妙に納得している。
紅里くんと初めてあった日も、彼は昼休みにコンビニへ行ってプリンを買ってきてくれた。どうやらそういうお菓子が好きらしく、毎日のようにコンビニスイーツを持ってきている。そんな彼のおすすめのケーキなので、間違いなさそうである。
ゆっぴもよし、と口に出して同じケーキを手に取る。
「アカリンのお眼鏡にかなったケーキ、あたしも食べてやろうじゃん」
私たちはやっと意思を決め、ふたつのケーキをレジに持っていった。空いている店内ではレジに列はなく、無精髭の店員にすぐに会計をしてもらえた。
袋に入れてもらったケーキを提げ、店を出る。背中に店員の眠たげな挨拶が聞こえた。
再び雨の中を歩き、自宅アパートへと戻る。
「ただいま」
扉を開けながら癖で呟く私と、ぱたぱたと上がっていくゆっぴ。
「はよ食べよ!」
「待って、髪濡れてる。タオルで拭いて、あとおやつの前に手を洗ってからにしようね」
傘を差していても結構濡れてしまった。私は風呂場に寄り道してタオルを二枚取り、片方をゆっぴに差し出した。
濡れた体を拭き、タオルを首にひっかけて、買ってきたケーキを早速開ける。おやつタイムが始まった。
パッケージを回して、表記されたカロリーを見て、ひっと息を呑む。だがあまり神経質になるとおいしいお菓子に失礼なので考えないことにした。
ゆっぴはタオルを頭に引っ掛けるようにして被り、ケーキのひと欠片を口に運んだ。
「おいしい! これ半額とか最強すぎる」
私も、ケーキのパッケージを開けた。中のチョコレートケーキは、小ぶりながらもぎっしりした質感で、チョコレートクリームのマットなコーティングときらきらのベリーソースが美しい。きれいなケーキにフォークを入れる瞬間は、積もった雪に初めて足跡をつけるときに似た気持ちになる。小さく削ったひと口を頬張る。
「わっ、おいしいね」
こっくりしたチョコレートの深みと仄かなほろ苦さ、そこに甘酸っぱいベリーのソースが絡んでいる。ゆっぴも満足げに舌鼓を打っていた。
「スイーツしか勝たん! 明日も買おう」
ゆっぴが尻尾の先をふりふりと揺らす。私はケーキにフォークを差し込み、苦笑いした。
「明日雨が降ったらね」
「あーあ。雨、降らないかな」
ゆっぴが窓の外を仰ぐ。少し前まで雨は嫌いだと不貞腐れていたくせに、現金なものである。でも、私もちょっと、同じことを思った。




