「私」の構成
忙しなく作業をしていると、思考する暇もなく時間が進んでいってしまう。思考しないということは自分が自分でなかった時間が存在していたということに他ならず、自分や世界が揺らいでしまう。
ある時間は異常なほどあっという間に通り過ぎて、またある時間は驚愕するほどスローテンポで揺蕩う。
この人生に絶対という文字を使用することがあるならばそれは「生まれた人間は絶対に死ぬ」と言うときであると、誰かがそうご高説賜っていた。
それだけではない。優芽は考える。
生まれた人間は絶対に死ぬが、「過ぎた時間は絶対に戻らない」とも使うはずだ、と。 かつて自らの力で時間を操り、過ぎてしまった時間を巻き戻そうとした優芽はだからこそ、繰り返せば繰り返すほどに変化は積もり積もって二度と元の形に戻らないことを知っている。
あっという間に過ぎた時間も、いつまで経っても終わらないと嘆いた時間も、認識した時点でもうその直前には戻れない。
人は常に前に進み続けている。
だが、果たしてここで定義した「人」の中に自分は含まれているだろうか。
前に進み続けるのが人なら、前に進んでいない自分は一体何者なのか。
自問する。
「私は人ですか」
自答する。
『否定されたいだけの疑問には意味がない。答えはノーで、お前はノー以外受け入れない』
思考は概念のどこを巡回しても結局自分や私という存在自体への問いに帰結してしまう。 自問する。
「私は私ですか」
自答する。
『お前は私だよ。私がお前であるように』
「私」という主体、意思総体があるからと言ってそう簡単に私の存在を認めるわけにはいかない。
「私という主体が存在する」という言葉自体が「私」の主観でしかなく、そこに客観的で定量的な評価のしようがないからだ。
「私」だけでは私を認められず、「私」以外の人には私が存在するのかわからない。
では私以外はどうなのだろう。
目の前にいる好きな人は、友人は、家族は存在しているのだろうか。
存在しているならば、存在する彼ら彼女らと私とは同類であると言えるだろうか。
存在していないならば、存在しない彼ら彼女らと私とは同類であると言えるだろうか。
自問する。
「そもそも存在するって、なに」
自答する。
『人や物がそこに在ること。この場合は私がそこに在ること』
自問する。
「そこって、どこ」
自答する。
『世界』
ならばまず、世界がなければ私もいないことになる。
世界の存在証明は私の存在証明の必要条件だ。
世界があるかどうかはどうやって知ればいいのだろう。
誰かが知っているのだろうか。
そもそも「私」はどうして世界があると思っているのだろう。
目で見て鼻で匂って耳で聴いて舌で味わって手で触る。そんなものは世界の帰納的な証明に過ぎず、本物である確固たる理由にはなり得ない。
「私」を疑っているのに「私」の感覚を理由になどできやしない。
それとも"私"という言葉自体、"世界"という言葉自体が既に間違っているのかもしれない。
誰かが考え辞書に記述された意味に縛られてしまうような言語を元に思考してしまうから辿り着けないならば、言葉をやめてしまえばいい。
簡単なことだ。
自問する。
「 」
自答する。
『 』
なるほど言葉を離れると、「私」は思考ができないらしい。
それは大きな発見だ。
世界とやらの証明には至らなさそうだが、しかし証明したいもの自体が既に言葉によって縛られていることは間違いない。
幾ら言葉を重ねても、言葉で足りないものを欲しているのだから解がないはずだ。悪魔の証明よろしく、存在しない解を求めてしまっているのかもしれない。
言葉で存在しないものを、しかし言葉でしか追い求められない。
だからまた「私」は自問する。
「私は一体誰ですか」
だからまた「私」は自答する。
『私は一体誰ですかって訊いてる奴のことだろう』
それもそうだ。優芽は内なる声に感心した。
「優芽、どうかした? すごい変な顔してるわよ」
「ぅ、ええ?」
「なんか酷い声がしたね! まーたすぐに自分の世界に閉じ籠もっちゃうんだから」
悪口かどうか微妙な言葉を並び立てられて、優芽は我に返る。
「せっかくの可愛い顔が台無しよ。はっきり言って不細工」
「それもたいしたことない理由で悩んでること多いし。大丈夫、私たちはそんな優芽でも親友って呼ぶよ」
前言撤回、紛うことなき悪口だった。
「奏音も友莉も、容赦、ないなぁ」
「手加減は趣味じゃないのよ」
「私達を無視する優芽が悪い!」
ちぅ、とわざとらしくストローを吸い、音を立てて返事をぼかした優芽は改めて自分の置かれた状況を振り返る。
自分の隣には現生徒会長である奏音、同じく生徒会広報の友莉が腰掛けており、対面には後輩であるみもりと詩織が座っている。
どこにでもある普通のファミリーレストランで普通に食事を楽しみ、普通にドリンクバーで粘りつつ雑談に耽っていたそのとき、問題は起きた。
それはみもりから発信されたものであったが、彼女曰く問題で、より一般的な表現に変換するならば相談に近いものだった。
簡潔に言えば、恋愛相談。
持久走と二大巨頭、優芽にとっても最も苦手な類いのものである。
「方向性が……見えないんですの」
そう切り出したみもりは、気になる男子生徒に対して数々のアピールを仕掛けているものの一向に反応が窺えず、しかも年の離れた自分の妹の方が最近なんだか仲がよく懐いておりひょっとしてそういう趣味なのではないだろうかという不安がある、しかも男同士の仲がクラスのノリも相まってやたらと度を越してよかったりもするので不安が過ぎる等々の現状を淡々と語り始めた。
俯く彼女に合わせて団子にした髪から零れた一房もお辞儀をした。なんでもない様だが、大人びた彼女のガードが緩んだようで優芽は内心「艶めかしい」と感想を抱く。
周知の事実だが、みもりはこれまでずっと生徒会役員は三つ編みであるという謎の信念のもと髪型を変えてこなかったのだが、年の瀬あたりからだろうか、あれこれと凝ったスタイルを披露している。
好きな人によく見られたい、ただそれだけ。恋が一少女の信念すら歪めてしまうのだから末恐ろしい。
ちなみに大人びた風貌とは裏腹に茶目っ気の強いみもりは元より男性陣からよく告白されていたのだが、髪にお洒落が加わったところこれまで以上にアプローチが増えたという噂を優芽は聞いたことがある。
その方面の苦労も些か以上にあるのだろうが、直接的な恋愛相談とは違いそちらに関してはおくびにも出さない辺りはみもりの優しさであり、まがりなりにも自分を想ってくれた相手への礼儀なのだろう。
そんな、普段は一つ年下とは思えないほど落ち着いていてしっかりしているみもりにも慌てふためきどんよりとした空気を出すような一面があるのだなと面白く感じつつ、同時に主観と客観とでこうも見方が変わるものかと不思議にも思う。
みもりの主観がどうであれ、実は相談されている優芽ら全員の見解としては、「誰がどう見ても両想いのくせに何を言ってるんだろう」に尽きる。
というのも、みもりの想い人であるところの男子生徒のことを生徒会役員の面々はそれなりに知っており、みもりとのやりとりを伺う機会も多かったためである。
その男子生徒ーー秋山千晶はみもりのクラスメイトで、生徒会役員ではないものの度々その仕事を手伝ってくれている。
「みもりは悩みすぎなんじゃないかな。や、秋山くんもどうかなって思う部分はたくさんあるんだけどさぁ、休日好きでもない女の子の家に上がってその妹と遊ぶようなこと、普通の男子はしないんじゃないかな」
「けど、けど! 理紗とばかり楽しそうなの! 私には二人が二人の世界でいちゃいちゃしているようにしか見えませんわ」
「うわぁめんどくさ。私にはみもりこそ秋山くんと毎日毎日いちゃいちゃしてよく飽きないなって見えてるんだけどな」
「詩織、私は真剣に悩んでるの!」
「あーはいはい。だからこうして今日は先輩を呼んだんじゃん。ついでに相談にもならない弥々を外したんじゃん」
卓をこうして囲むのは櫛夜を除く生徒会役員二年生、そして弥々を除く生徒会役員一年生。
つまるところ件のカップルだけがいない状態にある。
みもりとしては先輩であり一応は彼女持ちである櫛夜の意見も聞きたかったそうだが、当の相手が弥々であるのであまり参考にはならないだろうという判断が一つあり。
加えて、その弥々がみもりそして詩織に対して異常なまでの独占欲を発揮しており、例えばみもりに好きな人がいるという事実を表立って認めたがらないような親友に恋愛相談はできないだろうという判断が一つあり。
そんなわけでこの場には二人そろっていなくなってもらっている。二人が学校帰りにデートするタイミングでの招集、とも言う。
「友莉先輩助けてくださいぃ。もう私じゃあみもりの対応は困難であります」
「任されたよ詩織ちゃん! ……そして投げ出したよ」
「小声! 先輩小っちゃく諦めないでください!」
「あのね! 私たち二年生って皆軒並み好きな人に振られているから相談に乗りようがないんだよ!」
「大声! 先輩自らの傷を抉ってでもみもりを諦めようとしてますね!」
優芽に対して遠慮というものを知らない友莉と奏音も大概口が悪いが、狙ってなのか素で天然なのか、詩織もまた後輩という身分にしては悪口がストレートである。
満場一致で天然記念物であると結論を出したものの、もしもこれで狙っているのだとすれば中々の強者である。
「ちょ、別に、その、先輩方の話がどうこうというわけではなくてですね、単純に一般論と言いますか外から見ていてどうなのでしょうかとかそういうことが訊きたいのであって」
(あぁ、みもりちゃんがフォローに回ってる。仲良いなぁ)
仲睦まじい後輩の姿を見ているとそれだけで幸せな気持ちになれる。
弟や妹がいたらこんな感じなのだろうか、と想像してみて。
すぐにまた会話に参加していないことを思い出す。
「みもりちゃんの、中では、どんな評価、なの?」
「ええと……評価、ですか?」
「うん。みもりちゃん査定で、秋山くんはみもりちゃんのこと、どのくらい、好きそう?」
「……それは」
「弥々ちゃんが、あの感じで、100好きだとして、どう?」
「そう、ですわね。友人要素が30の面倒くさいクラスメイトが65で……う、自惚れてみて、5くらい、恋愛要素もあるんじゃないかなって」
顔を真っ赤に染めるみもり。
この姿を想い人に見せるだけで実は全部解決してしまうのではなかろうか。
とは、言わない。言えない。
代わりに、先輩らしくきちんと真摯に後輩に言葉を贈ってやる。
「私には、そうは見えないな。みもりちゃんが、感じてる、秋山くんからの好きって要素、全部が愛情に見える」
「そっ、そんなこと!」
「だって、変だよ。好きじゃなきゃ、自分から、話しかけないよ。好きじゃなきゃ、同級生の女の子の家になんて、遊びに行かないよ。好きじゃなきゃ、妹とまで仲良くなんてできないよ。好きじゃなきゃ、バレンタインでもホワイトデーでもないのに、お菓子を作ってきてくれたりなんてしないよ。好きじゃなきゃ、予定を合わせることもせずに休日の図書館で、みもりちゃんの横の席に無言で座ったりなんて、しないよ」
「要素だけ、もしも他の人から聞かされていたら、そう思うかもしれません。けど、でも、千晶が何を考えてるのかなんて私、これっぽっちもわかりません」
「一緒なんじゃないかな。私たちは知っているからって主観を抜きにしても、みもりちゃんが秋山くんのこと好きなんだなって、いっつも思う。けど、秋山くんにとっては、みもりちゃんが何を考えてるのか、わからないんだと思う」
こんなものは詭弁だ。
十中八九、千晶はみもりの気持ちに気付いている。
みもりにとっての千晶と、千晶にとってのみもりが本当に同じような存在であれば、互いに互いの気持ちがわからず、平行線を辿ることもあるだろう。
だが現に二人は交わり、共に時間を過ごしている。
「私、早く気付いてって、言いました」
「うん、聞いたよ。でも、好きとは、言ってない」
言葉は大切だ。
自問し自答する私が縛られてしまうほどに強力で、無限の可能性を秘めた世界を表現するには有限すぎて貧弱。
それでも人は言葉を求めずにはいられない。
たとえどんなに態度で行動で示していたって、最後はきちんと言葉にしなくてはならないことだって、ある。
「みもりちゃんには、みもりちゃんの。秋山くんには秋山くんの。それぞれペースがあるんだろうなって。まさにその異なるペースを、摺り合わせていく行為が、恋愛なのかも。みもりちゃんが、そうしたいなら、そうしたいってことを伝えないと、駄目だよ」
優芽なりの言葉。
取り立てて自身の経験が基になっているというわけではなく、優芽から見たみもりに足りないものを補うための言葉。
自分よりもたくさんを持っている素敵な人間であるところのみもりに対してそうした言葉を並び立てるのは些か心苦しくもあったが、助言するときは自分のことは棚に上げておかなければ碌な文言が出てこない。
後押しを欲しがっている後輩のためであればなんのその。
自己矛盾くらいわけはない。
『私にも後輩の幸せを祈るだけの思いやりが残っていたと、思って欲しかった』
ここで聞こえてきた自分の内なる声は、珍しく自分で自分を責め立てるようなものではなく、どこまでも寂しそうな、やりきれない悲痛な叫びのようだった。
「ふふ、ありがとうございます。優芽先輩は、きっと私たちの誰よりも優しいです」
「み、みもりちゃん」
「今日、呼んだのは少し……心境の整理と言いますか……いえ、決心をそろそろ固めたかったんですの。その、後押しが欲しかったとも言います」
急に抽象的な話をされてもよくわからない。
みもりは何を決心したがっているのだろうか。
「わ、私、千晶にちゃんと、告白します!」
「お、おぉー……」
「あら、つい数分前とはえらい違いね」
「いいことだよ! きっとうまくいくよみもりちゃん!」
「応援半分複雑半分かなぁ」
「ちょ、詩織だけどうして微妙に応援してないんですの」
「や、これでも私なりに秋山くんのことは評価してるつもりだけどさ。私のみもりが取られるみたいで気に食わない感情があるにはあるんだよ」
「弥々と言ってることが変わらないわよ。第一いつ私が詩織のものになったのよ」
「え? まぁみもりは昔から危なっかしいからね。私がいなきゃすぐにボロボロ、その作ったような口調だって安定しないくせにさ」
「否定はしませんけれど。詩織がいてくれなきゃいけないのは何も変わらないわ。ちゃんとここにいて、ちゃんと私を見てくれなきゃ駄目ですわよ」
「はいはいわかってるってば。変なこと言うなぁ。漫画の読み過ぎでさ、そういうちょっと誤魔化した表現ばかり普段から使ってる所為で秋山くんを混乱させてるんじゃないの?」
「う……そう、言われれば、少し、自信、ない」
「いやいや。え、マジで? やめなよー、私たちは私たちだからそれなりに華麗に聞き流してあげられるし、時と場合によっては元ネタを把握してるけど、知らない人が聞いたら随分と変だよ。変」
先輩に対しても若干言動が怪しい詩織だが、親友であるみもりに対しては確実に意図的、一層ストレートに暴言を吐いている。
どうしてこうも仲良くなると直接的な物言いが増えていくのだろうか。
良い意味でも、悪い意味でも。
「と、とにかく! 私、自分のことはあんまり自信ないんですけれど、優芽先輩の言うことなら信じられますわ! だから、自惚れ成分を少し増やしまして……」
「90くらい?」
「あ、いえ、倍の10想定で戦わせていただきます」
その概算で告白に踏み切る勇気があるならどうしてこんなにもウジウジしてしまうのか、優芽だけでなくこの場の誰にもわからなかった。
しかし、この場できちんと恋をしているのはみもりだけで。
つまりこの場できちんと生きているのはみもりだけということなのかもしれない。
「優芽のそういうとこ、大好きだな」
不意に、隣にいる友莉が落ち着いた声色で話しかけてきた。
常なら語尾に含まれるエクスクラメーションマークがないときは、友莉が真面目に、そして本音を語るときである。
明るい友莉も偽物ではないのだろうが、どちらが、と聞かれれば彼女の本質はこの儚げで柔らかな方だと答えるだろう。
表裏という意味ではなく、彼女にとっての自然体がどちらに寄っているかという意味で間違いなく友莉のテンションは純粋にそこまで高いものではない。
「私も、好きになれるかな」
けれど、親友が甘えたことを言ったならば。
すぐにでも彼女は元に戻る。
「そんなの知らないよ! 自分を好きになるくらい勝手にやってよね! 巻き込まないで欲しいな!」
「優芽、悩んでるなら幾らでも相談に乗るわ。そのときはレジュメ一枚にまとめて五分以内でよろしくね?」
「ぜ……絶対二人には、相談しない!」
結局この日は、話そうとも思っていなかったとはいえ、終始みもりの相談をするだけで終わってしまい。
優芽は自身に起きた変化を話すことはなかったし。
優芽が話そうとしなかったから。
誰も何も、優芽に何かを尋ねようとは、しなかった。