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マイスイート・ハニーデビル  作者: 植原翠/新刊・招き猫⑤巻
Ep.5・レッツ・ライブストイクリー
20/36

VS誘惑

 その日、私は帰りにコンビニでサラダを買い、さらにドラッグストアに寄り道した。今までは遅くまで残業していたから、買い物に寄るなど時間的にも体力的にも難しかった。だが最近総務部が残業時間に厳しくなったので、早めに帰る日が多くなっている。


 茉莉花さんに近づきたいと思った私は、美容用品を買い揃えにこのドラッグストアを訪れた。客がまばらな店内をふらふらと歩き回り、気になる棚を見ては離れを繰り返す。スキンケアやダイエット食品、ビタミン剤など、手に取っては棚に戻してしまう。

 就職してからは忙しさにかまけて、美容を蔑ろにしていた。使っている洗顔フォームや化粧水は、効果などろくに考えず安売りのものを選んでいたというずぼらぶりである。我ながら恥ずかしい。茉莉花さんはどれを使っているのだろう。


 結局私は、欲しいものを選べず、トイレットペーパーだけ買って帰路についたのだった。


「ただいま」


「おっかえりー!」


 自宅の扉を開けると同時に、ゆっぴが飛びついてきた。もはやこの子が家にいることにも驚かなくなっている。


「どうしたの? 機嫌良いね。いつも良いけど今日は特に」


「なんとなんとなんとー! 今日はチーズケーキがあるのだ!」


 ゆっぴは私から飛び退き、狭い通路で羽ばたいて宙返りした。黒い羽根がはらはらと散っている。着地した先で彼女が冷蔵庫を開けると、中にケーキ店のものらしき白い箱が見えた。

 私は手に持っていたコンビニの袋を落としそうになった。中身はサラダのみ。ダイエットのために、今日の夕飯はこれだけと決めていたのに。


 ゆっぴが箱を取り出して、うきうきと翼を振る。


「この前行ったパフェのお店の系列店で、新しいパティスリーができたの。そこの『天使のふわふわフロマージュ』っていうチーズケーキがモンスタグラムで激シェアされててー! 二時間並んで買ったの!」


 出た。悪魔の囁きだ。

 ダイエットを始める初日から、早速試練が訪れた。

 私はコンビニの袋をぎゅっと握り、固い意思で首を振った。


「おいしそうだね。でも、ダイエット中だから我慢します」


 するとゆっぴは、はためかせていた翼をぴたっと止めて、数秒凍りついた。やがて、ぱちぱちとまばたきをする。


「えっ、なんて?」


「折角だけど私はチーズケーキは食べません。ので、私の分までゆっぴが食べて」


 申し訳ないが、悪魔の誘惑に惑わされるわけにはいかない。私は茉莉花さんみたいになりたいのだ。

 ゆっぴはまたしばらく固まり、手に持っていた箱に目を落とした。


「みことっちと食べたくて、並んだのに?」


 掠れた声が、ぽつりと問いかけてくる。


「みことっちが帰ってくるの、楽しみに待ってたのに?」


「うっ……!」


 こんな寂しそうなゆっぴは見たことがない。瞬時に決意が揺らぐ。チーズケーキは食べたい。おいしそうだから食べたい。しかしながらゆっぴのペースで甘いお菓子を食べていたら太りそうだ。

 でも。ゆっぴが私を待っていた時間より、私の腹の贅肉の方が重要だろうか。


 ゆっぴが上目遣いで私を見上げた。


「あたし、みことっちが疲れてると思って、お疲れ様って気持ちでケーキ買ったの。要らなかった?」


 こんな言い方、ずるいではないか。単に誘惑してくるだけに留まらず、罪悪感を煽ってくる。ぐらつく私を見て、ゆっぴは赤い瞳を細め、私の腰に手を添えた。


「大丈夫、みことっちはかわいいよ。今の体型が気に入らないなら、あたしが自信を持たせてあげる」


 ドキッとして息を呑む。ゆっぴは私の反応を面白そうに眺めた。


「ほら、願い事、言ってみて。理想の体が欲しいって」


 吐息が耳を擽る。心臓が早鐘を打って、頭がくらくらしてきて、判断力が鈍っていく。

 自信を持てる体、ゆっぴが買ってきたケーキ。彼女の笑顔……それらがあれば、近々死んだとしても充分すぎるくらい幸せ者ではないか?


 と、そのときだ。背後からピンポーンとインターホンの音がして、続いて聞き慣れた声が聞こえてきた。


「深琴、帰ってるー?」


 小春だ。私はハッと我に返り、ゆっぴを押しのけた。彼女に背を向け、扉を開ける。


「今帰ってきたとこ。どうしたの?」


 扉の向こうでは、小さめの鍋を持った小春が立っていた。彼女は私の背後のゆっぴを見るなり目尻を吊り上げる。


「あっ、悪魔! あんたまた深琴を唆してるわね。深琴に手を出すなって言ってるでしょ!」


「知らないもん、あたしの獲物だもん!」


 ゆっぴがべーっと舌を出して挑発する。喧嘩が始まってしまうので、私はふたりのやりとりを強制終了させた。


「小春、要件は?」


「あ、そうだった。肉じゃが作りすぎちゃったから、貰ってほしい。どうせあんた、自炊してないでしょ?」


 小春が鍋を掲げる。私は内心頭を抱えた。

 チーズケーキの誘惑に続いて、今度は肉じゃがである。ほわほわと漂ってくる香りが、食欲を掻き立てる。ごくりと喉が鳴った。ゆっぴがぱあっと翼を広げる。


「肉じゃがー! やばうまそうなんだけどー!」


「あんたの分はない!」


 小春が秒で切り返す。ゆっぴもくわっと牙を剥いた。


「ケチじゃん! いいもん、ハルルには天使のフロマージュ分けてあげないし!」


「あんた悪魔なのに天使のフロマージュ買ったの?」


「関係ないし! おいしそうなものは買うんだし!」


 揉めるふたりを横目に、私はしばらく無言で考えていた。やがて素直に言う。


「あのね小春、私、ダイエットを始めたの。だから今日のご飯はサラダだけにしようと思ってるんだ」


 コンビニの袋をそろりと上げる。ゆっぴがすかさず首を横に振る。


「やめよう! チーズケーキの方が圧倒的に大事! もうすぐ死ぬ人がなんのために諸々を我慢してダイエットなんて。もっと自由に自分本位に生きよ?」


 逆に小春は、すっと納得した。


「そうだったの。じゃあチーズケーキはやめた方がいいかもね」


「ハルルー! 邪魔すんなし!」


 ゆっぴがケーキの箱を抱えたまま、小春の方へ突撃する。小春は即座に片手を突き出し、ゆっぴを追い払った。


「どんなにおいしいチーズケーキでも、今の深琴には背徳と後悔の味しかしないわよ」


「そんなことない、普通にチーズとクリームの味するし!」


 喚くゆっぴを無視して、小春は改めて私の方に顔を向けた。


「でも、サラダだけというのは良くない。バランスのいい食事をしないと、却って太るよ」


「そうかな……?」


「うんうん。というわけで、肉じゃがは食べてほしいな!」


 小春がにこっと笑うと、ゆっぴがまた噛み付いた。


「は!? ずるくね!? 自分ばっかり!」


「うるさい、低級悪魔。あんたの分も肉じゃが持ってきてあげるから、大人しく引っ込んで」


「はあー!? それはありがとう! 食べたい」


 なんやかんや丸く収まり、小春が席を外す。すぐにまた戻ってきて、今度は彼女の部屋にあった分の肉じゃがも持ってきてくれた。

 私の散らかった部屋を軽く片付けて、テーブルの周りにクッションを三つ置く。女三人、狭いテーブルを囲んで夕飯が始まった。


「ダイエットね。体を壊したりしなければ、私はいいと思うよ」


 小春が器に取り分けた肉じゃがを配る。


「目標を持って前向きになったんでしょ。今までそんなこと気にしてなさそうだったのに、偉い偉い」


 そういえばそうだ。これまで茉莉花さんと会ってもきれいだなと感想を持つだけで、自分もそうなりたいとまでは考えなかった。

 目標にしたいと思えたのは、私自身の変化だろうか。ゆっぴに力の抜き方を教えてもらったり、紅里くんのおかげで会社の雰囲気が変わってきたりして、自分自身に気にかける余裕が出てきたのかもしれない。


 小春は肉じゃがに箸を入れた。


「でもね。サラダだけなんてダメ。さっきも言ったとおり、美容のためには無理な食事制限は逆効果よ」


「そうだよね。体重を落とせばいいってものじゃないよね」


「うんうん。栄養バランスが偏るとダイエットにならないばかりか、肌も荒れるし髪もコシがなくなるわよ」


 小春が私を冷静にさせてくれる。私は小春の作った肉じゃがから、にんじんを摘んで口に入れた。くたくたに煮込まれていて、甘い。

 小春の言葉の一方で、ゆっぴはまだダイエットに反対している。


「みことっちはもうすぐ死ぬんだから無駄な我慢なんてさせたらかわいそくね? みことっちー、やっぱ一緒にチーズケーキ食べよ! あたしが理想のボディを担保してあげっからさー」


「あんたまさか、それを深琴の望みとして叶えるつもり?」


 小春は箸の先を咥え、呆れ顔でゆっぴを睨んだ。


「馬鹿馬鹿しい。こんなことに命を削らなくてもダイエットくらいどうとでもなるわよ。そもそも、別に今の深琴でも充分かわいいし」


 それから箸を下ろし、堂々と言った。


「でもまあ深琴がゆっぴに惑わされないように、私もできる範囲で協力するよ」


「本当!?」


 私は背筋を伸ばした。仕事ばかりで美容なんて気にしておらず、ドラッグストアで思考停止してしまったほどだった。小春が協力してくれるのは、とても心強い。小春はにこりと笑い、ふくれっ面のゆっぴを横目で一瞥した。


「私は全面的に深琴の味方だから。悪魔の好きになんかさせないわよ」


「ふうん? マジ勝てる気しかしないんですけど」


 ゆっぴが瞳に炎を宿した。彼女を一瞥し、小春がぴしゃりと言い切る。


「まずは食生活の改善から。遅い時間に甘い物食べたら肌に良くないし太る」


 だがその後で、彼女は小さくため息をつく。

「今日のチーズケーキを最後にね」


「チーズケーキ食べていいの!?」


 ぶんと振り向いた私に、小春は苦笑いで頷いた。


「これ以降はしばらくお預けだからね。自分で満足のいく結果が出るまでは我慢。良いね?」


「うん」


 ゆっぴの気持ちを踏み躙らずに済んで、ほっとした。小春はゆっぴに厳しいが、彼女の気持ちはちゃんと考えてくれる。ゆっぴは大喜びで翼を広げた。


「うぇーい! チーズケーキ! 仕方ないからハルルにもひと口だけ分けてやってもいいよ!」


「うーん、太るから要らない」


「はあ!? かわいくなーい!」


 またしても喧嘩を始めるふたりの間で、私は臍を固めた。絶対に茉莉花さんみたいにきれいになる。また再び、晴れやかな気持ちでデザートを食べられる、その日まで。

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