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赤い雨  作者: 砂野秋
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赤い雫


第一章 赤い雫



赤い滴が、ポタッ、とフロントガラスに落ちた。


助手席に座っている私は、何だろう?と、それを眺める。


「やだー、何かしら、この汚れ」


ハンドルを握る母が、不快そうにチラと汚れに目をやった後、また視線を前に戻す。


「新学期そうそう、なんか不吉…」

私は呟く。


「そうねー、今日は糸ちゃんが中学二年になって、初めての登校日だもんね。ていうか、初日に寝坊しないの!おかげで車出さなきゃいけないし、変な汚れは着いちゃうし…」

母が運転を続けながら、私に文句を言う。


「ごめんなさい…」

私は、さらに小さい声で呟く。


「いいのよ!」

母が肩までの茶色いウェーブのかかった髪を優しく揺らして振り向き、太陽のような明るい笑顔を私に見せた。

「いいの、いいの。人間は、失敗する生き物よ。次から気をつければいいの」


いつもの母の言葉に、私の縮こまった心が深呼吸して楽になる。


母は42歳だが、年より若く見える。今日も、いつものようにベージュのワンピースを着て、優雅な印象だ。


「それにしても、この汚れは一体何なのかしら?」


母が、黒い軽自動車を運転しながら、チラチラとフロントガラスに着いた赤い汚れを見る。

その赤い汚れは、走行中の風に煽られて、ツツツとガラスの上を滑り、蛇行して不気味な赤い模様を描く。


「ほんと、なんなんだろ」


話題が変わったことにホッとして、私は相槌をうつ。


フロントガラスに顔を近づけ、空を見上げる。灰色の厚い雲が広がっていて、太陽はどこにも見当たらない。


その瞬間、パタパタパタと、また赤い滴が降ってきて、私は悲鳴を上げて仰け反る。


「キャッ」


「大丈夫?糸ちゃん」

母が一瞬振り向いて、心配顔で私を見る。


「ビックリした…」


降ってきた赤い滴は、また、風に煽られて薄く広がっていく。

なんだか、母の作るステンドグラスみたい…。

母は専業主婦で、ステンドグラス作りを趣味にして、毎日楽しそうに暮らしている。

口に出したことはないが、いつか母みたいな人生を私も送れたら。

母は私の憧れだ。


「なんなのかしら…。空で鳥がケンカでもして、血を垂らしているのかしら?それとも、ファ…なんとか現象…」

「ファフロツキーズ現象?」

「そう、それ」

「空から魚とかオタマジャクシとか降ってくる…」

「糸ちゃんは、そういう変な話ばかり、家のパソコンで見漁っているものね」

「でも、こんな真っ赤な滴なんて…」

「赤潮か、どこかの国の汚染された川の水が竜巻で巻き上げられて、この街の上空に移動して降ってきたとか?分からないけど…」


そう言いながら、母がワイパーを動かそうとした、その時。

パタパタパタパタパタパタと、赤い滴が雨のように続けざまに降ってきて、母が慌ててワイパーを動かす。

あっという間に車の窓という窓が真っ赤に染まる中、母の動かしたワイパーだけが扇形に視界をクリアにする。

視界を確保できたことにホッとしたのも束の間、目に飛び込んできたのは、降り続く赤い雨に、みるみる真っ赤に染まっていく街並みだった。

通学途中にいつも眺めるビルや家々が、屋根から次第にジットリと、赤い液体に覆われていく。


「何これ…」

さすがに、明るい性格の母の顔に恐怖の色が浮かぶ。

すぐに、学校の正門から百メートル程離れた細い路地裏にたどり着き、母は黒い軽の車を止めた。

エンジンは切ったものの、ワイパーは動かしっぱなしにしている。

そうでなければ、四方の窓は赤く塗り込められて、私の気はとっくにおかしくなっていたに違いない。

「ここから、糸ちゃんには歩いて学校に行ってもらおうと思っていたんだけれど」

母は不安そうな表情でハンドルの上に両腕を重ね、フロントガラスの外を眺める。

「家を出る前に見たテレビの天気予報では、快晴って言ってたのに。傘も持ってきてないし…。傘無しで、こんな赤い雨の中糸ちゃんを行かせられないわ」

「外に出るのは、怖い…」


母と二人、どうしたものかと窓の外を眺めていると、ふいに人がビルの向こうから車の前に出てきて、ドキッとする。


その人物は、赤い傘を差し、そのせいで顔は見えないが、うちの学校のブレザーを着ていて、グレーのチェックのスカートの裾が赤い雨に濡れて少し色がついている。


傘の下から見える、腰まで伸びたツヤのある長い黒髪を風になびかせて歩く様子は、まるでアゲハ蝶のようだ。


姿勢を真っ直ぐに美しく歩くその姿に私は見覚えがあった。


「陽ちゃん!」

車の中から大きな声をかけると、聞こえたのか傘を少し上げ、こちらを振り向く。


泣きそうなその顔は、幼なじみの陽ちゃんだった。


「糸ちゃん!」


泣きそうだった、目鼻立ちの整った綺麗な顔がさらに歪み、長い髪を揺らしながら、すぐに駆けてくると、後部座席のドアを開けて乗り込んできた。

「ふぇ~ん。なんなの?この赤い雨。怖かったよ…」


涙を流し、手の甲で拭う陽ちゃんに、私はハンカチを差し出す。


「ハンカチを持ってるなんて。ほんと、糸ちゃんは女の子だよね」


「いつも持ってないアンタがズボラなのよ」


いつものやり取りだ。こういう異常なことが起きた時ほど、いつもの調子を取り戻さなくては。


「大丈夫?陽ちゃん」


母が運転席から後ろを振り向いて声をかける。


「はい…」


陽ちゃんが私のハンカチで涙を拭う。


「こんな時は、すぐに回れ右して、おうちに帰ればよかったのよ」

「でも、うちはお母さんしかいないし、朝早く仕事に出かけて家には誰もいないから…」

「そうなの?そっか、こんな時に一人で居たくはないわよね」


私と、陽ちゃんは、小学生の頃からよく一緒に遊んでいるが、親同士の交流はほとんど無い。


「ところで、何でいつもの黒い車じゃなくて、赤い車に乗っているのよう?」

「えっ?」


陽ちゃんの言葉に、驚いて母と顔を見合わせる。


「いつもの、黒い車だけど?」


私の言葉に、今度は陽ちゃんが驚いた顔でこちらを見る。そして、みるみる顔が青ざめていく。


ふと、陽ちゃんがたたんで脇に置いた傘を見ると、表面についた赤い水滴はじんわりと床に流れ落ちていて、そこにはいつも陽ちゃんが使っている透明なビニール傘があった。


「それ、赤い傘なのかと思った…」


私の言葉に、沈黙が車内を支配する。


赤い雨が、車の屋根や窓を叩く音だけが、やけに大きく聞こえてくる。


周りを囲まれ、押し潰されそうなその音に気がおかしくなりかけた時、陽ちゃんが呟いた。


「気分が、悪い…」


「もう帰りましょ。こんな日は、学校も休校になるわよ。陽ちゃんは、家に来るといいわ。それに、さっきから陽ちゃん以外の人を全く見ないのよ。目の前は大通りなのに、誰も横切らないし、車も通らない。」


そう言いながら、母がキーを回して車のエンジンをかける。


確かに、赤い雨が降りだす前は、対向車が走っていたし、歩道を歩いてる人もいた。なのに今は…。


まるで街にたった私たち三人だけ、取り残されてしまったよう…。


「私は、見たよ」

陽ちゃんの言葉に、驚いて私は後ろを見る。


「黒っぽい人と擦れ違った気がする。パニクってて、下向いて歩いてたから、あんまりよく見なかったけど。」


「そっか」


私たち以外にも、誰かいたというのなら、少し安心だ。


母がゆっくりと、車を動かし始める。


なんで、新学期そうそう、こんな目に合わなければいけないのか。


そんなことを考えながら、ボーッと前を見ていると、何か赤い物体がボンネットの上に乗ってきて、心臓がはねあがる程驚いた。


「キャッ」


母が声を上げ、慌ててブレーキを踏む。

小さなその赤い物体は、毛むくじゃらで、黄色く爛々と光る目が2つ、こちらをジーッと見つめていた。


「シロ!?シロじゃない?」


後ろの座席から、陽ちゃんが前に身を乗り出して叫び、止める間もなくドアを開けて外に飛び出す。

そして、ボンネットの上の赤い毛むくじゃらを抱きかかえると、すぐにまた車内に戻ってきた。


「糸ちゃんのハンカチ、洗って返すから拭かせて?」

「いいよ」


陽ちゃんが手早く拭き始めると、赤い液体の下から、白い毛が見えた。


「いつも学校をうろついてる、あの野良猫?」

人なつっこくて、すぐ足元に寄って来るので何度か頭をなでてやったことがある。


「シロ?」


声をかけると、潤んだ大きな瞳でこちらを見上げ、「にゃ~」と情けなく小さく鳴いた。


「猫だったの。あー、ビックリした」


母が振り返り胸に手を当てる。


「ねぇ、お母さん…」


私の言葉を皆まで聞かず、母がハァーと溜め息をついて遮る。


「家に連れて行ったら、まず猫ちゃんにシャワーをかけて汚れを落とすこと。そしたら、部屋に入れていいわよ」


私と陽ちゃんは、顔を見合わせて笑顔になる。


その時、陽ちゃんの膝の上で丸くなっていたシロが、前方のフロントガラスを見つめてギャーギャーと激しく威嚇するように鳴き出した。


「どうしたの?シロちゃん?」


陽ちゃんがシロを落ち着かせようと、頭を撫でてやる。


車の前に何かいるのか、と思って外を眺めるが、特に変わった様子は無い。

が、同じようにフロントガラスの外を不安そうに見ていた母が、呟いた。


「何あれ…」


その、やや上を向いた視線を追うと、空を厚く覆う灰色の雲の下に、黒い何かが浮かんでいるのが見えた。


「鳥?」


私の言葉に、誰も反応しなかった。そう、自分でも分かっていた。それは、鳥なんかじゃなかった。明らかに、人の形をしていた。空中に人が浮かんでいる、そんな現実を認めたくなくて、口にしただけだ。


あまりに遠くの上空に浮いているので、その人影は全身真っ黒で、表情などは分からない。


いや、そもそも私たちと同じような人間なのか、顔など無い霊的な存在なのか。生まれてこのかた、幽霊のような不確かなものなど見たことの無い私には、判別するすべが無かった。


「あれは…、人?」


叫ぶのをやめて、尻尾を巻いて丸くなったシロを抱えながら、陽ちゃんが震える声でささやく。黒目がちの大きな瞳を見開いて、上空に突然現れた異形を見つめている。


「どうして人が、浮いているの…?」


その黒い人影は、両腕を前に突き出して何かを持っていた。そして、力を入れてそれを握りつぶすと、黒い人の両手の隙間から、赤い滴が無数に飛び散った。


「ハッ」


大きく息を吸う音に不安を感じ、私は母を見る。


母は息が荒くなっていて、落ち着かせようと胸に手を当てていた。


「何か、良くないことが起こっているんだわ。何か…、とてつもなく恐ろしいことが…」


母が、苦しそうに声を絞り出す。「帰らなきゃ…。家に帰らなきゃ。家に居れば、きっと安全よ」


母が車を急発進させる。その時。

黒い人影が突然、車の前に現れ、私は悲鳴を上げる。


「キャーッ。お母さん、ブレーキ!」


だが、おそらく母は天パって、アクセルとブレーキを間違えてしまったのだろう。車はさらに加速する。


人を轢いてしまう!


黒い人影がフロントガラスいっぱいに迫ってきて、私は思わず目をつぶる。

車は急停車して、私の体は前にのめり込む。シートベルトをしていなかったら、大ケガをしていたかもしれない。私は咳き込み、シートにグッタリともたれる。


車の前に突然現れた人は、どうなってしまっただろう。轢いてしまっただろうか。だが、ぶつかる衝撃は感じられなかった。


恐る恐る、ギュッとつぶった目を開ける。その人は、車のすぐ前に立っていた。


良かった、無事だったんだ。


だが、何か、様子がおかしいことに、私は気付いた。


その人は、影のように全身真っ黒で、いくら表情を伺おうとしても、顔があるのかどうかすら、分からなかった。

そして、目を凝らすと、黒い人の向こう側が、透けて見えていた。

その、人なのかどうかも分からない異形の者は、黒い煙でできているかのように、陽炎の如く揺らめいている。


ショックで、私の目はおかしくなってしまったのだろうか。

何度も目をこすってみても、何も変わらない。

気持ちを落ち着かせようと胸に手を当てた私の耳に、何か異音が聞こえてきた。


キュルキュルキュル、ギュルルルル


何の音かと思い、辺りを見渡すと、フロントガラスの外、車の両側の下あたりから、白煙が巻きおこっている。


「お母さん!」


母が、気が動転してるあまり、アクセルを踏み続けているのだ。

車は進んでいないのに、タイヤは回りアスファルトを擦り続けている。


では何故、車は進まないのだろう。


見たくないのに、見なければならない。


黒い陽炎のような人型の者は、片手を軽く、ボンネットの上に乗せていた。

片手で、車を止めているのだ。


黒い人が、その手に力を入れると、ボンネットの半分ほどが、まるで煙のように霧散して消え、同時に異音も止まった。


「お母さん、大丈夫?」


母の肩に手を当てる。


母は全身で、あえぐように速く息をしていた。


「何よ…。何なのよ…。このバケモノ!」

母がキッと顔を上げ、怒りの表情で黒い人を見据える。


怖がりで、遊園地に行っても絶対にオバケ屋敷に入ろうとしない母が、怒りに我を忘れて外へ飛び出して行く。


母には、私や陽ちゃんを守らなければ、という気持ちがあったのかもしれない。


「お母さん!待って!」


言いようのない、不吉な予感に苛まれ、私は声を上げる。


だが、母は聞く耳を持たず、真っ直ぐに黒い人の前へ歩いて行く。

黒い人が、目にも止まらぬ速さで腕を前に伸ばし母の頭を掴む。


そしてそのまま、二人はあっという間に上空に浮かび上がった。


「お母さん!」


私は叫び、車の外へ飛び出す。


二人の姿は、あり得ない程の速さで、灰色の雲の中へ消えた。


「嘘…。嘘だ…!どうして!?何でよ!?」


また姿が現れないかと、二人の消えた一点を見つめ続ける。


赤い雨が全身に降り注ぎ、目にも入り込んだが、そんなことに構っていられなかった。


そのうちに、二人が消えた一点に向かって、灰色の雲が少しずつ収束していってることに気がついた。

やがて速度を増し、完全に雲は消え、そこには青空だけが広がっていた。



「糸ちゃん…」


いつの間にか車から降りていた陽ちゃんが、私の後ろから声をかける。


何て言っていいのか分からないのだろう。それきり黙っている。


それで良かった。今は、慰めの言葉など聞きたくなかった。そんな言葉を聞いてしまったら、感情のタガが外れて、自分でも自分がどうなってしまうか分からなかった。


放心状態の私の耳に、微かに音が聞こえ始める。


ガヤガヤガヤ

プー

パッパー


いつの間にか目の前の大通りには人や車が行き交い、商店では店員が開店準備をしている。

あんなに赤い雨で染まっていた街なのに、その痕跡がどこにも無い。



「あらあらー、その猫ちゃん、赤いペンキでも被っちまったのかい?早く洗ってやんなよ」


通りすがりの見知らぬお婆ちゃんが、陽ちゃんの抱いたシロを訝しげに眺め、去って行く。


シロだけにその痕跡を残し、全ては無かったことになっている…。


その事実が、ひどく私を孤独にさせた。






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