いつか誰かのエピローグ
「結局さ。私達は本物を否定して、偽物でいいやって主張したんだよね」
二月十六日。
マフラーが道往く制服の一部と化し、スカートとソックスの隙間が埋まる季節。日中すら暖かさの欠片も感じられず、来たる三月四月に果たして本当に春が訪れるのか疑問を覚えずにいられない。
大人しく室内にいれば暑いくらいに効いた暖房の恩恵に感謝の言葉でも並び立てるところだが、今現在、優芽がいる場所は屋外であった。
一体どんな理屈なのか、幸魂高校の一月と二月の体育は三年生を除いて(そもそも三年生は一月の半ばから受験等々のため自由登校である)長距離走が設定されており、凍える空気を裂いて目標距離を走らなければならない。運動が得意ではない優芽にとっては一年の中で最も辛い時期である。
時間割の都合上、金曜の四時間目であるこの時間は優芽のクラスである二年二組ともう一クラス、同じく二年生の五組が共にマラソンに励んでいる。
長距離走のルートは校舎の外周をぐるりと周るシンプルなもので、女子は一周、男子は二周する。おおよそだが女子は一.五、男子は三キロメートル強を走る設定である。
嫌な気持ちでアップを済ませた時点で優芽の息は絶え絶えで、本番が始まったこの今は地獄が本領発揮しており非常に辛い。本当に運動が苦手な身からすればアップの時点で十二分に非日常級に体を動かすという目的は達成できているのではなかろうかと弱音を胸中に吐き出していると、もう一方のクラスの女子生徒に話しかけれた。
話しかけてきた彼女の名前は玉川珠子。
普段は肩くらいまで伸ばしている髪だが今は一つに縛られて、走るリズムに合わせて上下に動く。進学校ならではの大人しい生徒が多い中、制服を微妙に着崩し洒落っ気ある雰囲気を纏う彼女の姿は体操着であるジャージすら格好良く映える。間違いなくそれは彼女の魅力であろう。
身長は平均程度の珠子だが当の優芽が随分と小さいため、自然、見上げる形になる。ただでさえ走るという苦行を強いられているため、あまり無理な体勢を続けたくない気持ちが湧き上がる。
「あ、ごめん大したことじゃないから前向いてていいよ。並んで走るから」
黒い自分の思考回路が読まれていたらしく居心地が悪いが、大人しく心遣いには感謝しておく。
しかし言うべきことは言っておこうと、前を向きながらまずは苦言を一番に伝える。
「……なに、その、話題」
「なにって、生き方の話だよ。それか……うーん、恋バナかな。それすら嫌なら少し不思議のSFのお話」
「だから、それ、今じゃなきゃ、駄目?」
「他に話すことなんて何もないでしょ私達。今だから言いたくなったの。これでも気を遣ったタイミングよ?」
長距離走の最中というタイミングが珠子の中でどのような気遣い区分にあるのかわからないが、確かにその話題以外に珠子と話すことは何もない。
優芽のペースに合わせてくれているのか、珠子ものろのろと走り続ける。
「私達は、本物、否定したかな。それってむしろ、他の皆の主張、じゃない?」
「櫛咲くんは本物派だと思うよ。好きだった人じゃなくて、好きな人を選んだんだから」
「まぁ、それは、そっか」
「でも、あなたは違うでしょ。好きな人を選んだんじゃなくて、好きな人を選ばせなくしたんだから」
「……」
言葉が返せない。
事実だから。
「で、どう? 今のあなたは、時間を巻き戻せるの?」
「……わからない」
それには返すことができた。
生憎と、不明という回答しか持ち合わせてはいなかったが。
夢叶優芽には特殊で異常で、不思議な能力がある。
それは、時間を巻き戻す力。
現代の物理法則を全て無視して、過去のある時刻へと世界を引き戻す力。
優芽が自らに生じた変化、不思議の一言では済まない能力を手にしたのがいつなのか、それは正確にはわからない。だが、大怪我を負った大切な親友を救おう、救いたいと優芽が一心に願ったとき、この力は発現し、発動した。
突如として彼女を残して世界は元の形を取り戻し、親友から怪我はなくなった。
自分自身への驚きは当然あったが、まず間違いなく考えてもわからないことであったため優芽はただ親友が怪我を負わない未来を求めて動いた。
しかし、まるで世界が拒むように、何をしても親友を救えない。
回数も時間も関係ない、自分に時間の巻き戻しができるというなら、救えるまで何度だって繰り返せばいい。当初、優芽はそんなことを考えていた。それは嘘ではないし、実際に繰り返した。
救うため、救うため、救うため…………
だが、時間を巻き戻し繰り返すたびに優芽の心は死んでいく。
何をやっても、本当は親友を救えないのでは?
けれども諦めるわけにはいかない。だって、親友のことが、大好きなのだから。
けど、けど、けれど。
救えない。何度も何度も親友は怪我を負い、二度と歩けない程のダメージを受けてしまう。
更に追い打ちをかけるように、優芽のこの時間を巻き戻す能力は、親友が怪我を負ってからでないと発動しなかった。前回と変わらない、また一からやり直そうと思っても、体育祭当日、親友が酷い有り様になるのを自分の目で見なければいけなかった。
こんなもの、耐えられるはずがない。
死に行く優芽の心は、さらに、繰り返すたびに失恋を経験することで荒み始めていく。
何の因果か、優芽が巻き戻した地点が微妙にずれていたりしたとしても、必ず優芽の好きな人――綾文綾は櫛咲櫛夜と付き合ってしまう。その報告を綾本人からされてしまう。
親友が一番大切だと思って時間を繰り返すけれど。
どうして綾は汚されてしまうのだろう。
どうして自分だけが嫌な思いをしているのだろう。
やがて、どれだけの時間が経過したかも覚えていないが、優芽は親友を救うことを諦めてしまう。
その代わりに、完璧でなければいけない綾を守る、という選択をすることにした。
そのためにはまず櫛咲櫛夜を綾から離し、適当に綾以外の誰かと付き合ってもらわなければならない。綾に近づく男など皆消してしまえば、それで問題ない。
幸いにも櫛夜のことが好きだという人間は二人いた。内一人は自分の計画に賛同してくれたから、世界の真実を話した。櫛夜へアプローチして綾から遠ざけることを期待した。
結果的には優芽に協力してくれた人ではなく、ほとんど何も関わらなかったもう一人が櫛夜と付きあった。校内でバカップルの代名詞とまで呼ばれている二人がどんな気持ちでいるのかは知らないが、櫛咲櫛夜は少なくとも現在幸せらしい。
だがまぁ聞けば利用しようと考えていた、櫛夜のことを好きな人間――それこそが玉川珠子なのであるが――にしてみれば、逆に優芽を利用していたという。
なんと、綾のことを好きな、普通に男性が身近におりその人と優芽とを適当に泳がせて櫛夜のことを狙っていたらしい。
それぞれの思惑があって、それぞれが櫛夜と綾の関係を壊そうとして時間を繰り返し。
しかし櫛夜も綾も、壊されたからと言って、壊した側のことを好きになることは決してなかった。
櫛夜のことが好きで、けれどこれまで気持ちを封印してきた少女が告白をしたことで世界は前進し、巡り巡って優芽には助けることができなかった親友すら見事に救える世界が訪れた。
なんて、幸せなのだろう。
間違ったかもしれない。
嘘を吐いたのかもしれない。
けれど。
少なくとも綾は現在誰と付き合うこともなく存在していて。
親友は無事でいる。
幸せじゃないか。
自分が綾に選ばれないという、わかりきっていた事実を除けば全てが思い通りじゃないか。
なんて。
心のどこかで考えて。
心のどこかでそんな思考に到る自分を恐れている。
繰り返す時間の中で、確かに変わったことが沢山あったのかもしれない。
だが、時間を巻き戻し続けた本人である優芽自身は何一つ変わっていない。
何一つ変われていない自分の時間を巻き戻したところで意味がなかった。
珠子は続ける。
「このタイミングってのは、結構考えたよ。ちょっとでも間違えたら、また間違えそうだから」
「なに、それ。間違えたら、間違うって」
「あなたが、また時間を巻き戻したがってるんじゃないかって私は思ってるんだけど」
「……」
再び、返す言葉がない。
それは。
「図星でしょ」
「……うん」
珠子がどこまで見抜いているのか、当然人の心など読めない優芽にはわからなかったが、嘘を言う必要はないと感じた。
そもそも、珠子でなくても、優芽の能力を知る人間のほとんど全員が危惧していてもおかしくはない。こうして直接宣告してくるのは珠子くらいしかいないかもしれないが。
「前者であって欲しいけどな。二つ理由を考えてる」
「言って、みて」
「今はもう二月ね。去年の四月にでも遡って、体育祭でのあの事件を全部なかったことにして元通りの……つまり、綾文先輩と櫛咲くんが好き合って付き合う世界にしてしまおうって考え」
元のあるべき姿に戻して、それで、罪悪感を拭おうとする案。
悪くはない選択肢だろう。人の手が介入した人生なんて、一期一会でない人生なんて何一つ面白くもない。
操作された今よりも自然な流れ、運命に身を任せた時間にしてしまうほうが正しくもある。
だが。
「もう一つは、綾文先輩の卒業を許さないって、ただそれだけの考え」
好きな人が遠くに行ってしまうのであれば。
近くに抱き留めてしまえばいいじゃないか。
簡単で、わかりやすく、我が儘。
「どっちかって、聞かれたら、後者、だね」
「だよね。ちょっと意地悪な聞き方したね。ごめん」
どこがどう意地悪だったのだろうか。せめてもの希望の選択肢を考えてくれただけでも十二分に優しいじゃないか。
『優』という漢字が入っている自分よりも、よほど。
「好きな人が遠くに行っちゃうのは寂しいよね。悲しいよね。すごくわかる」
珠子の声色はとても優しかった。
経験したかのような口振りに、思い当たる節がないでもないのだが、実の所優芽は珠子の事情を詳しくは知らないのだ。櫛夜の事が前から好きで、出来ることなら綾から切り離したい、自分を好きになってもらいたい、という程度の話しか聞いていない。
一体どんな経緯であの弥々のこと以外は面倒臭がりですぐに「はぁ」とか溜息を吐いてすかしていて上から目線であれこれ文句言ってくる格好良くもない運動音痴で取り得がジャンケン強いくらいの屑のことを好きになるのか全くこれっぽっちも理解できないが、逆に言えばそんな男を好きになるだけの理由が何かあったのかもしれない。
優芽は単純に櫛夜のことが嫌いなのである。
綾のことを抜きにしても嫌いなのである。
抜きにしようがないので言うだけ無意味だが。
「でも、私は、どうだろ、好きだよ、好きだけど」
「けど、なに?」
「考えるだけで、ドキドキ、する。私の言葉で、お仕事で、笑ってくれたら、って、いつも、考える。助けたい、って、全部、守りたい、って、思う。会うとき、変じゃないかな、って、心配」
「微妙に怖いわね。助けたい守りたい付近が」
「いいの。本心。でも、これ……好き、なのかな」
好きという感情は。
これで正しいのか。
自分の語る好きは、これでいいのだろうか。
「好きになって、もらいたいの、かな、私は」
「そんなの私に訊かないでよ。むしろそここそ私の質問ポイントだっての」
「質問、ポイント?」
「ハッキリ言うけどあなたさ、本当に綾文先輩のこと好きなの?」
「……」
「どうなりたいの? どうしたいの? どうしたかったの?」
「どう、なりたかったの、かなぁ」
過去形でも現在形でも答えは大体変わらないように思う。なにせ、それを考える自分自身が何一つ変わっていないから。
しかしなるほど、意味不明なタイミングだとは思っていたが珠子なりに考えてきていたことは本当らしい。実にいやらしく痛いところを突いてくる。何も珠子とて優芽を苛めたくてそうしているわけではなく、実害の可能性があるならそれを潰そうとしているだけで、だからこそ余計に性質が悪い。
「どうであれ、私は、時間を巻き戻す気、ないよ。安心して」
「そう? 安心はしないけど、今こうしてはひはひ言いながら走っているあなたの本心であることは信じてあげてもいいかな」
「十分。別に、友達でも、ないし」
「そうねぇ。クラスも違えば友人でもない、けれどただの知人よりは深い話もする……なに? 元同志?」
心にもないことをつらつら述べる珠子に、優芽も文句の一つ、返してやりたい気持ちになってくる。
指摘事項の全部が正しかったからといって、指摘されたことをありがたいと思うほど大人ではない。
腹は立つし、それを隠す必要も意味もない相手であれば発露してしまって問題もなかろう。
「志も違った、くせに。どうせ私が、告白、できないと思ってた、くせに。告白しなかったの、どっち?」
「は? 私だってしたわよ告白は! あなたも私も同じじゃない! 告白したのは最後の一周だけ!」
「でも玉川さん振られるの、わかってた、から、正直、あんまり、使えないな、って」
「あんったこそ使っかえないくせに!」
「な……」
『女が女を好きになったところで、振り向いてもらえるわけがないことくらい、知っていた』
「……っ!!??」
「あのねぇ、告白の有無なんてどうでもいいわよこの際。あなたのそれ、大切な人の事故がなきゃ巻き戻せない能力ってどんな欠陥よ。私だって別に侑李さんを傷つけたいわけじゃなかったのにさ。時間遡行なんて摩訶不思議、あるならあるでもう少しまともな設定にして欲しいところよ。どんなとこでプラマイをトントンにしてん……って、ちょっと!?」
立っていられなくなる。
世界が揺れて平衡感覚が死んでしまったように、優芽はその場に崩れ落ちてしまう。
珠子が咄嗟に下敷きになってくれたおかげで衝撃は感じなかった。直接地面に落ちたところで、衝撃を感じられる状態なのかどうかは、わからない。
「痛ったぁ……なにしてんのよもー。運動不足? 朝ご飯ちゃんと食べた?」
「い、い、今、あれ? 今、何か、言った?」
「いいから。震えてる」
そう言って優芽の体を後ろから大きく抱きしめた珠子はゆっくり、大きく深呼吸をした。そのリズムに合わせて息を整えて欲しい、という彼女の気遣いである。
周りの視線など気にせず、恥ずかしげもなく同級生を抱きしめられる珠子の精神性を逆に心配しつつ、優芽は再度、確認する。確認せざるを得ない。
「振り向いて、もらえない、って、言って?」
「は? はぁ? 気持ち悪ぅ……それ、言わなきゃ駄目?」
「うん、お願い」
「振り向いてもらえるわけがない。どう?」
「うん、ありがとう」
確認、終了。
心臓が徐々に、元々のペースを思い出す。息も整う。
落ち着け、落ち着け。
今聞こえた声は、どう考えても自分の声だったじゃないか。
「ね、問題ないなら一旦離れてもらっていいかな。これでも私、あなたと同じか弱い乙女なもので」
「あ、ご、ごめん。じゃあ、なくて、ありがとう」
「どういたしまして。びっくりさせないでよ」
「う、うん。ちょっと、寝不足、かも」
「ふーん」
「それか、マラソン、嫌すぎる」
「そんなんでいいのぉ生徒会役員さんが」
「聖人君子でも、ないし」
「知ってるわよ。どの口が聖人語るわけ。醜いとか、さ、否定されると嬉しいくせに」
「マゾヒストじゃ、ないし」
「どうだか」
ばれただろうか。珠子の性格はそれほど詳しくわかっていないが、知人の異変に首を突っ込むタイプなのだろうか。
もしそうなら、それは、少し、困る。
急に倒れる、という知人でなくても助けに行くような事態が自分自身に起きているというのに、優芽はほんの少しの希望を持って珠子の顔色を伺う。
「で、なによ。寝不足とかアホみたいな理由で躱せたとか思ってないわよね」
「え、えぇ……駄目?」
「言いたくないことみたいだから訊かない、みたいな気遣いはしないわよ。さっきも言ったけど、別に私はあなたと友達でもなんでもないんだから」
「そっか、そう、なのかな」
「もー、結構な頻度で微妙に会話になってないのはあなたの仕様?」
ここでまた、同志だから、緊急事態を放置していられないから、櫛咲櫛夜の迷惑になるからなどと嘘を理由にしたならば無視してもよかったが。
確かに問題は既に起き終わっていて、その原因を考える人間は欲しい。
「あのね」
「はい」
「最近、幻聴が、聞こえるんだ」
「病院行けや」
珠子にしては珍しく、雑で荒っぽい発言だった。