出現、甘やかし悪魔
熱を持った指が、私の頬に触れる。
「やば。ドキドキすんね」
黄金色の髪が、彼女の耳に、首筋に纏わりついて、白い胸へと延びている。私を見つめて離さない潤んだ瞳は、夕焼けの海のよう。
桜色に色づいた唇が割れて、尖った牙がちらりと覗く。
「ねえ、みことっち。してほしいこと、教えて」
彼女の柔らかい肌の感触は、触れるだけでも気持ちいい。吐息が、耳を擽る。
「してほしいこと、したいこと、一個ずつ確認してこ。全部、あたしが叶えてあげる」
私を甘やかす、悪魔の囁き――。
ああ、だめにされる。
*
「次はー、みつばち町、みつばち町」
電車の社内に響いたアナウンスで、私は目を覚ました。しまった、座席で寝ていた。しかもなんか、ちょっとヤバい夢を見た気がする。
会社で三徹してやっと帰れると思ったら、気が抜けてしまった。いかがわしい夢を見てしまったのも、多分、疲れているからだ。
私は大きくため息をついて、声に出して呟いた。
「さっきの夢の子……めちゃくちゃタイプだった……」
科内深琴、入社三年目の会社員。
こんなこと誰にも言えないけれど、女の子が好きだ。
四月、春なのに穏やかな陽気とも恋の出会いとも無縁の、自宅と職場の往来だけの日々が私を燻らせている。
自宅アパートの最寄り駅で電車を降りて、日の落ちた住宅街で体を引きずる。
二年目の後半に入ってからは深夜残業が当たり前になってきて、帰ってきて炊事はおろか食べ物を口にする気力もなく、気絶するように眠り、早朝からまた会社に出かけ。ここのところ数日に至っては、自宅アパートに帰る余裕すらなく、会社に泊まって仮眠室で浅い眠りを繰り返している。
今日は久々に帰ってこれた。しかし数時間もすればまた出勤である。
そういえば、ベランダのガラス戸の鍵がぶっ壊れて久しい。大家さんに連絡するのが煩わしくて、長いこと放置している。あれもなんとかしなくては。
仕事でいっぱいいっぱいで、なにもできていない。
こんな私の願望は三つだけ。
おいしいもの食べたい。ゆっくり寝たい。そして。
めちゃくちゃかわいい金髪ギャルに優しくされたい……。
女の子が好きだ。恋愛的な意味で、自分と同性の、女の子が好き。特に私のような陰キャに無関心の、明るくてかわいい太陽みたいなギャルが好きだ。
頭の古い会社にも、昭和で止まっている両親にも、友達にも、女の子が好きだなんて絶対に誰にも言えないけれど。
金髪ギャルとイチャイチャしたいあまりに、うたた寝したら夢に見てしまう有様だ。電車で見た夢の理想の美少女に想いを馳せ、私は遠くを見つめた。
実際、陰キャに優しいギャルなんて都市伝説なのだから関わる機会もないわけだが、妄想くらいいいではないか。
「うう……さっきの夢の続き、見たい」
帰って寝たら、またあの子の夢を見られるだろうか。
アパートに帰り着いた。部屋の鍵を回してガチャリと扉を開けると、数日帰っていなかった八畳半ワンルームが私を出迎える。
「ただいま」
誰もいない部屋に向かって言うそれは、私の中にいつの間にか根付いた習慣である。ひとり暮らしのワンルームに帰ってきても、「おかえり」が返ってくることはない。
だがある種の儀式というか、そんな形式ばったものではないが、なんとなく言わないと気が済まない。だから私はいつも、虚空に向かって「ただいま」を唱える。
ああ。こんなとき、同棲の恋人がいたら。帰ってきた私に「おかえり」と言ってくれる、明るくて華やかなギャルがいたら……。
などと溶けた頭で鬱々と考えていると。
テレビの音がする。コンソメの匂いがする。死にかけの頭が、死にかけなりに違和を感知する。
そして、その部屋の真ん中。散らかったローテーブルの前に座る、背中。
呆然とする私に、その少女は顔だけ振り向いた。
「おー! おかえり、みことっち!」
蜂蜜色のロングヘアに、夕暮れのような赤い瞳。ニカッと笑った口から覗く、尖った牙。
背中から伸びる、真っ黒な翼。
とすっ。
と、胸に矢が刺さる音がした。
ひと目惚れだった。
「帰ってくんの遅すぎウケる。あ、お菓子食べる?」
イカれたワーカホリック三年目。
ついに私は、幻覚が見えるようになったようだ。