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心象を操るのは  作者: 安藤真司
7/17

昨日の行方

 二月二十日。

 火曜日。


 起きる。

 顔を洗う。

 両親は既に歓談中。

 挨拶する。

 ご飯を食べる。

 美味しい。

 しっかりと歯を磨く。

 着替える。

 髪を整える。

 鞄を手にする。

 教科書もノートも定期券も、昨日の時点で用意してある。

 携帯電話だけブレザーのポケットに忍ばせる。

 靴を履く。

 家を出る。


 優芽はルーチンをルーチンとしてこなし、この日の朝を迎えた。

 ルーチンはルーチンだから、思考することなく流れていく。

 思考しないから。

 優芽が異変に気付いたのは、家を出て暫くの後だった。

「あ……」

 優芽は自分の手元と、目の前を歩く名前も顔も知らない誰かの手元を見比べた。同じ色同じデザインの制服に身を包んだ恐らく後輩の女子生徒は、その手に体操着を入れた水色の可愛い手提げ袋を持っていた。

 今日は月曜日であり、体操着が必要な日である。しかし優芽は今、それを持っていない。

(しまったなぁ。忘れちゃった。昨日、あれこれ考える前に用意しておいたはずなのに)

 昨夜。

 答えのない問い――夢叶(ゆめかない)萌映(めい)とは一体誰なのか――について考え、考え抜いて、諦めた。

 この件は自分の手に負えない、そう判断するのは簡単だった。優芽はそのため、誰に相談するのかを考えることにして、しかしそれについても正解が難しく、頭を悩ませていた。

 結論としては、ここは一度相談をしてしまっている珠子に話してみようかと決めていたわけだが。

(意外と、参ってるのかな、私)

 玄関に置いてあった体操着を忘れるくらいには、精神状態がよろしくないのかもしれない。

 自覚はないが。

(んー。けど、置いてあったかなぁ)

 ともかく、

 忘れてしまったものは仕方がない。

 いつも通り学校へ早くに着いた優芽は、恐らく同じように早い時間に登校しているであろう友莉の元を訪ねた。二つ隣の教室の戸を開けると、すぐ目の前に友莉はいた。

 橙色のナップサックを手に持っていることから察するに、これから朝練に向かうところだったらしい。タイミング良く会えたことに安堵しつつ、まずは挨拶をする。

「おはよう。友莉(ゆり)

「おはよう優芽!」

「今、いい? すぐ終わるんだけど」

「いいよ! どうしたの?」

 実に快活に喋るこの少女は、しかし本当は暗い。いや、今となっては明るい一面も嘘ではないのだろうが、根っこの部分は優芽と同じく自己嫌悪の塊であり。こうしている間も元気な自分を演じられる事にストレスを感じているのかもしれない。

 その本心を推し量ることは難しいが、変わろうとする彼女の助けにはなりたい。優芽にとってそれは親友として当たり前の感情で、親友として当たり前の贖罪だった。

 生徒会と陸上部の両方に所属する友莉はその大変な両立を見事成し遂げており、当然の如く成績も良い。

 時間の使い方をか教えて貰いたいものだが、教えて貰ったとしても自分に実行できる気もしない優芽は結局友莉のプライベートを訊くことがあまりない。否、なかった。

(訊かなかったから、ああなっちゃったのかな)

 過去の事故。

 忘れもしない惨劇。

 スローになる世界。

 何もできない自分。

 崩れゆく友莉。

 響き渡る鈍い音。

 眩しすぎる光が視界を覆う。

 次に捉えた世界は……過去だった。

「ねぇ、ねぇってば! 私に話があったんでしょ!」

「あ、ごめん」

「もー、ぼうっとしすぎだぞ!」

「友莉が朝からうるさいから」

「私の所為にしたな! このーっ!」

「わわ、嘘だってば」

 冗談で返した優芽の頭を、友莉が優しく拳で小突く。

 確かに考え事が多くなった気もするので、優芽は一分足らずで終わるはずの本題に移す。

「あのね、体操着を忘れちゃったから、貸して欲しいなって」

「うん! いいよ!」

 友莉は普段、体育の授業がないときでも予備の体操着を学校に置いている。

 朝練用に部活着を一枚、放課後用に部活着を一枚、ついでに昼休み中の運動か生徒会の活動で動き回ることがあったときの為に体操着を一枚、と運動する準備を常に整えている。

 今回はそのおかげで問題なさそうである。

「よかった。体育一時間目だから、借りれるかなって、心配で」

「じゃ、はい! これ!」

「…………?」

 友莉が差し出したのは、橙色のナップサック。

 優芽が教室に入る前から手に持っていて、恐らくはこれから朝練するための部活着やタオルの入ったもののはずである。

 つまりそれは、体操着で朝練をしようとしていたということを意味するはず。

「あのさ、他に着るものないならいいよ。朝着た服で、放課後も部活出るわけには、いかないし。自分で使って?」

 朝練用の部活着を今日は持ってきていないのではないか、という優芽の指摘に対して、しかし友莉は否定を口にした。

「ううん! それは別に持ってるから大丈夫!」

「え、あ、そう、なんだ……?」

 で、あれば。

 何故。

 体操着を持って。

 戸の前に、いた?

「っていうか、訊きたいのは私の方だよ! 体操着、何に使うの?」

「え? 何って、だから、一時間目の体育で」

「優芽のクラス、今日の一時間目は数学でしょ!」

「ま、待って友莉。話が、全然、見えなくて」

 頭が混乱してきた優芽は一度落ち着きたいと思い、会話の停止、情報を整理する時間を要求するが、これもすげなくすげなく断られる。

「私にも見えてないんだ! っていうか見せてくれてないんだ……優芽が」

 すっ、と。

 友莉の目から光が失せる。表情が消える。

 ただ優芽の目を不動のまま見つめ、全てを見透かすように、或いは何かを試すように友莉は冷たい表情になった。

「私、が……? 見せて、ない……?」

 何が起きているのか。何の話をされているのか。自分が何をしたというのか。

 全てがわからない。

 身に覚えがない。

 記憶にない。

 存在しない自分がいる?

 ひょっとして、夢叶優芽の記憶にないだけで、夢叶萌映の記憶にはあるのだろうか。

 夢叶優芽は、本当にここにいるのだろうか。

(わからない、けど)

 たった一つわかることは、友莉が今現在、怒っているという事実だけ。

 それもどうやら、夢叶優芽なる人物が何かを露骨に隠したからだと言う。

「あの、私、本当に、何も、わからなくて」

「優芽が言ったんだよ。だから信じたし訊かなかった。でも、そう、そっか。そういうことなんだね。だったら余計に、どうして話してくれなかったんだろうね」

「友莉……?」

「とりあえず、私に言えるのは二つだけ」

 優芽の混乱を解こうという気はあまりないらしく、友莉は勝手に話を進める。

 話の繋がりもわからず、突然の出来事に脳が働いていない優芽は友莉の名前を呟くことしかできない。

 その優芽に、友莉はただの事実を突きつける。

「一つ目。優芽は今日、体操着を借りる必要はないよ」

 友莉が言わんとする意味がわからない。

 今日は二月十九日の月曜日で、その一時間目は体育である。それは覆ることのない明確な事実である。

 その体育に必要な服を忘れたのだから、親友である友莉の元まで借りに来た。借りなければ理由もなく見学になるのだから、幾ら持久走が嫌いだといっても優芽にサボり、という選択肢はない。

 その状況下で、一体どうして借りれる人間から借りなくて良いという結論が、それも本人ではなく友莉の口から出るのだろうか。

「授業がないからね。私が体操着を一応用意したのは、昨日優芽にお願いされたから。『何も知らない私が体操着を借りに行くけれど、適当に追い返していいよ』って。でも、理由は話してくれなかったから、私からは訊いてない」

 それが、先ほど口にしていた、優芽を信じているから何も尋ねなかったという言葉の意味なのだろうか。

「でも、適当に追い返すわけないじゃんね。それに何かしらの理由を教えてくれるとも思ったから、こうして待ってたんだ」

 いや、今重要なのはそんなことではなく。

 昨日の優芽が。

 昨日の友莉に。

 話をした、という点だ。

「へ、変だよ。昨日は二月十八日の日曜日で、私と友莉、話なんて一切」

「うん、それが二つ目。あのさ」


 何も知らない夢叶優芽に、一切の期待もせず。


「今日は二月二十日の火曜日だよ。十八日の日曜は、もう、一昨日」


 推測しうる唯一の事実を。


「ねぇ、優芽。当たり前に当たり前な曜日感覚を、指摘されてもわからないくらい忘れちゃうなんてさ。普通はありえないよね」


 友莉は淡々と告げる。


「それも、明日の自分の行動をどうこう言ってくるのも変だよね」


 苦しそうに。


「どうしてそんなことが起こるのかな。どうしてなのかな」


 寂しそうに。


「あのさ、昨日私が会った優芽は、未来から戻ってきた優芽なんじゃないの?」


 悔しそうに。


「ううん、なら、今の優芽も、いつかみたいに未来のこと、全部知っていてすっとぼけてるんじゃないの?」


 涙を滲ませて。


「優芽はまた、時間を巻き戻す力、使ったの?」


 発した言葉の数だけ、心の距離が離れていった。

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