スーパーイケメン現る
その数日後。当然のようにゴールデンウィークはない我社の、五月の初頭である。
「今日から配属になった、影山くんだ」
朝礼で部長の横に立つ、凛々しい青年。さらさらの髪にすらりと高い身長、切れ長の目が周囲を見渡す。
「初めまして。影山です。突然の配属ですが、何卒ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いします」
職場の部署に、新人がやってきた。
新人が入ってくるなんて話は全く聞いていなかったし、時期的にも中途半端である。別の企業を辞めてきた新卒だろうか。見た感じでは、私と同じくらいの年齢に見える。
彗星の如く現れた新人というだけでも珍しいが、社内をざわつかせたのはそれだけではなかった。
隣の部署から、女性社員のひそひそ話が聞こえてくる。
「経理に入った影山くん、めちゃくちゃイケメンじゃない?」
「ね。営業のマミちゃん、すでにロックオンしてたよ」
「早っ。けど分かる。隣の席の科内さんが羨ましいよね」
自分の名前が聞こえてきて、私は肩を竦めた。
隣には、朝から増えた新しいデスク。そしてその席に着いている、美青年。
「科内さん、今日からよろしくお願いします」
今、新人くんは、私の隣の椅子にいる。
「他部署へのご挨拶、部長から科内さんに案内してもらうよう、指示がありました。お願いしてもいいですか?」
涼やかなきれいな声が、私の耳を擽ってくる。
本当に、きれいな顔をした青年である。艶やかな髪は混じり気のない深い黒で、そのわりに瞳の色はやや色素が薄い。芸能人に疎い私でも、「芸能人みたいだ」と思った。
またもや、隣の部署の女の子たちのひそひそ会話が聞こえてきた。
正直、私は戸惑っていた。
たしかに新人くんはきれいな顔をしている。だけれど、それだけでこんなに注目を浴びるものなのか。彼が美しいこと以上に、彼の人気ぶりの方に驚いてしまう。
部長の指示で、今日の午前中、私はこの新人くんの案内係に任命された。午前にこなすはずだった仕事は全て午後にしわ寄せが行くのだが、それは今は考えない。
廊下を歩きながら、私は隣の彼を見上げた。首から下げた名札に、「影山紅里」と刻まれている。
「影山くん、下の名前、なんて読むの?」
「『あかり』です」
そう言って、新人くんは首から提げた名札を摘んだ。
「こんな名前で、しかもこの見た目だから、子供の頃はよく女の子と間違えられました。でも、覚えてもらいやすくて良いでしょ?」
ふわっと笑った顔が眩しくて、私は咄嗟に目を閉じ、網膜を守った。オーラが違う。これがイケメンという、生まれながらにして特権階級にある者の力か。
「紅里くん、かあ。なんか、君らしい名前だね」
何気なく繰り返すと、彼はえへ、とかわいらしく笑った。
「下の名前で呼ばれると、ちょっと嬉しくなります。前の職場では当たり前にそうだったんで」
「そうだったの? じゃあ、紅里くんって呼んでもいい?」
「ぜひ!」
それから彼は、少し前屈みになって、私の首かけ名札を覗いた。
「俺も、深琴さんって呼んでもいいですか?」
「わあっ、それ新鮮。会社の人から下の名前で呼ばれることなんてないもん。なんか良いね、仲良し度高い感じがする」
「良かった。馴れ馴れしいかなって思ったんですけど、深琴さんさえ良ければそうさせてください」
新人くん、もとい紅里くんは、人懐っこい笑顔でそう決めた。
私たちは社内を歩き、各部署を回った。
「まず、私たち経理の隣が総務部。労働環境や社則、人事を扱ってる部署ね。上の階が営業で……」
彼を連れて、営業部の部屋に入る。
「部長はあの奥のデスクの人で、こっち半分は営業一課、ここからは二課」
紅里くんが入ってくると、営業部はざわついた。主に女性社員の熱視線だが、性別に拘わらず紅里くんは目を引きつける。ルックスが良い上に、物腰も柔らかい。営業部長やその部下の社員たちへの挨拶も、ハキハキしていて感じが良い。かなり印象が良かったようで、営業部長が機嫌良さそうににこにこしている。
営業部への挨拶を済ませ、別の部署へと移動する。途中、私と紅里くんは雑談混じりに仕事の話をしていた。
「営業部長、かなり怖いけど、他のメンバーは面白い人ばかりだよ」
「怖い?」
「怖いというか、気難しいというか。まあ経理の部長ほどじゃないけど、お天気屋さんなんだ。機嫌を損ねなければ面白いおじさんだよ」
「それ、怖いんじゃなくて面倒くさいだけですよね」
しばらく一緒にいて見えてきたのだが、紅里くんは結構、ストレートな物言いをする。そして私は、彼のその手の発言に納得させられる。
「まあ、それはそうだ」
自分もそう思っていたのに上手く言い表せていなかったのを、代わりに言葉にしてもらえるのだ。
ひととおり各部署を巡回し終えたところで、ちょうど昼休みがやってきた。私は紅里くんと共に食堂へ入り、電気ポットでお湯を沸かした。
「レトルト食品を作る人もいるから、早めに来た人がこうやって多めにお湯を沸かしておくんだ。あとね、ここにお茶があるから自由にいれていいよ。それと……」
お昼ごはんを兼ねて、給湯室の説明をする。紅里くんは、メモをとりながら頷いていた。説明しつつ、私は頭上の戸棚を開けた。
「コーヒーのストックはここで……ひゃっ!」
と、開けた途端、いきなり腕を引っ張られた。なにかと思ったら、紅里くんが私を引き寄せ、背後から抱きしめている。突然のことに、ぽかんとした。
「なに?」
「なにじゃないですよ」
耳元で囁かれ、尚疑問符を頭に浮かべる。そして私は、床に落ちている包丁に気づいた。
「わ、なにこれ」
「深琴さんが開けた戸棚から落ちてきたんですよ。危うく刺さるところでしたよ」
紅里くんが私の腕を離す。どうやら戸棚の中に強引に詰めてあった包丁が、崩れて落ちてきたようだ。改めてぞっとした。刺し所が悪かったらと思うと、あの世タイムラインに「失血死」なんて追記されているかもしれない。紅里くんが引っ張ってくれなかったら、少なくとも怪我はしていた。
「ありがとう、おかげさまで助かったよ」
「良かったです、無事で」
言った後で、紅里くんはハッと目を丸くした。
「無事じゃない! 手、切ってます」
彼に言われて私は自分の手を見た。たしかに、左手の薬指の先から、少しだけ血が出ている。
「なんだ、これだけか。これだけで済んで良かっ……」
ほっとしている私の左手が、ぐんと引っ張られた。紅里くんが私の手首を掴んでいる。血の出た手のひらを彼の端正な顔に近づけ、まじまじと見つめているのだ。微かに吐息がかかってくる。よく見ると、紅里くんの唇がだんだん指先に迫ってきている。
「え、あ、紅里くん?」
焦る私の耳に、パコンと軽やかな音が聞こえてきた。紅里くんは我に返ったように、顔を引っ込めた。音の方を見ると、総務部の女性社員がお昼ごはんの入ったコンビニの袋を、床に落として絶句していた。
それを見て、私は今の自分の状況が誤解を与えかねないことに気がついた。
「大丈夫! 包丁でちょっと切っちゃった程度の怪我なんて怪我のうちに入らないから。気づかなかったくらい痛くないよ」
わざわざ説明的な言い回しをして、私は床の包丁を拾った。しかし総務の彼女はまだ青い顔をしていた。
「名前で呼んでるし……」
ああ、なんだか面倒なことになりそうだ。私は包丁をしまうなり、紅里くんを連れて食堂を飛び出した。




