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老人

「あたしは現ウラヌス家当主、ミスティア・ウラヌス!あなたたちの命はウラヌスの名に懸けて保護するわ!」


 そのミスティアの言葉に“竜腕”は我に返ったように何かつぶやくと、彼女に向き直す。


「お前がこいつらを殺ったのか?」


「そうだよ」


「すごいなお前。流石“星従姫せいじゅうき”様と言ったところじゃないか」


 星従姫というのはミスティアの異名だ。由来は彼女の操術にある。


「操術は自由度が高く漠然としているほど操作が難しいという。特にお前――いや貴君の操術【引力】の類は操作が難しすぎて満足に扱える者は皆無と聞いたが……その精密操作性、精神力には驚いた」


 今にもわしゃわしゃ撫でてきそうな褒め方にミスティアは少し照れる。が彼の顔を見て凍り付くような感覚を覚えた。


 明らかに張り付けたような笑顔。目が笑っていないどころか瞳孔が開ききってしまっているその顔は不気味以外の何物でもなかった。


 男はミスティアが自分の顔を見て驚愕していることに気づくと、自らの顔を少しそらす。


「ああこの顔だろ?まあ気にしないでくれ、そういう体質なんだ」


「そ、そうなんだ」


 流石のミスティアも少々引きつった笑顔になる。明らかに異常としか言いようのないのだが、そこを指摘することはできそうにない。


「それはそうと、救助してくれた件は感謝する。これ以上は厚かましいと思うが、こいつらを運んでくれないか?軍を呼ぼうにも時間がかかるうえ、この状態だと自力でもたどり着けん」


 アシェッドは顎で荷馬車を指す。馬に乗り上げてしまっている荷馬車は素人目で見てもいたる所が壊れかけているのがわかった。商人の男もその小太りした体を地面に横たわらせ気絶している。一応もう一人いるが、


「……ぉ…ぃ、おーい、助けてくれー」


 この調子では歩いて帰ることもできないだろう。


「わかった。すぐ出発するね」


 ミスティアは用心棒としては臆病すぎる男に呆れた視線を送りながら散乱していた積み荷を万有引力の操作で片づけける。途中まるで石をどかした時に出てくる虫のようにビビり散らかす男がいたが、極力無視して彼の脇に積みなおす。


 既に馬の上に乗り上げた馬車は積み荷を片付けるついでにどかされているが、乗り上げられた方の馬は立つことができない様子。もう一頭は興奮して暴れている。


 アシェッドは動けない馬に近づき、暴れる足を片手で捉えて見る。前足の先が普通ならあり得ない方向に曲がって固定されている。確実に折れていた。しかし馬はそれでも立とうと必死にもがく。ただ馬にとって足の骨折は生命線を失ったと同義。だからこそアシェッドは淡々とミスティアに伝えた。 


「殺処分だ。できるだけ楽に殺してやれ」




 それから幾ばくかして、ミスティアはシャリオンへ帰還するために荷馬車等々と一緒に飛び始めた。気絶して未だ起きない商人や震えが止まらない男は二人とも荷台の中に詰め込まれており、馬は商人が持っていた鎮痛剤を打って現在は眠っている。ただもう一頭の馬は見た目こそきれいだが既に安楽死の処置がとられていた。


「そういえばさ、“竜腕”の名前はなんなの?」


 御者席に座っている“竜腕”と並走しながらミスティアは尋ねる。


「アシェッド・ブラヴァツキーだ」


「わかった。よろしくね、アシエ」


「アシエ?」


 早速あだ名をつけられて困惑するようにアシェッドは聞き返す。


「アシェッドの最初三文字を抜き取ってアシエ。こっちの方が呼びやすいでしょ?」


「……まあ好きにしたらいい」


 これ以上言っても意味がないと悟ったのだろう、アシェッドはそれ以上自分の名前の呼び方について言及しようとしない。


「なんでシャリオンに来たの?」


「俺は世界中を旅をしてるんだ。それで18年ぶりにここに帰ってきた」


「へー、じゃあアシエはここ出身なんだ」


 そこでミスティアは疑問に思った。領主でありながら、なぜ自らの領地出身の異名を持つほどの男をあたしは知らないのだろうと。しかしアシェッドに尋ねても知ったこっちゃないはずだ。


「アシエって操術使える?」


 ミスティアはアシェッドにそう訊きながら一回転して上昇し、アシェッドの頭上から彼をのぞき込む。


「なぜそう思う」


「世界中を旅する人は魔物との戦闘が多いから相応の力がないといけない。だから基本的に複数人で行動するけど、君は見たところ一人だよね。確実に強力な操術を持っているのは必然じゃない?」


「……鋭いな」


 ドヤ顔しながらミスティアは飛び上がり空を舞う。そこには先ほどの威厳なんてなかった。


 アシェッドはそんなミスティアに苦笑しながら御者席に横になる。見上げる先ではミスティアがいる。青い空を舞う一点の純黒。その姿は彼女の幼い見た目とは裏腹に美しかった。


「まるで鳥だな」


 アシェッドはぼそりとそう零した。




 商人たちがシャリオンに着くのはそう時間のかかることじゃなかった。


 街に着くや否や商人は大事をとって病院に運ばれ(幸い後遺症などは残らないそうだ)、用心棒の男も軽い手当の後ギルドで待機している。先ほどのことがトラウマなようで軽い精神疾患に陥っているそうだ。


 荷馬車も専用の技師が点検している。興奮していた馬は現在調教師のもとに一旦預かられており、安楽死させた馬は後日水葬される算段になった。


「随分手際がいいな。他の領土とは大違いだ」


 皮肉交じりにアシェッドはつぶやく。そもそも貴族は平民よりも上位の存在であるという考えが根底にあるため、民衆の背中に座ってふんぞり返っている者が多い。流石に当主となるとそこまで酷い者は殆どいないが、それでもここまで民衆と共にいるというのは何とも異質だ。


 今もこうして庶民向けのレストランで会食しているのも本来貴族にあるまじき行為と言える。


「おっちゃーん、デラックスメガ盛り定食おかわりー!」


「あいよー」


「どれだけ食うんだよ……」


 呆れたと言わんばかりにアシェッドは目の前のメリッカを口に放り込みながら言う。


「それは彼女の操術のせいですよ」


 ミスティアの隣に座るヒュドラが言う。ヒュドラはミスティアが街に帰還したと同時に合流していた。


 服装は現在白のシャツと、カウボーイのような側面が開いた革のズボンを着用している。腰には彼女の武器である刀が一本添えられていた。


「ミスティアの操術は他の人よりもずば抜けて精密制御に優れ、かつ膨大な精神力を持っています。あなたも彼女の操術を見たと思いますが、圧巻だったでしょう?ほんのちょっと加減を間違えただけで自滅しかねないものをいとも簡単に操る技能を」


 そこまで聞いてアシェッドは納得がいった仕草を見せる。


 精神力は操術を行使するうえで重要な力だ。操術を使用するたびにどんどん消耗し、なくなると最悪精神障がいを持ったり操術の行使が不可能になったりしてしまう。


「あそこまでの力を引き出すにはやはり膨大なエネルギーを消費する。だから彼女はあんなに食べないとやっていけないんですよ」


 ウエイトレスから渡された全てが巨大な定食を見て目を輝かせるミスティア。先ほども同じ定食を完食したとは思えない速度で食べていく。


 しかしその話を聞いたうえでも、ただの食い意地の張った少女にしか見えない。貴族らしい上品な食べ方なぞ関係ないと言わんばかりの食いっぷりだ。流石のヒュドラも苦笑いしている。


「あ、そういえばこちらに来た時にエドガー様に会いましたよ。どうやらリオブルガンテ教団の動きが不穏だそうで」


「リオブルガンテ教団だと?」


 ヒュドラの一言にアシェッドが食いつく。その反応はどこか普通じゃなさそうだ。


「は、はい。意図は不明ですがここ最近ウラヌス領に入る教団員が多いそうです」


 アシェッドは手を顎にやり、何かを考え込むような姿勢になる。それを見てミスティアが食べるのを一時中断して尋ねる。


「ねえ、教団について何か知ってるの?」


 アシェッドは返答として沈黙を返す。そんな彼にミスティアは食べるのを一度中断して見つめる。


「もし知ってるなら、すべて教えて」


「それはできない」


「どうして?」


 ミスティアは食い下がる。彼女も、教団に対してヒュドラやエドガーのようにどこか疑いの目があるのだろう。しかしアシェッドは答えるそぶりを見せない。


「死にたいのか?」


 吐き捨てるような一言をアシェッドが放った瞬間、アシェッドの体が重くなる。動けないというほどはないが、それはあからさまな威嚇行為だ。


「おっちゃん、ごめんけど今からここ貸し切りにしてもらえない?後で倍の金額を払うから」


「は、はあ。おーい、すまんがミスティア様からの頼みだ、今すぐ店から出て行ってくれないか」


 流石は貴族の言葉と言うべきか、店から人はすぐにいなくなった。今店内にいるのはミスティアたち3人だけだ。


「君は教団から逃げてきた人?それならあたしが宣言通り保護してあげる」


「……じゃあその逆だったら?」


 ミスティアは無言でアシェッドにかかる重力をさらに重くする。彼の座っていた椅子はその重さに耐えきれず板が割れ彼は重い落下音とともにしりもちをついた。


 緊迫する空間。今にもおっぱじめそうな雰囲気だ。


 しかしアシェッドはそんな状況でも無表情ながら余裕そうな態度で言う。


「ただ一つだけ忠告しとく。あいつらの狙いの一つはお前だ、生存する最後のウラヌスさま」


 アシェッドがそう言った瞬間、世界が真っ白に染まった――。


 それから数秒後、徐々に視界が戻ってきたミスティアたちが見たのは、誰も乗っていない壊れた椅子だった。


「うそ、逃げられた!?」


 慌てて二人は店の外に出る。しかしそこは人通りの多い街道。既に人混みに紛れてしまっていて見つけることができない。


「おっちゃん、さっきでてった男の人はどっちに向かった?」


「えっと、右側の中央方面だよ」


「ありがと、残りはあとで食べる!」


 ミスティアはそう言い残し彼を追って飛んだ。


「あたしは右、ヒュドラは一応左をお願い!」


随分慌てた様子のミスティアに店主がぽかんとしていると、今度はヒュドラが一言礼を言って紙幣を一枚渡し彼女とは反対方向に走り去っていく。


「いくら何でも貸し切りで紙幣一枚はないだろ……」


 そう言いながら店主は紙幣を見る。直後、彼の「ひゃ、ひゅくまぁぁぁぁぁん!?」


という絶叫が街道中をこだました。




 ミスティアは人混みを上からキョロキョロして逃げたアシェッドを探す。しかしそこまで遠くまで行っていないはずなのに発見に至らない。気づけば随分時間が経っていた。


「どこに行ったんだろ。ここまで人が多いんじゃ見つかるものも見つからないよ」


 遂にミスティアは探すのを諦めて中央の樹の前でひっくり返って止まってしまった。ひっくり返っているとはいってもスカートは地面と反対方向の重力によってめくれることはない。


(彼は一体敵なの?味方なの?教団があたしにとって敵であるのはほぼ間違いなさそうだけど、アシエがどっち側にいるのかがわからない。これじゃエドガーの言うとおり、接触はよした方がよかった相手なのかもしれないね……)


 現状の情報量ではあまりに少なく、答えを導きだそうにも無理がある。


(教団のことは一般常識程度しか知らないし、まずはギルド内のデータベースで勉強しないと。ついでにアシエについても調べよ)


 そう考えミスティアは半回転して地面まで下り、ギルド内に入ろうとする。その時、背後から飛び留められた。朝と全く同じ構図に何とも言えない気持ちになってしまったミスティアは少々微妙な表情で振り向いた。


 そこに立っていたのはまたエドガー……ではなく、帝国軍の男だった。


 濃紺の軍服の肩に付けられた二つの大きな星と二つの小さな星。階級は中佐であるようだ。


「ウラヌス様、早急お話したいことがあるので一度防衛本部へ来ていただけませんか?」


「わかった。じゃあ一回ヒュドラと合流してから向かうね」


 そう言ってミスティアは飛び立とうとするが、再度兵に止められた。


「いけませんウラヌス様。私は卿の護衛も兼ねてここに推参したのです。守るために徒歩で向かってもらわないと困ります」


「そ、そう?」


 少し困ったようにミスティアは言う。ミスティアの強さを加味すると、力が釣り合っていない限り護衛はむしろ邪魔になりかねないことをわかっているのだろうか。


 しかし別に従わない道理もないのでミスティアはしぶしぶ中佐と防衛本部へと向かう。


 帝国軍。大陸を単一の国家が統治している現在、対人戦はほとんどなく魔物からの防衛を主任務とする皇帝直属の実力組織だ。特にシャリオンでは街を囲む壁の管理・運営を担っている。


 ミスティアと中佐の二人は大通りを通り、途中近道だと称して建物の間の路地裏へと入る。薄暗くジメジメしていてが、道にゴミは落ちておらず誰かが清掃をしているようだ。


 そこでミスティアは今更な違和感に気づいた。


「ねえ、どうしてずっと歩きで向かってるの。中央から防衛本部は直線距離でも10キロは離れてるから、路面電車に乗ればいいのに」


 中尉の歩みが止まる。瞬間、中尉の体が揺らぎその姿が変化していく。


「おや、気づくのが遅かったですね。それだけ引力の操術は便利だということですか」


 瞬間的にミスティアは飛んで身構える。彼女の額を一抹の汗が流れ落ちる。


 中尉の姿は既にそこにはなく、彼がいたところには燕尾服を着た、いかにも執事のような初老の男が立っていた。


「お初にお目にかかります、ウラヌス様。本日はあなた様をお迎えに上がりました」


 ミスティアは流し目で周囲を見回す。既に狭い路地を囲むように黒装束が複数人待機しており、皆が不気味な殺気を放っていた。


 しかしミスティアに焦りの表情はない。


「お迎えってどこに?あたしも暇じゃないんだから要件は手っ取り早く済ませてほしいんだけど」


「随分と気のお強いお方だ。しかし、資料と随分乖離があるようですね。もっとアホっぽいと聞いていたのですが」


 その一言にミスティアはカチンとくる。もう容赦はしない、そんな気持ちが彼女から駄々洩れだ。


「その情報が本当なら、世界はとっくに滅んでるよ」


「それを我がリオブルガンテ教団の前で言いますか」


 男は笑う。ミスティアもにこやかな顔になる。しかし直後ミスティアの顔が曇った。


「おかしいですね、そこまで豪語しておきながら得意の操術は使わないのですか?まさか、出まかせを口走ったので?」


 男は両手を後ろに組んだままミスティアに近づく。カツン、カツンという革靴の音が路地に響く。


 ミスティアは近くに落ちていた石の引力を操作し上へ上げる。しかし直後彼女の四方が黒装束に囲まれ、首元に冷ややかな雰囲気が漂う。


「抵抗しない方がよろしいと思いますよ。命までは取りませんが、相応の苦痛を味わうことになるので」


 ミスティアは渋々操術を解除する。すると空中を漂う石は何もなかったように地面に落ちた。


 勝負は決した、と男は暗に伝える。ちょっとでも不審な動きを見せれば切られかねない。


「ねえ、どうせ捕まるなら君たちの目的くらい教えてくれない?」


 この状況でありながら、ミスティアは強気な様子だ。男はそれが面白いのか口角が僅かに上がっている。


「史上最年少の領主様であらせられる割には肝の据わったお方だ。ですがその要求はお答えできかねます」


「あくまで利用するだけだから知る必要はないと?」


「ええ。理解力が高くて助かります」


 ミスティアは小さく「そう」とつぶやく。そしてわざと男に聞こえるように言い放つ。


「ならもう芝居を打つ必要はないよね」


「なに?」


 ミスティアは鼻で笑い前へ進もうとする。しかし黒装束は彼女の耳元で忠告する。「動いたら切る」と。しかしミスティアはそんな忠告も無視して男へ進みだす。


 首元に突き付けられた刃は案の定彼女の華奢な首に触れ、ゆっくり食い込んでいく。そして完全に首に入り込み後ろから抜けた。


 瞬間、彼女を囲んでいた黒装束たちが霧散する。まるで初めからいなかったように。


「この世界の物質はすべて、微弱ながらも引力を持っている。あたしの操術はその引力の強さやベクトルを操る才能。そもそも実体がないなら引力なんてないし、それなら攻撃は不可能ってわけ」


「これはこれは既にお見通しとは、恐れ入りました」


 男は軽く一礼する。これでは初めからそうなるように仕組まれているような気持ち悪さがある。


「この場には誰も来ていないのにあたしを攫おうとしたのはなぜ?この程度なら遅かれ早かれ誰でも気づけると思うけど」


 怪訝な目を向けるミスティアに対して男は愉快そうに返答する。


「ただの老人の戯れでございます」


 絶対に違う。ミスティアは男を睨む。しかし男はどこ吹く風だ。


「申し遅れました、私の名はロゥ。操術は幻覚。以後お見知りおきを」


 ロゥと名乗った男は答える気がないらしい。加えて会話のペースを彼が完全に掌握してしまっていて口出しする隙が無い。


 ロゥはおもむろに胸ポケットから懐中時計を取り出して蓋を開く。


「……おっと、もうこんな時間ですか。それでは私はこれで」


 蓋を閉めて胸ポケットに戻し、ロゥは少々急ぎ目に言うと一瞬で霧散した。


「まっ……」


 ミスティアが手を伸ばすが時すでに遅し。路地裏にはもうミスティア一人しかいない。ただすべて幻覚だったわけなので初めから一人なのだが。


 どこか狐につままれた気分になってしまい渋い顔になる。


(あいつ、想像以上のやり手だった。……リオブルガンテ教団。想像以上な相手)


 拳を握る。無意識のうちに力が入る。


「……こうしてる場合じゃない、ヒュドラと合流しなきゃ」


 そう言ってミスティアは路地裏を飛び立った。




 時は少し戻る。


「アシェッド・ブラヴァツキー。いったいどこに逃げたのでしょう……」


 ヒュドラはミスティアが向かった方角とは反対方向、つまり外周部へと向かう路地裏を歩いていた。


 人通りなんてあるわけがない。他の街道への近道として通る人も少なくはないが、如何せん入り組んでいるため土地勘のない人は素直に街道を進んだ方が早い。


 祭りの準備で騒がしかった喧騒がいつの間にか聞こえなくなる。それにヒュドラは不思議に思って周囲を見る。背の高いアパートメントが連なり、上には何重にもバスタオルやシャツなどが建物を跨がるように張られたワイヤーの上に干されていた。路地裏と言っても日が差すためだ。


「いつの間にか居住区まで来たみたいですね」


 平日の日中の居住区は繁華街と比べて静かなものだ。特に今は祭りの準備で多くの人間は駆り出されているためそれは顕著なものになる。


 ただ、今は異様に静かだ。いくら静かだといっても居住区の路地裏は子供たちの遊び場になっているため決して無音になることはないはずだというのに。


 コツコツとやけに響く足音。何か異様な雰囲気を感じて、彼女の腰に身に着けた鞘自然と手が添えられる。


「ねえ」


 右側面から声がかかる。ピタリと、時が止まったようにヒュドラの動きが止まる。誰もいないこの状況であれば確実に気づくはずの位置。それでありながら気づかなかった。


 全身が冷える感覚が迸る。何か危険な予感が彼女を支配する。


 ヒュドラは一気に体ごと右に向く。。誰もいなかった筈のそこには一人の少女が立っていた。身長はミスティアよりも10センチメートルほど高い。背中の中間あたりまである茶髪を三つ編みで束ね、目は紅と深緑の混ざり合ったようなグラデーションが印象的。しかし紺のフリルのついたドレスの上からアシェッドと同じ紅い竜の鱗の胸当てを身に着けた服装をしており、それはお世辞にも似合っているとは言えない。


 いくつかの差異はあれど、顔つきと言いその胸当てといい、なんとなくアシェッドと似ていた。


「おまえ、だれかさがしてるの?」


「知らない人に向かってお前というのは失礼ですよ。それと質問の答えですが、確かに探しています」


「やっぱりー」


 少女はにぱーっと笑いながらヒュドラに近づく。少女の年齢は10歳くらいだろうか。しかし言葉はどこか片言で、言葉遣いはもっと幼い印象を受ける。


 ヒュドラは子供相手にどうかとは思いつつ、警戒は解けない。しかしこのまま去るのも失礼だと感じ少女の相手をしてあげようと目線を合わせるため中腰になる。


「ここらへんで竜みたいな腕の男を見ませんでした?私はその人を探しているのですが」


「あー、おまえもおとーさまをさがしてるんだー」


 お前も?お父様?ヒュドラは突然のカミングアウトに目を丸くする。


「お父様ということは、貴方はアシェッド・ブラヴァツキーの娘……?」


「んーそうなるの、かな?」


 曖昧な返事にヒュドラは首をかしげる。幼い故に父親の概念がわからないのか、それとも複雑な家庭事情があるのか。


「おまえもおとーさまをさがしてるってことは、おまえはみすてあ?それともひゆどら?」


 少女はまるで二人を知らないような口ぶりで訊く。ヒュドラの中ではわからないことだらけで混乱しそうだ。


「まーどっちでもいいや。おねーちゃん、あそぼ?」


 少女の顔が狂気に染まる。三日月形に裂けたような笑み。彼女の手にはいつの間にか短剣が握られていた。


 瞬間、ヒュドラの本能が危険だと叫ぶ。常人の動体視力では捉えきれない瞬間移動とも呼ぶべき神速の接近。ヒュドラは咄嗟に刀を半分だけ抜きその攻撃を受ける。


 甲高い金属音と飛び散る火花。迸る衝撃波で周囲の洗濯物が激しく揺れいくつかは吹き飛ばされた。


 数秒の鍔迫り合いの後、少女が刀を強く押しその勢いで後退する。ヒュドラはその隙に刀を抜刀し構える。


「そーいえば、こーいうときはなのらないとってろーがいってた。わたしはじいん・ぶらヴぁつきー。よろしくね」


 ぎこちない動作でジィンと名乗った少女はスカートの裾を持ち上げ一礼。


 その後ジィンは短剣を逆手に持ち直しクラウチングスタートの構えをとる。


 両者の目が交差する。ジィンの姿が再度消えた。先ほどと同じ神速の接近。ヒュドラは刀でそれを受け流す。ジィンは着地と同時に切り返し襲い掛かる。やはりそれも受け流す。


 ジィンは地面だけでなく二方向の壁さえも足場にして突進、切りつけを繰り返す。対してヒュドラはジィンの着地点を目線で追い続けそれらすべてを自在な刀の構えで受け流し続ける。散る火花の数は数えきれない。


「あははは、こんなにたえるなんてめずらしー!」


 甲高い声でジィンは笑う。いくらヒュドラは捌ききれているとはいえ防戦一方なのは変わらない。ジィンは調子に乗ってきたのか攻撃のリズムが更に早くなる。


 ただヒュドラはそれなのに切羽詰まっているような様子はない。息が上がる気配もない。


「動きが単調すぎです」


 一瞬、ヒュドラの構えが変わる。直後のジィンの突進を受けずに今度は体を反ってかわした。同時に刀がジィンの腕を撫でるように触れ、斬り飛ばされる。


 腕を握る短剣ごと飛ばされたジィンは残った両足と左手でブレーキをかける。飛んだ腕は切り口から血をばらまきながらジィンの足元に落下した。


 血が零れ落ちドレスが真っ赤になっているというのにジィンは一切痛がる様子を見せない。それどころか歓喜しているとさえ感じる。


「わー、おまえつよいね」


 無邪気な子供のようにジィンは言う。そして落ちた腕を足で踏み抑え、左手で短剣を引っ張る。


 強い握力で握っていたために短剣は取れない。しかし直後関節が、筋肉が千切れる生々しい音がなり指が引き千切られる。


 その当たり前のように行われた異常な行動にヒュドラは絶句するしかない。


「どーしたのー?すきだらけだよ」


 ジィンは短剣を左手に持ち懲りずに突進する。速度は先ほどより早い。だが見切れないわけではない。


 二本の太刀筋が交差する。ヒュドラの頭上で斬り上げられた左腕が舞う。ジィンの腕はもう残っていない。


 振り返る。腕が落ちる。だが同時に聞こえるはずの金属音がない。ヒュドラは流し目で落ちた腕を見る。そこに短剣はなかった。


 一拍遅れてジィンが振り返る。口にくわえられた、血の付いた短剣。そこでヒュドラはやっと気づいた。シャツの腹部が赤く染まる。そこにあったのは、深く斬りこまれた傷。


(判断を誤った!?)


 驚くヒュドラを見て、ジィンはまた裂けたような笑みを向ける。まるで判断を誤るよう仕向けたように。しかしそれが相手の純粋な技量によるものなのか操術によるものなのかの判断はつかない。


(これ以上の戦闘を長引かせるのは危険そうですね)


 ヒュドラは受けの態勢をやめ攻撃に転じる。


 強く踏み込む。それだけで地面にひびが入り沈む。次の瞬間にはそこにヒュドラの姿はない。


 ジィンとほぼ同格な速度でヒュドラは彼女の正面やや左に立つ。瞬時のブレーキで石畳がめくれ上がり轟音が響く。そこからヒュドラは間髪入れず右下から左上への切り上げ、俗にいう逆袈裟ぎゃくげさ斬りでジィンの半身を分断する!


 宙を舞うジィンの半身。絶命するまでの一瞬、ジィンは奇妙にも裂けた笑みを浮かべたまま口を開き短剣を放した。


 勝敗は決した。ヒュドラはゆっくり息を吐き刀についた血を払う。


「さて、厄介なことに――ッ!」


 ヒュドラの背中に突如襲い掛かる計三回の刺突。そのうち最も高い位置のものは肺を刺されたらしく息が苦しくなる。


 ヒュドラは焦りつつ前進して距離をとり振り向く。


 そこに立っていたのは、死んだはずのジィンだった。


 ヒュドラの脳裏を再生という単語がよぎる。しかし死体のパーツはすべてそろっており、動く気配はない。


「あはは、おどろいてるー!」


「誰でも驚きますよ、殺した人間が目の前に立っていたら」


 してやったりと言わんばかりにジィンは無邪気に言い、ヒュドラも軽口で返す。


「ここまであそべたのはひさしぶりー、とってもたのしー!」


 くるくると回り、新品同然のドレスがふわりと持ち上がる。血だまりの上で、血の付いた短剣を持ちながらしているという点を除けば、それは年相応に見える。


 あまりに隙だらけの動きだが、ヒュドラには手が出せないでいた。


 回っている間、常に据わった目がこちらを見つめ続けている。今飛び出せば返り討ちに遭うのは明白。


 一見すると遊ぶ子供に対して攻めあぐねるという異様な状況。この状況を切り抜ける策はあるのか……。


「お嬢様、ここにいらっしゃいましたか」


 突如として響く男の声。二人はその声の主に視線が向かう。


 アパートメントの屋根の上、彼はそこに立っていた。


「ろー!」


 ジィンは叫ぶ。それに呼応するようにロゥは屋根から飛び降り、まるでミスティアのようにゆっくり速度を落としながら地面に着地する。


「お嬢様、そろそろお時間ですので帰りますよ」


「えー!まだあのおねーちゃんとあそびたい!」


 ジィンがヒュドラを指さす。ロゥはやれやれと肩をすくめ首を横に振る。


「ダメです」


「やー!」


 駄々をこねるジィン。ただポカポカパンチはすべてすり抜けて当たらない。それが更にジィンの怒りを誘ったのか、パンチの速度がどんどん上がっていき最早それはラッシュの域に達している。


 それとは対照的に、ロゥは冷静眼差しで彼女の背後を見る。


「ジィン、いくら遊びでも戦闘に油断は禁物です」


 ジィンの背後にヒュドラが突如現れる。その瞳孔の細い瞳も相まって、ジィンを狙う姿はまさに獲物を狩る大蛇のよう。


「はぁ!」


 目にもとまらぬ剣技がジィンを襲う。一瞬にしてジィンの体が細切れにされる。しかしそこから皮を破るようにジィンが現れヒュドラに向かって渾身の正拳突を放つ。


 常人ならばそれだけで絶命するであろう一撃。しかし防御は間に合わない。鳩尾にめり込んだ拳が肺を圧迫し、口から空気が吐き出される。その衝撃のままヒュドラは高速で吹き飛ばされ向かいの壁に激突。蜘蛛の巣のように壁が割れ貫通。キッチンの壁にぶつかり落下し、ヒュドラは膝をついた。


 その衝撃に耐えきれなかったのか、キッチンの壁が崩れ、轟音を上げながらヒュドラに覆いかぶさるように落下する。


「さあ、行きましょうか」


「……は~い」


 気のない返事でジィンは返す。彼女は名残惜しそうにヒュドラのいるところを一瞥すると、ロゥを追いかけて走り去っていった。


 その数秒後、ヒュドラは瓦礫の山から何事もなかったように立ち上がる。背中に乗っていたレンガの破片が音を立てながら落ちる。


 ヒュドラはその後手に握りっぱなしの刀を持ち上げ刃を見る。血や土埃などの付着があるが刃こぼれや変形の類は一切ない。それを確認するとヒュドラは鞘に納刀する。そして大きなため息をついた。


「街を破壊してしまうし、敵には逃げられるし。散々ですね」


 唯一の救いは、破壊した部屋には誰もいないということだ。仮にいたらこれ以上の惨劇になっていただろう。死者がいないだけまだマシだ。


 ヒュドラは瓦礫をよけながら建物の外に出る。と同時にミスティアの呼ぶ声が上空から聞こえた。


 ヒュドラは空を見上げ手を振る。ミスティアの姿を見た途端緊張が抜ける感覚をヒュドラは感じた。

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