恋をはじめよう
と、突然、ベランダからトントンと音がした。室内とベランダを区切るガラス戸に、なにかがぶつかっている音のようだが、カーテンで覆われていて見えない。小春の腕がすっと、元の人間のそれに戻る。彼女は腰を上げ、カーテンを捲った。
するとガラス戸の向こうに、満面の笑みのギャル――ゆっぴが見えた。
途端に小春が顔を顰め、シャッとカーテンを閉める。
「多分あれだ。深琴が部屋に戻ってこないから、ここを確かめに来たんだ」
「うん、そうだね」
カーテンを閉められてしまったゆっぴだが、向こうも内側にいる私が見えたのだろう。しつこくガラス戸を叩いて、開けろと催促する。小春は苛立った顔で頭を掻き、やがてガラッとガラス戸を開けた。
「玄関から入ってきなさい!」
「みことっちー!」
小春が叱るのも気にせず、ゆっぴは室内に転がり込んで私の元へ一直線に飛んできた。
「聞いて聞いて、マジメガハイパーテンション鬼マックスなんだけど!」
突風の如く突っ込んできて、スマホを掲げている。
「マジマジのマジ、やっば、神展開」
「どうしたの?」
コーヒーをひと口飲んで、ひとまず聞く。ゆっぴは嬉しそうに、スマホを突き出してきた。画面には、「お申し込みいただきましたチケットについて、厳正な抽選を行った結果、当選となりましたのでお知らせ致します」の文字が映し出されている。
ゆっぴの赤い瞳がきらきら輝いた。
「ライブのチケット当たっちゃった! きゃーっ!」
ぴょんぴょん飛び跳ねてそのまま羽ばたいて宙返りするゆっぴを、私は黙々とコーヒーを飲んで眺めていた。小春がより一層、怖い顔になった。
「人んちで暴れるな」
ゆっぴから抜けた黒い羽根が宙を舞っている。コーヒーの中に落ちてこないよう、私は手をひらひらさせて払い除けた。
「ライブねえ。バンドかアイドルかなにか?」
あまり興味はなかったがとりあえず会話を繋げると、ゆっぴはひゅっと滑空してきてテーブルを挟んで向かいに着地した。
「うんうん、地上の人にも名が知れてるくらいのウルトラスーパー有名人だよ」
ゆっぴは興奮気味に翼をはためかせ、スマホを操作した。
「あのね。悪魔って歴史に名を残してるような有名な悪魔から、あたしみたいな所謂低級までピンキリなんだけどね。階級が上の方の悪魔は当然人気があって、ファンもついてるの」
小春が戻ってきて、私の隣に腰を下ろす。
「芸能人みたいな感じね。神話に載ってるクラスになると、やっぱ注目されるのよ」
「はあ」
右にゆっぴ、左に小春と、私はふたりに挟まれて間の抜けた返事をした。ゆっぴはうきうきと明るい声で続ける。
「中でも傲慢のルシファーくん、憤怒のサタンさん、嫉妬のレヴィアタンちゃん、怠惰のベルフェゴール様、強欲のマモンくん、暴食のベルゼブブくん、色欲のアスモデウスちゃんは悪魔のカリスマで超絶ハイパーリスペクトされててね! 『罪セブン』って呼ばれてるんだ」
そして再び、スマホをこちらに向けた。
「でね、これがあたしの最推し! 怠惰のベルフェゴール様!」
画面に映っていたのは、もっさりした地味な男だった。くしゃくしゃの前髪で目が隠れていて、猫背でどうにもシャキッとしない。同じくスマホを覗き込んで、小春も驚いていた。
「へえ、こういうのが好きなんだ。あんたギャルだし、ギラギラしたギャル男が好きなのかと思ってたよ」
「ギャルならギャルが好きとは限らないでしょー。ああベルフェゴール様。だらだらしててやる気がなくて、たまんない」
ゆっぴは頬に手を当て、でれでれした声で画面の中の男を称えた。
「喋り方もね、ボソボソしててなに言ってんのか全然分かんないの。黙って座ってるかと思ったら居眠りしてたりとか。ライブすらサボるときもあって、もう最高ー!」
「全部欠点に聞こえるんだけど、そこが魅力なの?」
「レヴィアタンちゃんみたいなファッションかわいいし、アスモデウスちゃんみたいなセクシーさも見習いたいし。けど男の子のタイプとして好きなのは、ベルフェゴール様みたいな気だるげな人かな。こういう人と付き合ったら、どんどんだらけさせて堕落させたい。マジリアコになってしまう」
「分からん」
小春が首を傾げる横で、私はちょっと、胸をちくりと痛めていた。そうか、ゆっぴは私とは違って男の人が好きなのだった。
その方が多数派なのだからおかしくない。でも、先日「なんでもしてあげる」と私を誘惑してきた彼女はやはり単に割り切っていただけなのだと痛感して、勝手にショックを受けてしまった。
小春がゆっぴのスマホを覗き込んでいる。
「ベルフェゴールねえ。私はどっちかっていうとルシファーの方が好みかなあ」
「おっ、ルシ担!? ハルルって正統派イケメンが好きなんだ。ルシファーくんは強引でちょっとワガママだけど、でも実は寂しがり屋で甘えんぼうなところがあるこのギャップ。ルシファーの気まぐれに振り回されたい!」
小春の反応にゆっぴが食いつき、小春は反対側にも首を傾けた。
「いや、罪セブンの中では、って程度よ。担当名乗るほどじゃない。私は罪セブンより神獣の方が好きだし……特にケルベロス」
「ほらあ、やっぱり正統派イケメン好きじゃん!」
なにやら盛り上がっているが、私には全然分からない世界である。私が困惑しているのを見て、ゆっぴが問うてきた。
「みことっち的には? どの人が好き?」
ゆっぴのスマホに別の画面が映る。タイプがバラバラの男女が七人、並んでいた。どうやらこれが罪セブンらしい。
私はコーヒーカップを口につけ、濁した。
「うーん、全員格好いいと思うよ」
「あ、今テキトーに答えたでしょ」
ゆっぴはバサッと翼を広げ、私の肩を揺すってきた。そしてハッとして、目を輝かせた。
「そうだった! みことっちは女の子が好きだからこの中だったら……」
言いかけたゆっぴの口を、私は勢いよく塞いだ。同性が好きなのは、小春にも言っていない。ゆっぴにカミングアウトしてしまったのだって、夢の中だと思いこんでいたからだ。
小春はきょとんとして、私たちを眺めている。
「えっ、なに? よく聞こえなかった」
「なんでもないよ。ゆっぴの近くに虫が飛んでるように見えたんだけど、気のせいだった」
テキトーに誤魔化しつつ、私はまだゆっぴの口を手で押さえていた。小春がふうんと鼻を鳴らす。
「そういえば、深琴の好きなタイプって聞いたことなかったな。高校の頃は部活ばっかりで芸能人追ってなかったし、本も読んでなかった。恋愛もしてなかったよね」
話がまずい方向に流れはじめた。
「罪セブンは知らなくても、地上の芸能人でも漫画のキャラでも身近な憧れの人でもいいから、好きなタイプ教えてよ」
しれっと聞いてくるではないか。これでギャルが好きだと答えたら、ドン引きするくせに。
「あー、うん。健康的で性格が私と合う人が好きだな」
上手い返事を思いつかず、下手な対応をする。小春がニヤーッと笑う。
「そうじゃない。もっとこう、クールな人とか俺様系とか包容力のある優男とか、そういうのが聞きたいの」
「んー……じゃあそれ。その三種で」
「流石にテキトーすぎ。せめてその三種から選びなさいよ」
小春がぐいぐい来る。私はうーんと唸って、返事を後回しにしてコーヒーを口に運び続けた。
ゆっぴが不満げに翼をバサバサさせて、私の手から逃れた。
「違うよー、みことっちが好きなのは、きらっきらでかわいい人なんだよ。ねっ、みことっち」
ゆっぴが勝手に白状してしまう。私はこれ以上小春に悟られまいと、咄嗟に嘘をついた。
「あ、ああ、この前話した秘書課の茉莉花さんのことかな。きらきらしててかわいくって、でもそれは好きなタイプじゃなくて、ああなりたいなーっていう憧れの人ね」
「ん? 茉莉花さん? そんな話したっけ。秘書課の人かあ、あたしも会いたいな」
アホのゆっぴは簡単に流されてくれて、私の秘密は守られた。
見ていた小春が、ふむと唸る。
「深琴は仕事人間で休みの日の過ごし方も分からない、潤いのない女なんだった。男の気配なんて微塵も感じない……」
「そんな言い方……いや、合ってる」
「じゃあ、恋をしたら人生変わるかも」
小春はコーヒーを啜り、目を細めた。
「好きな人がいて、その人と一緒に過ごす休日は楽しい。 会いたくてお洒落して、おいしいお店を調べて、毎日が輝く。いい人に出会えるように、出会いの場にでも行ってきたらどうかな」
「え、でも、みことっちは」
ゆっぴがなにか言いかけたので、私は先に声を被せた。
「そうだねー! 私、この人かっこいいと思う!」
ゆっぴのスマホに表示されていた、罪セブンのセンターを指差す。ゆっぴは目をぱちくりさせた。
「ルシファーくん? あれ? みことっち、男の子でもいいんだ」
「この人もきらきらしてて、かわいい系統でしょ」
ゆっぴが余計なことを言わないように、私はなんとか流れを作る。小春はへえと感嘆した。
「あんたもルシファー選ぶか。顔は良いけど、この人の性格は深琴には合わない。こんな俺様な奴に付き合わされたら深琴が消耗してしまう」
小春は画面の中を指さしつつ、言った。
「安らぎをくれるベルゼブブくんの方が合いそう。でも、深琴はもっと甘えてもいいと思うから、お姫様扱いしてくれるサタン……けどサタンって深琴を子供扱いしそう。だったらいっそマモンくんとかの方が……」
小春ときたら、お節介が度を越して私に似合う人を選びはじめた。なにやらぽくぽくと考えたのち、小春はうん、と大きく頷く。
「だめだわ、中途半端な奴に深琴は任せられない。深琴に必要な人は、華のある正統派イケメンで性格は温厚、かつエスコートできる王子系で、真面目で嘘をつかなくて、高年収で実家は太く、日頃は紳士な振る舞いだけれど内に燃えるものは熱く恋に情熱的で一途で、いざというとき強引な一面もある、声の良い好青年」
「そんな人いる?」
呆れ顔になる私に、小春はあははっと軽やかに笑った。
「冗談だよ。でも、本当にいたらこの人なら深琴を任せられる」
「まあたしかに、こんなハイスペックがいたら結婚したい」
小春の冗談に私も冗談で返す。そんなやりとりを見ていたゆっぴが、私の顔を覗き込む。
「マジ? そうなんだ、へえ」
赤い瞳の奥で、彼女はなにを思ったのだろう。ゆっぴのその言い方は、感情らしい感情が捉えにくかった。




