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心象を操るのは  作者: 安藤真司
15/17

私と私のアイデンティティ

 二月二十五日。

 日曜日。


「日曜日……日曜日!?」

 久しぶりに純粋な驚嘆から大声を出した優芽は、二度見どころか三度、四度と目を開閉してカレンダーの日付を確認した。

 何度見直そうが、そこには二月二十五日の日曜日、という事実が淡々と示されている。

 昨日が二月十九日の月曜日だった優芽からすれば、ほとんど一週間の跳躍である。

 一日飛ばしに時間が流れる、等と事態を怪しんでいた頃を懐かしく思いながら、ひとまず優芽はルーチンに移った。

 日曜日だからこそ、規則正しい生活を心がけておく。

 これは普段から優芽が意識していることだが、今はそれ以上に現実問題、明日が平日なのか休日なのかもわからない状況にある。

 休日だと思って寝坊したくはないので、いくら考えることが山積みだとしても同じ時間に寝て、同じ時間に起きるよう心掛けておく。

(大体、睡眠の効果は、どうなってるんだろう)

 本来いたはずの私が昨日寝た時刻から、今起きた時間までの睡眠時間が確保されているのか。はたまた優芽の記憶に薄らとある就寝時間から現在時刻までが睡眠時間として脳に休息を与えているのか。

 いっそのこと、ものは試しに睡眠を一切取らないで夜を過ごしたらどうなるのかと気にはなるものの、普段から規則正しい生活を送る優芽には中々難しい。

 仮に徹夜をすることで通常通りの明日を迎えることができたとしても、それは一日しか続かない。結局、問題の根本を解決できなければ状況は何も進展しない。

「おはよう。お母さん、お父さん」

 居間に入ると、ほんのりと湯気を立てたスクランブルエッグを食べる父親、それを笑顔で見つめる母親の姿が既にあった。いつも通りに幸せな家庭の姿である。

 二人が揃って「おはよう」と返すのを聞きながら、優芽はキッチンへ向かい、自分の分を適当に調理する。

 母親は料理が好きで、またそれを美味しそうに頬張る姿を見るのもやはり好きだ、とのことであり遺伝なのか環境なのか優芽も料理するのは好きで得意でもある。

 母親の負担を減らしたいからと家事を手伝う場面も多くあるが、こと料理に関しては優芽自身が好きで勝手にやっている。

 むしろ料理好きな母親は、優芽が自分の分を自分で作るようになったことを喜ぶ反面寂しがっていた。

 実に平和な悩みである。


 調理で手を動かし、食物を租借することで顎を動かし、ようやく脳が活性化するのを感じてから優芽は両親に尋ねる。

「ねぇ。私の優芽って名前の由来はさ。確か、芽がどんどん背を伸ばしていくように、大きくて優しい子に勢いよく育って欲しい、って感じだったよね」

「うん、そうだよ。それも、とびきりに鮮やかな花を咲かすんだから」

 優芽の問いは唐突なものだったが、母親は当たり前とばかりに軽く返してきた。

 何度か聞いたことがある話だったので、唐突とも思わなかったのかもしれない。

 優芽としても新しい話が聞きたかったわけではなく、単純に確認したかっただけである。

(うーん……元々が萌映だから、これも柚亜の『ユ』と、萌映の『メ』を合わせて『ユメ』なのかもって、それは考えすぎ、かなぁ)

 五十音のうち二音を拾うとして、そこに『ユ』または『メ』が含まれる可能性はどれだけなのだろうか。

 濁点も含めばより一層確率は下がるのだろうか。

 何が偶然で、何が必然なのか。

 疑い始めるときりがない。

「萌えると芽吹くも大体一緒の意味だしなぁ……萌える映えるで萌映なら、名付け方としては納得いくし」

 と、そこまで丁寧に口にしてから、優芽の発言に疑問符を浮かべた母親へ、なんでもないよとアイコンタクトする。

 まさか「前の世界ではどうして萌映と名付けて、今回はどうして優芽なのか」とは聞けない。聞いても不思議そうな顔をされるだけだろう。

「ううん。あっという間に、二年生が終わっちゃうなぁ。なんて思っただけ」

「そうねぇ。来年の今頃には優芽の高校生活も終わっちゃうんだから早い気もするし、でも今日、この今の時間が来るまでの道のりは長いようにも思うわ。ねぇ、お父さん」

「うん? そうだね。母さんと出会った時から考えても短いような長いような。でも優芽が生まれてからの方が長く感じるかな。毎日がイベントだらけで」

「うふふ、ほんとね。優芽がいる時間の方が長い気がする。優芽はどう? 高校楽しい?」

「そうだね。今は本当に、あっという間に思えるくらい、どんどん毎日が過ぎてく、かな」

 体感時間ではなく、物理的に時間が行ったり来たりしているので、嘘は言っていない。

 なお、現状が楽しいのかどうかという問いについては無回答とした。優芽の中では、現在が楽しいのかどうか、微妙によくわからなかった。

 間違いなく楽しんでいる時間よりも苦しんでいる時間の方が長いのだが、それでも弥々や詩織に「大好き」なのだと言われたことは幸せに感じており、そうした会話自体を楽しんでいる感覚は確かにある。

 頻度は苦しい時間で、より振れ幅が大きいのは幸せな時間なのだが、これはどのように重み付けをして回答すればいいのか、という点がわからない。

「お母さんとお父さんは、なにかやり直したいことって、ある?」

「あらあら、やり直したいこと?」

「うん。例えば高校の部活とか、お仕事とか。あのとき、ああすれば良かったなってこと」

「うーん、なにかしら……あ、カナダのカフェで売ってたメープルシロップをかけたクレープはあのとき食べといたらよかったわねぇ。行くことも中々ないだろうし、それにあんな食べ合わせ、若い頃じゃなきゃ胃もたれしちゃいそう」

「……え、そ、そんなこと?」

 想定よりもずっと小さな後悔を聞いて、優芽は狐に摘まれた様な気持ちになる。

 ともすれば、自分の好きな人の恋路を邪魔しようとした自分よりも矮小な願いである。

「そんなことよ。それに、もしも本当にやり直せるんだとしても、私はやり直さないでしょうね。きっと、食べない」

 またしてもおかしなことを言う。

 やり直したいことを、もしもやり直せるのだとしても、やり直さない。

 前提からして間違っている。

 やり直さないのなら、それはやり直したいことではないのではないか。

「だって、やり直したらお父さんに会えないかもしれない。優芽に会えないかもしれない。こんな幸せな今がないかもしれない」

「そ、そんな、クレープ一つで」

「クレープ一つだからこそ、ね。何回か話したことあるでしょう。お父さんと出会った時のこと」

「聞いてるけど……」

 耳にたこが出来るほど聞いている。

 旅行中に出会ったのだと。二人とも一人旅をしていたのだと。そこで意気投合したのだと。

 より詳しい話では、町中で買い物をしている途中、目の前にいた人物が落とした財布を母親が拾い、それを父親が届けたことがきっかけらしい。

 拾ったものの、どんどんと先に歩いていってしまう人を英語で呼び止めるのを躊躇った母だったが、たまたまその状況を見ていた父が大きな声で知らせてくれた、とのことである。

 余談だが、助けてくれた父のことも当然に外国人だと思った母は最初、慌てふためきながら英語で礼を言ったそうである。

 父の方もそれを受けて、顔立ちは完全に日本人に見えた上に、英語が苦手な日本人が声をかけられなくて戸惑っていると思ったからこそ助けに入ったわけだが、日本人である確証もないかと思い英語で返事をしたらしい。

 その後日本人あるかどうかの確認を英語で行った後でようやく日本語で自己紹介をしたのだとか。

 なんとも微笑ましいエピソードである。

 しかしながら、それといつだかどこだかのタイミングで母がクレープを食べたか食べないかがどのように関係しているのか、優芽には全く検討がつかない。

「お母さんね、とっても運が良かったの。お父さんに会うためには、あの年のあの時期あの日にあの場所へ旅をして、お父さんに助けれないといけなかったのかもしれない。だからもしかしたら、クレープを欲しいと思って、それを食べることの出来たお母さんのことだったら、お父さんは助けてくれなかったかもしれないわ。それか、助けられるまでもなく、お母さんが一人で解決したかもしれない」

 なるほど母はバタフライ・エフェクトのことを危険視しているらしい。

「他のことも全部そう。やり直してみたいことって、色々あるわ。でも、やり直さない。お父さんに会ったあの瞬間の、私の精神状態が少しでも違ったら、助けてくれないかもしれない。持っている知識や性格、交友関係が少しでも違ったら、好きになってもらえないかもしれない。結婚しなかったかもしれない。優芽が生まれなかったかもしれない。だから、もしもやり直せるチャンスが目の前にあったとしても私は何もしないし、勝手にやり直しをさせられちゃったなら、私は今の私と全く同じことをしようとするわ」

「……す、ごい、なぁ」

「あらあら。普通だと思うわ。ねぇ、お父さん」

「少し考え方は違うかな。僕はどんな形でも母さんに会うし、どんな母さんでも好きになるよ。言うまでも無く、どんな風に時間が流れても、優芽にだって会えると思ってる」

「そう、なんだ……そっか。ふふ、二人で考え方、全然違うね」

 生まれ変わっても会いに行く、という価値観が父。生まれ変わってしまったらもう会えないかもしれないからこそ、出会えている今は奇跡で、この今を大切にしなければいけない、という価値観が母。

 どちらか一方が間違っていることはなく、どちらも正しい。どちらも二人の本心で、どちらも本物である。

「ちょっと、卒業式の準備してたら感傷的になっちゃった。私もやり残したことないかな、とか。色々」

「青春ねぇ」

 青春、だろうか。

 青い春はとうの昔に過ぎ去って、今は光の失せた冷たく白い冬である。

 また次の春が訪れてくれるのかは、わからない。

「青春、だね」

 表面上だけは母の言葉を肯定し、優芽は自分の部屋へと戻った。



 部屋に戻った優芽は、枕を自分の顔に押し当てる。

 声が漏れないように。

 嗚咽が誰にも聞こえないように。

「うううううぅっ、ぐっ、うううううぅぅっ……」

 涙も溢れ出てくる。

 これは何の涙だ。

 親の愛を感じて喜んでいるのか? 感動しているのか?

 違う。

 これは、どうしようもないほどの哀しみだ。

 夢叶優芽はどうすることもできない自分に怒り、変容しすぎてしまった世界を嘆かなければ壊れてしまいそうだった。

「なんで、なんで、なんで、なんで、なんでよっ!?」

 親の愛は十分に伝わった。

 何気ない、ただの日常会話のはずだった。

 自分にない考え方を聞いて、何かヒントがないかと思っただけだ。

 けれど。

 母は言った。

 生まれ変わったら会えないかもしれない、と。

 だから何もやり直さないのだ、と。

 現実に、生まれ変わったから、会えなくなってしまった。

 やり直してしまったから、会えなくなってしまった。

 もう夢叶萌映は、母親に会えない。

 父は言った。

 生まれ変わったって会えるのだ、と。

 やり直したって優芽に会いに来るのだ。と。

 現実に、生まれ変わったから、会えなくなってしまった。

 やり直してしまったから、会えなくなってしまった。

 もう夢叶萌映は、父親に会えない。

 今の母が、何もやり直さずに会いたいのは夢叶優芽で。

 今の父が、何かをやり直したとしても会いに来るのは夢叶優芽で。

 二人の優芽への愛が本物だからこそ。

 二人が夢叶萌映という存在を忘却している、その事実が優芽に重くのしかかる。

 なんだ、結局やり直したら、忘れてしまうんじゃないか。

 なかったことになってしまうんじゃないか。

「こんな、の。こんなの、望んでないよ……玖亜が助かれば、あとは何でもいいって思ったよ、でも、こんなの、酷いよ……」

 萌映としての記憶を取り戻した優芽は、萌映としても優芽としても、悲しくて涙が止まらない。

 夢叶萌映はどうしてこんなにも簡単なことに気付かなかったのだろう。

 玖亜だけでいいだなんて、そんなことあるはずがないのに。

 十数年も生きて、大切な人がたった一人なんてこと、あるはずがないのに。

「何が、『私の罪は柚亜』よ。柚亜以外にも罪ばかりで、駄目、じゃない」

 辛い。

 苦しい。

 悲しい。

 でも。

「自分を責めない。自分を責めない。自分を、責めない……約束だから、責めない……」

 枕に顔を埋めたまま、優芽は何度もその言葉を繰り返す。

 詩織と弥々がくれた希望に縋りでもしなければ、また自分の決意が揺らいでしまいそうだった。

 負の感情に飲み込まれまいと、必死に後輩の顔を思い浮かべる。

「最後には笑ってること。最後には笑ってること。私は、最後には、笑ってないと、駄目」

 無理矢理、笑顔を作る。物理的に口角を上げれば、心が泣いていようと笑顔は作れる。

 どうせ今はまだ最後ではないから、泣いてもいいのかもしれないけれど。

 あんなにも願ってくれた後輩の想いに応えるためにも、なるべくならば笑っていたい。

 前を向いていたい。

 いつかのあの日、親友である奏音と友莉に誓ったように。

 過去に囚われるのは、もう終わりにしたい。

「弥々ちゃんは、柚亜ちゃんは、幸せなんだから……」

 もし、本物を求めてしまったら、どうなるのだろう。

 元の世界を。櫛咲玖亜がいて、侑李悠がいて、狩野宇理がいて、綾文紀実がいて、夢叶萌映がいる世界を。

 玖亜は死んでしまうのかもしれないけれど、その事実を真っ正面から受け止めて、ちゃんと悲しむことのできる本物の世界を求めたら、どうなるのだろう。

 今は消えて無くなってしまう。

 夢叶優芽として生きてきた時間が消えてしまうことは構わない。

 けれど、綾文弥々が消えてしまう。綾文弥々の想いがなくなってしまう。

 もしも今この瞬間に消失するとしても後悔しないと言ってみせた弥々が消えてしまう。

 偽物でいいのだとこの世界を許容した弥々の想いを踏みにじることになる。

 奏音も友莉も消えて、綾文綾も消えて、何もかもが消える。

 挫折も後悔も、哀しみさえも。

「もう、こんな想いは、嫌だよ……」

 嫌だから、進まなければならない。

 一生このままの夢叶優芽であり続けるなんて地獄を耐える気はない。

 全部を解決して、区切りをつけて、皆で笑って、幸せに。

「幸せって、なんなんだろうね……萌映。本当に、生きてることは幸せなのかな」

 幸せ、という概念が人の生の基に成り立っている概念であることは、優芽にも理屈上わかっている。

 死んでしまえば幸福を享受することはできない。

 だから死んだ方が幸せなんて、信じられない。

 これだけの不思議に遭遇しておいて、それでも優芽は幽霊も天国も地獄も輪廻転生も信じることができない。

 死後も自分の意思総体が存在し続けるとは思えない。

 もしも生まれ変わることができたのだとしても、その先で幸せな世界を過ごすことができたとしても、それは今の自分が幸せになっているのだろうか。赤の他人が幸せになって、それを喜ぶことができるほどのお人好しではない。

 間違いなく、疑う余地なく、幸せは人が生きているから感じることのできるものだ。

 だが優芽の疑問はその根底、生きていること自体は幸せなのかどうか、である。

「幸せは、人生の一部分なのかな。それとも、人生の全部なのかな」

 萌映は幸せがあれば同じくらいの不幸があるのだと語った。

 足し引きして零になるから、なるほどそれは無とイコールで、つまり人は生きていても死んでいても変わらない、などとは思わない。

 死にたくはない。

 けれど、生きていたいわけではない。

 幸せになれる気がしないから。

 誰かを幸せにできる気がしないから。

「ううん。大丈夫、大丈夫、大丈夫だよ。私は、ちゃんと、弥々ちゃんを、幸せに、できてる」

 不意に優芽は、萌映の言葉を思い出した。

 彼女は、優芽に対して、これからもずっと自分自身に問いかけ続けるのだろう、と言っていた。

 そうかもしれない。

 いいことがあれば喜び。

 嫌なことがあれば悲しむ。

 確固たる想いを頼りに前を向いたと思えば、どうして自分がそこにいるのかを見失って立ち止まる。時には逆戻りすることもあるだろう。

 萌映も優芽も、そうやって後悔し続けることでしか、自分の選択を問い続けることでしか生きていけない。

 それしか方法を知らない。

 何度でも問うことで、解に近い偽物を手にすることしかできない。

 例えそれが本物とは似ても似つかない存在だったとしても、優芽にとっては、それだけが、本物だから。


 自問する。

「私は一体誰ですか」

 自答する。

「夢叶優芽」

 自問する。

「私が一番に欲しいものは、何」

 自答する。

「救い。本当は死ぬまでずっと前を見続けたい。本当は、成長しなくていいから、挫折も苦労も後悔も何もない人生が欲しい」

 自問する、

「私は、これから先も私でありたいですか」

 自答する。

「私のままがいいよ。もう本物も偽物もどちらも一緒なんじゃないかなって。考えるのは面倒だから、今がいい」

 自問する。

「私は、私を助けられますか」

 自答する。

「私は、萌映の世界を、助けないよ」

 自問する。

「私は、誰かを助けられますか」

 自答する。

「助けたいなら、いつだって、誰だって、助けられるよ」

 自問する。

「私はこれから幸せになれますか」

 自答する。

「幸せになれなきゃ、先輩風が吹かせられないよ」

 自問する。

「この問いに、答えはありますか」

 自答する。

「答えがあること自体が奇跡なんだって。正解も不正解もない世界を楽しめるようになってからが本番だよ」

 自問する。

「私は、本当は、どうしたいんですか」

 自答する。

「本当にしたいことをすればいいよ」

 自問する。

「この世界は、有限ですか」

 自答する。

「有限だよ」

 自問する。

「私にできることは、有限ですか」

 自答する。

「有限だよ」

 自問する。

「私は」

 自答する。

「私」


 顔を上げる。

 まだ涙は止まらない。萌映を愛してくれる人は帰ってこないから。柚亜の死を悲しんでくれる人は世界に一人しかいなくなってしまったから。過去は、取り消すことができないから。

 過去は、過ぎ去る。

 未来は、未だ来ず。

 私は、私。

 そんな当たり前のことにすら納得できず後悔を重ね、自分を見失う。

 そうして足掻きながらでしか、優芽は進めない。

 結局のところ、自分が求める幸せがどこにあるのかは、わからなくても。

「せめて、弥々ちゃんの幸せが続くように、私は動くよ」

 他者の幸せを祈ることが、せめて自分の幸せに繋がりますように、と願う。

 自分、というのは萌映としても、優芽としても。そのどちらの意味も含める。

 萌映は世界の代償に失せてしまった。

 かろうじて残った記憶は、かろうじて残した記録は、確かに優芽に受け継がれている。

 しかしそれでも、萌映が優芽の前世に近しい存在であることは間違いが無く、この体の主人格は優芽となっている。

 自己同一性は揺らぎ続けている。

 自分の体の中に、心の中に、二つの人格が溶け合っている。

 今優芽は過去を思い出そうとすれば、優芽としての過去も萌映としての過去も、そのどちらも自身の体験として思い返すことができる。

 思い出すことができるのに。

「私はどうしようもなく私なんだね。もう、あなたじゃないんだ、萌映」

 日記を手に取る。涙で汚れてしまわないように、しっかりと手を伸ばして、顔から距離を取る。体勢だけを見れば、小学生の音読のようだ。

 日記も、記憶と同じ。

 優芽としてページをめくる。夢叶優芽の日記がそこには書かれている。

 綾への愛憎。親愛なる親友の勇姿を綴った日もある、よりシンプルに櫛咲櫛夜への怒りがそのままんい顕れている日もある。臆病で虚弱で性格の悪い、夢叶優芽の日記。

 萌映としてページをめくる。夢叶萌映の日記がそこには書かれている。

 兎にも角にも玖亜への愛。玖亜への想いが強く深くあり、あまり自分自身や周囲に目を向けた言葉は少ない。

 志を同じくする侑李悠と狩野宇理に向けた言葉すら、ほとんど見つからない。

 あれだけ沢山世話になって、これだけ沢山の気持ちを二人に対して想っているのに、それは物理的に表されていない。

 口に出していないということは、伝わっていないのと同じだ。

「あはは、本当に、何、やってるんだろ、私は……」

 どうして何も書いていないのだろう。

 どうしてあのとき感じた心の機微を何一つとして書いていないのだろう。

 どうして夢叶萌映は、もう夢叶萌映じゃなくなってしまっているのだろう。

「寂しいね……消えるってさ、死ぬよりも辛いんだって、本当なんだ。死ぬことは、やっぱり辛いことだし、私は皆に死んで欲しくない。でも、誰からも忘れ去られて、いたことすらなかったことになっちゃうなんて、死ぬよりも、辛い」

 例えば自殺は辛いことの代表としてまず真っ先に思い浮かべるものだ。自ら命を絶つだなんて、何故その一歩の前に踏み留まってくれなかったのだろう。相談ができなかったのだろう。残された人々も大切な人の遺体を見なければいけない。

 人の物語は一時停止がないから、何があったって進まなければいけない。残された人々も辛いという感情を抱えて、どうにか一歩を出さねばならない。

 にも関わらず、前に進むためのもの、過去を過去のものとするためのものが見つからなければ、それを忘れてしまったならば。そんな物事が確定しないままでは、そこから先には進めない。

 人は一人で生きていけないから、関わった人には、自分の物語の末路を聞かせてやる必要もあるはずなのに、だ。

「もっと沢山、皆に私の言葉を届けておけばよかったな」

 好きな人へ。

 友人へ。

 家族へ。

「こんなことなら、もっとちゃんと、皆と一緒の時間を過ごしておけばよかったな」

 優芽は後悔の言葉と共に泣き続け、声にならない悲鳴を出し続ける。

 もう萌映はいない。

 夢叶優芽の両親はあの二人だけで、あの両親の子どもは夢叶優芽だけ。

 世界はそういう風に、できてしまっている。

 後悔をするのは、前に進むため。

 ならば、その一歩がどんなに小さくとも。

 時に後戻りしてしまうのだとしても。

「私は貴方を忘れないよ。私は貴方だもの。私は私だもの。私は、柚亜ちゃんにチャンスを与えた私を誇るよ。私は、弥々ちゃんに幸せを届けられた私を誇るよ」

 無駄じゃなかったと思いたい、萌映はそう零していた。

 無駄かどうかを判断するのは未来だから、今の優芽が「無駄じゃなかった」と言ってしまえばそれは、無駄ではなかったことにできる。

 時間の操作などできなくても。

 過去に対する認識はいくらだって操ることができるのだから。

「だから、後ろを見ながら前に行こう。手始めに、この問題を解決しよう。大切な誰かが私みたいに悩んでいるなら、聞いてあげよう」

 聞くことがそのまま解決になるとは、優芽は思わないが。

 珠子の言葉を信じれば、悩みというものは人に相談して解決できるものではないらしい。解決できるならばそれは、悩んでいる自身に酔いしれているだけであると。

 だが優芽は、そうは思わない。

 他者に話す、という自身の内に秘めたものを外側に吐き出すことで初めてわかることもあるはずで。

 時には心のような曖昧な概念が、言葉という枠組みの中で具体化されてしまい、本当に言いたい気持ちとかい離してしまうこともあるかもしれない。

 しかし優芽はそれでも人の繋がりを信じることができる。

 否定的な感情を持つことでしか行動を起こせないと思っていた自分が変わったのは、他者がいたから。

 綾文綾という好きで嫌いな狂信を捧げる相手がいたから。

 侑李友莉、狩野奏音という自分を叱ってくれる親友がいたから。

 織上詩織、綾文弥々という、自分を大好きだと言ってくれる後輩がいたから。

 こうして想うだけで涙が出てくる、愛する家族がいつも傍にいたから。

「お母さんとお父さんのことは、ちゃんと私が見守るから。安心して、いいんだよ……萌映」



 そこに返事はなく。

 優芽は今度こそ本当に夢叶萌映の存在を認め。

 同時に、夢叶萌映が家族の中から消失していることもまた、認めざるを得なかった。

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