VS誘惑、まだ続く
翌日から、小春の指導のもと、美容とダイエットの両立をかけて私の戦いが始まった。
仕事から帰ってきた私は、冷凍していた作り置きのおかずを解凍しはじめた。いつものごとく、ゆっぴが窓から侵入してきて、覗き込んでくる。
「これなに? おいしそう」
「鶏ハム。鶏むね肉でヘルシーだし、簡単に作れるんだよ。小春が教えてくれたの」
それはさておき、小春から提案されたバランスのいい食生活の第一歩がこれである。
今までなら、仕事から帰ってくると疲れて料理をする気が起きず、ついついコンビニで済ませてしまっていた。だが今日からは、余裕がある日に作り置きのおかずを用意しておいてバランスよく食べる。おかずは小春直伝のおすすめレシピである。
小春はやたらと鶏肉料理に詳しかった。ところで猛禽類は小鳥を食べるらしい。彼女がハルピュイアなのとなにか関係があるのか……少し気になる。
「ゆっぴも食べる?」
「食べる! あたしみことっちの作ったごはん食べるの初めて!」
ゆっぴが無邪気に飛びついてくる。餌のプレゼントでメスを誘き寄せる野生動物の気持ちが分かりかけた。
さっぱりした味の鶏ハムを食べつつ、私は茉莉花さんを思い浮かべた。
あんなふうになりたいけれど、簡単になれるものではないだろう。きっと高い化粧水と美容液使って、高級エステやジムに通っているのだ。
きれいを維持するためには手間も時間もお金もかかる。
せめて使っている化粧品を知りたいが、まだなんの努力もしていない私は訊ける立場にない。土台ができて初めて、茉莉花さんの真似事が許される。
まずは崩れに崩れた食生活をなんとかしなくてはならない。悪魔に唆されて自堕落になっている奴は、いくら高級化粧品を使おうとエステに通おうと茉莉花さんにはなれないのだ。
「脂の少ないものを食べてたら、肌もきれいになるかな?」
私が言うと、ゆっぴは珍しく真面目な顔で返した。
「どーだろ。肌が荒れる理由ってひとつじゃないかんね。みことっちが肌荒れしてるとしたら、ストレスが原因じゃね?」
「あれ? 意外と真剣に返事してくれた」
「ギャルは常に『カワイイ』に真剣だから、そんくらいの知識ある」
ハリのある肌と隙のないメイクのゆっぴが言うと、かなり説得力がある。私は自分を取り巻くストレスを考えてみた。
直球に考えて、仕事だろう。できれば根本から改善したいけれど、仕事とストレスは隣り合わせだ。ストレスそのものを取り除くのがいちばんだろうけれど、現実的には難しい。楽しいことをして解消していくしかない。
「てかストレス? そんなん抱えて生きててみことっちマジで偉いよね? 働くとかヤバ。偉業」
ゆっぴが身を乗り出し、私に顔を近づけてきた。
「ストレス解消には脂っこいおいしいものと甘い甘いお菓子だよ」
「だーかーらー、言ったそばから誘惑しないで」
「頑張り屋さんなみことっちを癒やしてあげたいだけだよ。みことっちがあたしを頼ってくれさえすれば、どんなことでもしてあげるのに」
キラキラな瞳で見つめられると、これが悪魔の囁きだと分かっていても調子が狂う。自分に惚れているのを知っているからって、やり方が汚い。
「惑わされないぞ……いつかきれいになって、自信を持って……それからだ」
心頭滅却。食事のお供に用意した、パックの豆乳にストローを差した。私が冷静を取り戻すと、ゆっぴはつまらなそうに見を引っ込めた。彼女は鶏ハムをもぐもぐして、飲み込む。
「豆乳? 珍しいの飲んでるじゃん」
「うん、美容に良いんだって、小春が言ってたから」
豆乳に含まれる大豆イソフラボンが、体内でエクオールという物質にに変化するらしい。そのエクオールとやらは、人を美しくするのは女性ホルモン、エストロゲンに似ているのだそうだ。
ただしイソフラボンがエクオールに変わる体質の人とそうでない人がいるから、まずは摂ってみて、自分に合っているか確かめてみるのだ。
他にも小春はいろいろ教えてくれた。
肌のターンオーバーを促すには、ビタミン。寝ている間に肌が再生するから、摂取は夜ね。なにより、紫外線を浴びるとシミになるから朝はやめた方が吉。
洗顔は、マッサージも兼ねて丁寧に洗うこと。といってもじっくり洗えばいいというものではない。顔は刺激に弱いから、素早く。指で触れるのも良くないから、たっぷり泡立てた洗顔フォームで、手が顔に触れないように泡で触れて洗うイメージで。
洗顔の後の化粧水は、なるべく刺激が少なくて、肌の調子を整えるもの。まずは定番のハトムギを含む化粧水と保湿クリームを勧められた。
聞いたときは、これを頭に入れて毎日のケアできれいを保っている世の中の美肌の皆さん、すごい。などと、陳腐な感想が頭に浮かんだ。だが小春曰く、こんなのは常識の範囲だそうだ。
これが常識なら、茉莉花さんはこれよりさらにたくさん努力しているというわけだ。
忙殺されて美容を忘れていた自分が情けない。だが遅れを取っている自分にがっかりしている場合ではない。遅れていた分、今から取り戻していかなくては。
気を引き締め直す私を見て、ゆっぴはなにやらちょっと嬉しそうににやけていた。
「頑張ってるね、みことっち」
「うん」
ゆっぴに恥じない自分でいるためにも、今の私に真剣に向き合いたい。ゆっぴはこくりと頷いた。
「きれいって、簡単じゃないから。だからこそ手に入れたらすごいんだよね」
そしてニヤリと、悪魔の笑みを浮かべる。
「でもさ、楽して手に入れちゃう方法があるよ。無敵のボディをさ……」
……私が真剣に向き合おうとしているというのに、努力を妨げる悪魔が囁いてくる。私は首を横に振って邪念を振り払った。
「努力するって決めたの!」
「しなくていいよ! それよかクッキーパーリィしよー!」
どこに隠していたのやら、ゆっぴは両腕にいっぱい、ファミリーサイズのクッキーのパックを抱えてこちらに突き出してきた。
「ダイエット中こそおいしく感じるじゃんな?」
「悪魔!」
分かりきっていたが、つい叫んでしまった。
お菓子は控えるけれど、ゆっぴには別のお願いがある。私は「望み」にカウントされないよう、慎重に言葉を選んだ。
「ねえゆっぴ、近々どこかへ遊びに行かない?」
ストレスのケアには、楽しいことがいちばん。休みの日に存分にデート……否、ゆっぴと思いっきり遊んで、ストレス解消したいのだ。
途端にゆっぴの目が輝き、翼がぱたぱた震えた。
「それは佳き佳き! おけまるー! 行こう行こう今から行くべ! アゲたいなら海っしょ!」
「今からは無理だよ、私はついさっきまで働いてたんだから今日はもうくたくただもの」
「だからこそだし! 行くぞーい」
ゆっぴは立ち上がり、ぱぱぱっと羽ばたき、くるんと宙返りする。ご機嫌MAXなアクロバット飛行のあと、ゆっぴは私の手を握って外へと連れ出そうとした。あろうことか、玄関からではなく、ベランダからだ。
ガラス戸が開いて、外に広がる夕焼け空が私たちを照らした。夕方の風に舞うゆっぴの金髪が、私をベランダへと誘う。
「さ、行こ!」
「ちょっ……だめだって。私はゆっぴみたいに飛べないんだから!」
戸惑う私にはお構いなしで、ゆっぴは私の手をとったまま、ベランダの柵に飛び乗った。風でスカートが捲れて、太腿が顕になる。釘付けになる私を、ゆっぴは笑顔で連れ出そうとする。
これはベランダから落ちて死亡ルートか。
そこへ、隣のベランダから小春が飛び出してきた。
「こらー! 深琴になにをする!」
騒ぎ声が聞こえたみたいだ。小春も自室のベランダの柵に足を乗せ、こちらに向かって跳ぶ。
「わー! 小春、危ない!」
私は咄嗟に叫んでしまったが、小春の腕はたちまち茶褐色の大翼に変容し、小春の体を空中に浮かせた。そしてゆっぴに体当りして、ゆっぴを柵から落とす。
私の手を離したゆっぴは柵から転げ落ちていったが、すぐに黒い翼を羽ばたかせて戻ってきた。彼女は牙を剝いて小春に突進していく。
「ハルルのばかー! 邪魔するなし!」
「深琴をベランダから落とそうとする奴見て、邪魔しないわけないでしょ!」
赤い空の中、ふたりが空中戦を繰り広げている。遠目に見ると大型の鳥が喧嘩しているように見える。やがてそこへ本物のカラスが集まってきて喧嘩に加わりギャアギャア騒ぎはじめた。
私はベランダの柵に腕を乗せ、この光景を眺めていた。
*
最近、土曜日も休みになった。元から私の職場は土日祝休みだが、土曜と祝日は当然のように会社に来ていたし、日曜日も早上がりにはなるが出勤する日が多かった。それがここのところ、見直されている。株主総会で意見が挙がっただとかそんなような理由らしいが、下っ端社員の私に詳しくは分からない。
ただそんなひとりの社員が、土曜も日曜も休みになった余裕のある生活を手に入れたのは事実だ。
「キャホー! 明日もお休み最&高じゃん! 毎日土曜日でよくね!?」
翼と尻尾を隠したゆっぴが、駅前のショッピングモールではね回る。ぶんぶん飛びそうな勢いなのは、人間に擬態していても変わらない。
土曜の午前十時、開店したてのショッピングモール。約束どおり、私はゆっぴとデートにやってきた。
特に目的は決めていないが、先日のあの淡い紫のスカートのような、突然の出会いを期待して宛もなく店を見るのだ。
モールを歩いていると、アパレル店に置かれた鏡に自分たちの姿が映った。つい立ち止まると、ゆっぴがにんまりと口角を吊り上げて、鏡の中の私を覗き込んだ。
「やっぱそのメイク、爆裂にかわいー」
「そうかなあ……派手すぎない?」
私はおずおずと唇の下に指を添えた。
今日は新しいリップを塗った。スカートを買った日に同じく出会った、あのリップである。シリーズを揃えて買った他のコスメも、思い切って合わせて使ってみた。リップが新しいだけでもそわそわしたのに、ゆっぴに「どうせなら全部使えし」と背中を押されたのである。使っている途中の化粧品がまだ残っているので全部開けるのは気が引けたのだが、後込みしていたらゆっぴが開けてしまった。
その上彼女は私の肩を捕まえ、手際よくメイクを施してくれたのだった。ゆっぴの仕上げたメイクは、彼女本人のようなギャルメイクでこそなかったが、私が自分でする会社用のメイクとは全く違う。鮮やかできらきらしていて、華があった。モールの鏡に映る自分は、自分ではないみたいだ。
「やっぱり、ゆっぴはメイク上手だよね」
私はまた、鏡の前から歩き出した。ゆっぴも軽やかな足取りでついてくる。
「ナメられたくないから」
それからゆっぴは、意地悪く笑った。
「てかみことっち、カッサカサで化粧ノリ悪すぎだったんだけど! どうしたらそんなに潤いなくなるんだっつの」
「なんだと! これでも努力してるんだからね!?」
小春に教えてもらったスキンケアをするようになってから、前より良くなった。とはいえゆっぴに言わせればまだカッサカサで、茉莉花さんには程遠い。
隣を歩くゆっぴを見ると、つやのある肌はふにっとしていて、きめ細かくてきれいだ。思わず触れたくなる肌、という化粧品メーカーが言いがちなフレーズが脳裏に浮かぶ。どきどきしつつ、訊ねてみた。
「ゆっぴはさ、スキンケア、なに使ってるの?」
「ん? 魔界樹の根の汁」
「地上で市販されてるものが良かったな……」
悪魔に聞いた私が愚かだった。ゆっぴは虚空を見上げ、そうだ、と呟いた。
「地上で市販されてるといえば、めっちゃいい保湿クリームあるって聞いたことあるわ。なんか高級クリームと成分似てるのに、安くてコスパ良いやつ」
「そんなのあるの?」
有益な情報に、声が弾む。ゆっぴも嬉しそうに頷いた。
「ある! コキュートスの水にピクシーの翅を漬け込んだやつと成分が同じなんだよ」
「そんなのあるの!?」
同じフレーズを全然異なるトーンで繰り返し、私は戸惑いつつも言った。
「その成分がどういうものなのかはよく分からないけど、ゆっぴおすすめの成分なら気になる。買いに行ってもいい?」
「モチモチのロン! あたしも買おっかな、魔界のを買うより安いし!」
悪魔の囁きで私の決意の邪魔ばかりするゆっぴだが、こういうところは協力的でもある。ドラッグストアに向かう私の隣で、ゆっぴはなぜか嬉しそうに、にこりと目を細めた。
モールの広い通りを歩きつつ、私はここ数日の日常を振り返った。
早めに帰ってきた日に、小春に教えてもらったヘルシーな作り置き料理を作った。イソフラボンを摂るために、豆腐料理も作っている。料理中はなるべく爪先立ち。脚が細くなるのだとかで。食事のあとにゆっぴが持ってくるお菓子を断る。
毎日お風呂上がりにスキンケア。寝る前に豆乳でビタミン剤を飲む。寝る前にとゆっぴが持ってくるお菓子を断る。
仕事中も、座るときに脚を組まず、足の指を床につける姿勢を保つ。リンパの流れがどうのこうの、らしい。仕事に行く前に、「お仕事中に食べてストレスを解消しよう」とゆっぴが持たせようとしてくるお菓子を断る。
毎日、小さな努力をこつこつと続けて、十日が経過した。
最初に比べ、肌はきれいになってきたし、お腹の贅肉も落ちた。ただ、満足とまでは行かない。
「一体いつになれば、茉莉花さんみたいになれるんだろう」
「茉莉花さんって、秘書課の人だっけ?」
以前私が口にしたのを覚えていたらしく、ゆっぴはへえと感嘆した。
「そういや、ああなりたいって言ってたね。憧れてるんだ」
「うん。……あ、これは恋愛的な意味じゃないからね? 紅里くんのときみたいに、嫉妬しないでよ」
「嫉妬してないし」
ゆっぴはちょっとはにかんで、私から目を逸らした。
結果が出てきたとはいえ、まだようやくスタートラインに立てた程度だと思う。茉莉花さんはこんなレベルではない。
たった十日で劇的に変われるわけがない。分かってはいたけれど、我慢することや面倒が多くて、気持ち的にダレてきている自覚がある。頑張ったところで、手に入るのは少しだけきれいになった自分、だけ。努力する前としてからで、苦労が十倍になっても得られるものは二倍程度みたいな、費用対効果の悪さを感じてしまう。
こんなことをいつまで続ければいいのか。続けたら茉莉花さんのようになれるのか。近道はないのか。……ゆっぴが言っているように、二個目の望みとして、管理が楽な体を手に入れてもいいのではないか?
なんて考えたらゆっぴの思うつぼだ。私が気付けに頬を叩くと、ゆっぴはにまーっと笑った。
「頑張ってるみことっち、かわいいね。あたしもハルルみたく応援したくなっちゃった」
「あれ? 三つの望みはいいの?」
意外なことを言うので、私はつい聞き返した。ゆっぴは小首を傾げ、照れ笑いする。
「本当は、悪魔としては望みを言ってほしいけどね。でもかわいくなるために努力する人って世界一かわいいから、あたしは今のみことっち最強だと思うの」
ふいに、先日のゆっぴの言葉を思い出した。
『きれいって、簡単じゃないから。だからこそ手に入れたらすごいんだよね』
「そっか、今の私、ゆっぴにとってかわいく見えるんだ。もしかして今なら、二個目の望みの『恋人になって』も叶えてくれる?」
半ば冗談めかして問うと、ゆっぴは頬を赤くしてそっぽを向いた。
「それとこれとは話が別だし。
「ロールモデルがいるなら、キレイの秘密を教えてもらったら? まりぽよ本人にさ」
「まりぽよって茉莉花さん? 訊けないよ。私なんかが同じフィールドに立てるわけないんだから……」
私は茉莉花さんの真似が許される立場ですらない。ゆっぴはえー、と首を傾げた。
「どんな努力してるのか聞くくらい良くね? 努力のメニュー聞いてみて、できそうなら真似して、無理そうならスゲーって思うだけ思って諦めればいいんじゃね」
「え」
私はつい、短く呟いて固まった。
そうか。なにを使っているかより、なにを心がけているか聞くくらいなら、良いかもしれない。努力なら、私だってそれなりにしたのだ。聞く権利くらいあるかもしれない。目から鱗である。
「そっか。聞くだけ聞いてみようかな。どのくらい大変か知るためにも」
「そうそう。教えてくれるかどうかは分からんけどね」
私だってやれることはした。少ないかもしれないけれど、努力した。今の私なら、彼女に声をかけてもいいのかも。




