さあ、自分を律して生活しよう
その日の昼、私にとんでもない願ってもない好機が訪れた。
「科内さん。今日、ランチご一緒できる?」
なんと私の席に、茉莉花さんが直々にお誘いに来てくれたのだ。
「私の行きつけのカフェ、来てくれるかしら」
お花の髪飾りが、窓の日差しを受けてきらきらしている。
私はびっくりして数秒返事ができなかったうえに、ようやく出した声は情けないくらい裏返っていた。
「ひゃい……」
まさかこんな機会に恵まれるとは思わなかった。
ゆっぴに背中を押されてはいたが、秘書課とは関わりが少ないので、声をかけようかはまだ迷っていた。そこへ彼女の方から誘ってくれるとは。渡りに船というべきか、心の準備がまだ整っていないというか。誘われる心当たりもないので、嬉しいと同時に不安でもある。
会社の傍のカフェに向かうため、ふたりで会社のエントランスを出る。横を歩いているだけでいい匂いがする。あまり話したことがない、いや、それ以上に憧れの人である彼女とのランチは、緊張してしまう。
どぎまぎしているのが顔に出ていたのか、茉莉花さんはうふ、とかわいらしく花笑みを浮かべた。
「そんなに身構えないで。お叱りじゃないわよー。ただ、私が科内さんと話してみたかっただけー」
「私と、ですか」
仕事であまり関わりがないのに、どうして私に気をかけてくれたのだろう。
すぐ近くのカフェにつくと、彼女は私にメニューを差し出した。私がランチセットを選ぶと、茉莉花さんは店員を呼び、私の代わりに注文した。
運ばれてきたのは、私のランチセットとふたりぶんのお冷だけだった。
「えっ、茉莉花さん、食べないんですか!?」
驚く私に、彼女はこくりと頷く。
「これだけで良いのよー」
彼女が美しくあるためにいろいろと努力しているのだろうとは推察していたが、まさか昼食が水だけだったとは。それこそ小春が注意喚起していた、無理な食事制限に当たると思うのだが。
驚嘆して固まっている私に、茉莉花さんはマイペースに喋った。
「あのねー、今日私が、科内さんを呼んだのはね」
「は、はい」
「影山くんのことなんだけど。彼ね、見た目がきれいでお仕事もできるそうじゃない? だから秘書課の女の子たちも、彼が気になるみたいで……」
話題は紅里くんの件のようである。
「科内さん、仲良さそうだから嫉妬されて意地悪されてないか心配になっちゃってね」
「あっ、そういうこと!?」
全く気にしていなかった観点からの切り出しで、またもや驚いてしまった。
「全然ありませんよ!」
「そうよね、部署の子たち、皆良い子だもの。御局様として一応気にかけてたんだけど、なんともないなら良かったわ」
茉莉花さんがにこっと笑う。癒される、愛らしい笑い方だ。やはり、憧れてしまう。こんなふうになりたい。彼女は微笑みながら水を飲んだ。
「科内さん、最近なんだかきれいになったじゃない? だから部署の子たちも、『恋してるのかな』なんて噂しててね」
耳を疑った。主に、前半の方にだ。
「きれいに……なってます!?」
「ん? ええ。こう言っては失礼かもだけど、今までは草臥れてる感じがあったんだけど、ここのところはいきいきしてるわ」
そんな、まさか。憧れの茉莉花さんから褒めてもらえるとは思わなかった。私の小さな努力の積み重ねが、茉莉花さんには見えていたとは。嬉しくて嬉しくて、声が詰まってしまう。いきなり固まった私に、茉莉花さんは優しく語りかけた。
「これを機会に、もっと私を頼ってね。秘書課以外にも目を配るけど、気づけないこともあるから」
まだ、胸がどぎまぎしている。噛み締めている私に、茉莉花さんは小首を傾げた。
「どうしたの?」
「私なんて、茉莉花さんの足元にも及ばないのに……」
「なにが?」
茉莉花さんが目をぱちくりさせている。私は小さく深呼吸して、口を結んだ。奥歯を噛んで言い淀んで、また口を開く。
「あの、早速相談してもいいですか」
「うん?」
「実は、その。私、茉莉花さんに憧れてて……茉莉花さんみたいに、若々しく瑞々しくきれいになりたいって思ってるんです」
本人を目の前にしてこれを言うのは、結構勇気がいる。でも茉莉花さんは引いたりせず、嬉しそうにぱあっと目を見開いた。
「あら! ありがとう。嬉しいわー」
「だけどどうしたらそんなにきれいになれるのか、私には分かんなくて。茉莉花さん、きれいを維持するために普段どんなことしてるのか……教えてもらえたら……」
もにょもにょと語尾を濁す。茉莉花さんは、数秒私を見つめていたかと思うと、やがてふう、と息をついた。
「なにもしてないわよ」
「嘘だあ! 今もお昼ご飯が水だけじゃないですか。私はそんなにストイックになれないからもう無理かなって思ったんですけど……!」
咄嗟に声が大きくなったが、茉莉花さんは相変わらずにこにこ微笑んでいた。
「本当よ。なんにもしないで、水だけ飲んでもう五百年経つわ」
「そんなはず……えっ、五百年?」
聞き間違えかと思った。訂正してほしくて聞き返すも、茉莉花さんは水をひと口飲んでこくりと頷く。
「正確には五百十四年。うふ、ちょっとサバ読んじゃった」
「待って、冗談ですよね? 茉莉花さんてば面白い」
普段の自分の努力を悟られたくないから、そんな冗談ではぐらかすのか。困惑する私を見つめ、茉莉花さんはにっこりと目を細めた。
「ううん。申し訳ないけど本当よ。私ね、人間じゃないの」
彼女の告白に、私は口をあんぐりさせた。
人間じゃない。人間じゃない、とは。
数秒考えた後、私は大きく項垂れた。
「出た!」
驚く以上に、なんだかもう「またか」という気持ちだ。茉莉花さんがきょとんとする。
「あら、意外と驚かないのね。もしかして私の他にもこういう人を知ってるの?」
「まあ、そんなとこ、です……」
茉莉花さんとこんな会話をする日が来るとは。茉莉花さんはふふっと可笑しそうに笑った。
「私はね、マンドラゴラなの。植物の仲間よ」
「ははは……うっそだあ……なにそれ」
なんだかもう、なげやりになって力の抜けた反応をしてしまう。茉莉花さんは後ろ髪に左手を当てた。
「本当だって。その証拠にほら、これがお花」
彼女の手が示すのは、お花の髪飾りである。
「いつもつけてるなと思ったら、咲いてたんですか」
「そう。お花以外は全部根だから」
「根!?」
私はどうやら根と会話しているらしい。
ぽかんとする私を優しく見つめ、茉莉花さんはひと口水を飲んだ。
「私自身も、わりと最近まで自分を人間だと思ってたのよ。周りの人間がどんどん老いていくのに自分は変わらないし、皆がしている食事というのもよく分からないし……不思議だなあくらいにしか思ってなかった。魔界出身の人に教えてもらって初めて、自分がマンドラゴラだって気づいたのよ」
「そういうものなんですか?」
「ええ。私にとっては私の生活が当たり前だから、周りとの違いなんてその程度にしか感じてなかったの。多分、私以外にもそういう人外いるんじゃないかしら?」
ゆっぴも小春も紅里くんも、自分が何者であるかしっかり自覚しているようだった。でも茉莉花さんのように、自分でも知らずに人間に馴染んでいる人外の存在もあるというのか。
呆然としたあと、私はハッとして頭を下げた。
「すみません。そんな秘密を聞いてしまって」
「秘密にしてたわけじゃないわよ、言ってなかっただけ。別にコンプレックスというわけでもないしね」
茉莉花さんはマイペースにころころ笑った。
「皆は皆で私は私だもの。ひけらかすことではないけど、恥ずかしいことでもないでしょ?」
そんな彼女を見て、私はまた口の中で「ああ、憧れる」と呟く。
「これからも、目標にさせてください」
自然とそんな言葉が洩れた。茉莉花さんはおかしそうに小首を傾げる。
「あら。私は植物だから、科内さんとは体質が全く違うわ。同じように水だけで暮らしてたら死んじゃうわよ?」
「そこじゃなくて……ふふっ、たしかに真似できるか分かんないけど」
見た目が美しいから、というのもそうなのだけれど、私がなにより惹き付けられていたのはきっと、彼女のこの悠々とした振る舞いだ。私にもそんなふうになれるか、真似できるか分からないけれど、それでも彼女を目標にしたいと思うのだ。
*
「あはははは! またもや人間じゃなかったとか! ウッケルー」
その日の夕食時。茉莉花さんの正体を知ると、ゆっぴは腹を抱えて笑った。
「しかもマンドラゴラて! せめてエルフでしたとかならまだしも、植物て! そりゃあみことっちがどう足掻いても近づけんわ。マジウケる、なんなん」
「そんなに面白い?」
私は作り置きしていた鶏ハムを食べつつため息をついた。
まさか、憧れの先輩がマンドラゴラだっただなんて。複雑だ。親友がハルピュイアだったのが判明したときよりは流石に驚かなかったが。否、むしろ驚かなくなってきている自分にショックである。
ゆっぴが現れはじめたばかりの頃の言葉を思い出す。魔界から来ている人は、意外とたくさんいる。ただ、わざわざ正体を明かさないだけで。そして、人間に溶け込んでいる理由は様々。
「茉莉花さんなんて自分は人間だと思い込んでたって言ってたもんなあ」
最後のひと切れの鶏ハムを口に放り込んで、私は虚空を見つめた。ゆっぴがにやりとする。
「みことっちはどう頑張っても植物にはなれないよ。もうダイエットやめよ。植物になりたいなら、やっぱりあたしが望みを叶えてあげるしかない」
「うーん……引き続き努力はするよ。やっぱり、やらないよりやった方がいいし」
人間の私は、なんの努力もしないときれいになれない。いや、仮になれたとしても、それでは私は納得できないだろう。私が憧れるのは、茉莉花さんのあの悠然とした在り方なのだから。
私はのっそり立ち上がり、冷蔵庫を開けた。ゆっぴがぴんと羽根を伸ばす。
「およっ、それは……」
私が冷蔵庫から取り出したのは、ケーキの箱である。ケーキの箱に刻まれた店名は、以前ゆっぴが並んで買ってきたチーズケーキのあの店の名だ。
「なんと!?」
たちまちゆっぴが目を輝かせた。私は箱をリビングのテーブルに置き、ぱかりと開く。中から覗く、こってりとした黒いカップケーキがふたつ。
「新商品、買ってきちゃった。『悪魔のフォンダンショコラ』だって」
「えっ、マジにダイエット終了!? うぇーい!」
「ううん、引き続き努力はするんだって。でもね、ずーっと我慢して先が見えないとしんどいから、たまにケーキ食べるくらいは解禁かな」
「やったー! あたしの勝ち!」
「ゆっぴの勝ちではないよ」
こうして、私と悪魔の戦いはまだまだ続くのだった。




