恋は血
突然の告白に、頭が全然追いつかない。ゆっぴが紅里くんを、この会社に入社させた? なにがどうなったらそうなるのか。
ゆっぴは指を一本立て、得意げに話した。
「実はあかりんはあたしの幼馴染みなんだ。なんか知らんけど仕事が定着しなくてすぐ転職する人でね、今もちょうど求職中だった」
長く伸ばした爪はピンク色に煌めいている。ラインストーンが正午の日差しを反射して、星をまぶしたみたいだ。
「そんで、この前みことっち、ハルルが言ってたようなバチクソスパダリイケメンなら結婚したいって言ってたでしょ。あかりんはちょうどドンピシャリ」
ゆっぴのそれを聞いて、私は先日のやりとりを思い出した。
長すぎて大方覚えていないが、華のある外見に温厚な性格、王子の要素、真面目で嘘をつかない。落ち着いていてかつ情熱的で、時々強引……と、そこまでで、ハッとした。紅里くんの個性とだいたい一致している。すごい、少女漫画でも有り得ないと思われたそれが、実在した。
気づいた私の顔を見て、ゆっぴがより不敵に笑った。
「そんなわけで、あかりんがここに入社すれば、あかりんは仕事が見つかり、みことっちは恋が始まり、いっせきにちょー! でしょ!」
そうだったのか。しかし大きな誤算がある。
「私……別に、小春が言ってたような人と結婚したいなんて本気で思ってないよ?」
「へ?」
ゆっぴが間の抜けた声を出す。
「あれ? でもみことっち、ルシファーくんかっこいいって言ったし、ハルルが言って理想の人となら結婚したいって言った」
「私の恋愛対象は男じゃないって、ゆっぴは知ってるでしょ」
あれは、小春にバレたくなかったから咄嗟に話を合わせただけだ。
「この前ゆっぴが言ってたとおり、親友であっても知られたくないことはある。私が同性が好きなのは、小春にはまだ言う時じゃない。だから隠しただけで、私はやっぱり、どんなにバチクソスパダリイケメンだろうと好きにならない」
「そうだったん? じゃ、あかりん見ても全然好きにならないの?」
「人としては好きだけど、恋にはならないよ。大体、何度も言ってるでしょ。私が好きなのは……」
風が吹いて、ゆっぴの蜂蜜色の髪が横に靡く。
「私が好きなのは、ゆっぴだよ」
陽の光できらきらする髪が眩しい。黒い羽根が風に攫われていく。
ゆっぴは顔を少し赤らめて、口を半開きにしていた。夕日色の潤んだ瞳がしばし私を見つめ、やがて気まずそうに伏せる。
「……みことっち、結婚したいって、言ったから」
ぽつぽつと、彼女は言葉を途切れさせながら言った。
「あたしじゃなくてもいいんじゃん、って、思っちゃった」
それはいつものゆっぴらしい弾けた声ではなく、どこか寂しげな色が差していた。
「あたしじゃなくてもいいんなら、ハルルも認めるくらいお似合いの人がいるなら、その方がみことっちも幸せかな、って」
「なに、もしかして拗ねてたの?」
私が言うと、ゆっぴはさらにかあっと顔を赤くして、翼と尻尾を真っ直ぐ立てた。
「違うもん! みことっちがあたし以外と恋してくれれば、残りふたつの望みが簡単に出てくるだろうから、仕掛けたんだもん!」
ゆっぴに好きだと言っておきながら別の人でもいい態度を見せた私を、ゆっぴは静かに怒っていたようだ。翼の先と尻尾をぷるぷる震わせるゆっぴを前に、私はつい、笑い出した。
「あはは。ごめんね。残念ながら私はゆっぴが好きです」
「ばか。嘘つき。悪魔!」
「悪魔はゆっぴの方でしょ」
そこで、再び建物の扉が開いた。
「深琴さ……あれっ、ゆっぴ? なんでここに?」
現れたのは渦中の人、紅里くんである。手には近所のコンビニの袋を提げている。
震えていたゆっぴが紅里くんへ向かって飛び出す。
「あかりーん! みことっちがからかってくるー!」
「え、なになに。深琴さんとゆっぴ、知り合いだったんですか?」
紅里くんが困惑している。紅里くんの方はゆっぴの事情を知らされていないみたいだ。どうやら本当に転職してきただけらしい。
ゆっぴの考えは敢えて紅里くんに話すことでもない。私は苦笑して、彼に訊ね返した。
「うん、友達なの。それより紅里くん、部長に捕まったんでしょ。大丈夫だった?」
私たちよりもそちらの方が余程問題だ。紅里くんはにぱっと明るい笑顔を見せた。
「はい! ちょっと血液を抜いたら、簡単に気絶しました!」
「そっかあ、良かっ……え?」
今、なんて言った。
耳を疑う私をよそに、紅里くんはにこにこスマイルでスーツの内側に手を入れた。
「部長、最初から顔を真っ赤にしていて、血の気が多すぎると思いまして。少し血を抜いてあげたら、すーっと青白くなってそのままぱたりです」
スーツの中から取り出したのは、太い注射器だった。中には赤黒い液体がたっぷり詰まっている。私はまばたきもせずに絶句していた。
紅里くんのきらきらした微笑みとは不似合いな、赤い注射器。物騒な発言。意味が分からず、頭の中が宇宙になった。
紅里くんの隣で、ゆっぴが首を傾ける。
「おっさんの血っておいしいのー?」
「かなり人を選ぶかなー。俺は嫌いだけど、姉ちゃんが飲むからお土産に持って帰るよ」
紅里くんが注射器をしまう。ますます困惑する私に、ゆっぴが思い出したように言った。
「あかりんはね、吸血鬼一族の末裔なんだよ」
「きゅ!? えっ、吸血鬼!?」
声が裏返った。紅里くんは目をぱちくりさせ、素直に頷く。
「そうです。といっても、吸血鬼の本能はだいぶ薄まってますけど……」
「本当に吸血鬼!?」
「本当です。でもちょっとたんぱく質を多めに摂るだけで、普通の人間の方と変わらない生活を送れるくらいには薄まってます。だから特に報告してなかったんですが……これ、入社前に会社に言っておくべきでしたか?」
「ま、真面目! どうだろう、それの前例を知らないからなんとも言えない」
こんな心配をするあたり、本当に「普通の人間」と変わらないなと思う。でも言われてみれば、紅里くんはゆっぴの幼馴染だそうだから、ゆっぴと同じ魔界出身……即ち、人間ではないのだ。
ゆっぴがにぱっと笑う。
「ウケるっしょ? 眩しいのが苦手な吸血鬼なのに、『あかり』って名前なの!」
「うるさいな、覚えやすくていいだろ!」
紅里くんがくわっと口を開けると、一瞬ちらりと、鋭く尖った牙が見えた。そういえば、先程彼は私の指の流血をまじまじ見つめ、唇を近づけた。あれはもしかして、血を吸おうとしたのか。「落ちてきた包丁で失血死」は免れたが、その後も「吸血鬼の本能が目覚めた紅里くんが吸血して失血死」の可能性もあったとは。
目が合った紅里くんは、にっこりしながら補足した。
「吸血鬼ですけど、誰彼構わず噛んだりしないので、そこはご心配なく。血を見ると『おいしそう』って感じるけど、本能はだいぶ薄まってきてるからちゃんと自制は効くんで」
「おいしそうだとは思ってたんだ」
「深琴さんの血はおいしそうでしたけど、部長の血はあんまりおいしくなさそうでした」
悪気なさそうに言う紅里くんは、これまで見ていた好青年とは別人に見える。情報が一気に畳み掛けてきてくらくらしていた私だったが、部長と聞いてハッとした。
「そうだ、部長! 血を抜かれたんだよね。生きてるの?」
「生きてはいますよ。本当は、パワハラもセクハラもやめろって本人に言って喧嘩したかったですけど、部長の期限が悪くなると先輩方が困るでしょうから、血を抜くだけで勘弁してやりました」
にこにこふわふわしているわりに、意外とえげつない人だ。小春の言っていた理想のダーリンの条件に「大胆」とあったが、こんな大胆さを見せられるとは思いもよらなかった。
紅里くんは苦笑いで付け足した。
「戻りがてら総務部に立ち寄って、経理部長のハラスメント行為について相談してきました。総務、経理部長の横暴に気づいてなかったみたいですよ。今まで誰も相談しなかったんですか?」
「相談したの!? だって相談なんてしたら、絶対部長がキレて面倒だろうからと……」
環境を変えるためには、声を上げなくちゃならない。だけど相手が圧倒的に強い場合、無鉄砲に戦えない。保身で精一杯になる。たとえ納得できなくても、我慢するのがいちばん賢い。
そうやって、戦うことから逃げてきた。
紅里くんは、にこりと相好を崩した。
「出しゃばってしまってすみません。でも、深琴さんも、他の先輩たちも、ほっとけませんでした」
そしてコンビニの袋をこちらに突き出す。
「ということで、部長を倒したついでにお向かいのコンビニまで足を伸ばして、デザート買ってきました!」
「君、のびのび育ってるね」
自由な彼に半ば苦笑いで言うも、紅里くんは眩しい微笑みを携えたまま袋からプリンを取り出した。クリームたっぷりの、おいしそうなプリンだ。そしてもうひとつ同じプリンを袋から出し、私に差し出す。
「どうぞ。会社の案内をしていただいたお礼です」
ああ、なんて自然に気配りをする人なのだろう。押し付けがましくなくて、気を遣っている感じもない。ただ、彼自身がお礼をしたかった、というシンプルな気持ちが伝わってくる。
「ありがとう、いただきます」
プリンはさらにもうひとつ出てきて、ゆっぴにも与えられた。
「はい、ゆっぴには仕事を紹介してもらったお礼」
「やったー! あかりん超イケメン」
「知ってる」
心に余裕がある彼は、彼の中の正しさをきちんと持っていて、でもそれを他人に押し付けない。
総務への報告もそうだ。変に考えて怯えたりせず、事実をありのままに伝える。まだそれだけだが、これは大きな一歩である。
考えてみたら、私にも同じことはできたのだ。私たちが従事してるのはあくまでこの会社である。部長個人に尽くしているわけではない。社則以上に自分のルールを押し付けるのは、つまり社則を無視しているのであり、それは総務部から注意が行くに決まっている。
分かっていたのに、私も他の誰も行動しなかった。耐えた方がいいと思い込んで、パワハラをのさばらせていた。
外からやってきた紅里くんは、空気の淀んだ部屋の窓を開け、換気してくれるような存在だ。
「なんか紅里くんって、人として尊敬する」
ぽろりと口にする。隣では、紅里くんがご機嫌な顔でプリンの蓋を開けていた。
「人じゃなくて、吸血鬼ですけどね」
「人より人として正しいよ」
よっぽどモンスターの経理部長より、なにもできずに搾取されるだけの私より、吸血鬼の紅里くんの方が人らしく生きている。
私も、そんなふうになれるだろうか。
「決めた。私もこれからは、無意味な我慢はやめる」
決めたといっても、染み付いた習慣はなかなか抜けないので、すぐに実行できるとは言いきれないが。
「君のように、穏やかに戦える人になりたい」
環境を変えていくのは、彼のような人だ。私みたいな人が我慢していたからではなくて、彼みたいな人が声を上げるから、変わっていくのだ。クリームたっぷりのプリンを見つめて、私はひとつ、小さな決意をした。
*
後日、衝撃の通達が出た。経理部の部長に、子会社への出向が決まったのだ。事実上の左遷である。これからは今までの総務部長が、総務部と経理部を兼任する形になった。
朝から不在の経理部長席を一瞥し、私ははあと間抜けなため息をついた。
「急だったね。急だったけど、『やっと』でもあるな」
「今までずっと放置だったんですもんね」
隣の紅里くんはにこにこと微笑むが、多分、今回の異動のきっかけは彼である。例の昼の呼び出しの一件で経理部長、否、元経理部長の横暴が総務にバレて、そこからメスが入った。経理部を中心に、総務からヒアリングがおこなわれ、これまでの部長の指示や改竄されたタイムカードなど、諸々が明らかにされていったのである。
そして、この日に至る。ここのところの総務部は、経理以外の部署も含めて、労働環境の確認やハラスメントはないかのヒアリングなどに力を入れている。残業、休暇なども諸々見直され、ゴールデンウィークがなかった弊社に、今年の夏からお盆休みがあるとかないとか。会社全体が、変わろうとしている。
紅里くんが総務部にチクった一件を、私は「環境を変える大きな一歩」だと捉えていた。だが、どうも私が思っていた以上に巨大な一歩だったようだ。
「こんなことならもっと早く告発すればよかった」
私がもそりと呟くと、紅里くんはきれいな顔で苦笑した。
ただひとつ、不思議なことがある。これだけトントン拍子で進んでいるのが、逆に不自然なのだ。
総務は経理の隣の島なのだから、経理部長の横暴はとっくに気づけるはずである。それなのになんの対処もなかったから、気づいてて目を瞑っているのだと思っていた。だというのに紅里くんのひと言で、あれだけ腰が重かった総務が急に動き出した。それがどうにも、謎に思えて仕方ない。
「こんなに動けるなら早く動いてほしかったなあ……なんて、告発しなかった私が文句言える立場じゃないか」
私はそんなボヤキを洩らし、朝のルーティンワークである書類チェックに入った。紅里くんは、にこにこ微笑んでいるだけだった。
紅里くんのひいひいひいおじいちゃんが弊社の筆頭株主であると知るのは、まだ先である。




