物狂い心象世界
萌映と優芽。二人で一人のその体から発せられる声は溶け合い、時空間を超越した物語を紡ぎ始める。
『世界に対して絶対という言葉を使うのならば、きっとそれは絶対に届かない場所があると使うのだろう。
真実を操るのは嘘に塗れた有象無象で、真に誠に本物で本物たる存在はどんな困難の渦中においても、運命だろうが確率だろうが物の見事に操ってしまえる。
本物に確率を操る力があるのか、確率を操る力を持つ物が本物なのか、その前後関係を今は問わないでおくとしてもだ。
大切なのは結果でも過程でもなく、そこに距離があるかどうかだけであり、本物は偽物の手が届かない場所で爛々とか輝いているという点だけである。
輝いているという結果を言いたいわけではなく、距離がある、と言いたいことを強調しておこうか』
と、枕詞に哲学にもならない哲学を述べ、本物にも偽物にもなれなかった彼女は話し始めた。
『私……夢叶萌映にとって絶対に届かない場所とは、櫛咲玖亜を指す。勿論櫛咲玖亜とは人名であり、地名でも場所でもない。言葉の綾にすぎない。
綾、とはまた嫌な響きだが。
私がこれからの私の物語を物語るためにはまず、これまでの私を説明しなければならないだろう。
そしてこれまでの私を説明するためにはまず、櫛咲玖亜を語らなければならない。玖亜を語るにあたり、嫌でも嫌いでもあの憎き綾文紀実の話を、しないわけにはいかないのだろうな。
櫛咲玖亜は、私と同い年で生徒会役員になった、どこか変わった子だった。
私は居場所が欲しかっただけで役員に立候補した。人に勝る要素もなく、これといって続けていたい文化活動もない。
それでも高校生活、何かしら群の一部になりたかった。
出会った頃の玖亜は天真爛漫か天上天下唯我独尊、人の話など一切聞かずに笑って仕事を請け負って、一人で完遂できないと見るやその他の友人知人全員を巻き込んで、元の相談者も求めていない解を導き出す、そんな子だ。
そんな子が、この私と手を取り合うわけは、正直なところ、なかった。
人と関わりたい、その一心だけで、いや、人に嫌われたくない、呆れられたくないその一心だけで生徒会に入った私の精神性を玖亜は理解しなかった。
理解しようともしなかったし、好きではなかっただろうし、それを隠そうともしなかったな。
だが、玖亜は自分にとっての異物を異物のまま受け容れてしまえる人間だった。
味がしない嫌いな物を、玖亜は『あぁきっと、この食材を美味しい美味しいと言って食べる人がいるのね』等と納得をして食べてしまえる。
許容と理解はかけ離れている。玖亜は私がどんな思考をしようとも、どんな行動を取ろうとも「そう」の一言で済まし、一切の拒絶をしなかった。
あぁ、私は玖亜を酷いなどとは思わないよ。思うはずがない。
他人に興味がない、という状態とは少し違うな。自己愛が強い、のは否定しないが、極度のナルシストだったわけでもない。
玖亜は単に、妹以外の全てを平等に無価値だと思っていただけだ。妹以外、の中に自分を含めて玖亜は全てに存在価値を見出していなかった。
異常な精神性は、しかしまさにその妹、柚亜によって崩れることなくバランスが保たれていた。
私が惹かれるまでにそう時間はかからなかった……いや、あるいは初めて会った時からもう既に玖亜の持つ全てが好きだったように思う。
誰にでも分け隔てなく明るく接し、かと思えば誰もが驚くほど冷たく感情がない時もある。
その感情の揺れ幅こそが、生徒会役員という役職を通してすぐ近くで見ていた私たち全員を虜にしていた。
ふん、尤もこの今の玖亜がどのような人物なのか、私はついぞ知らないがな。知りたくないと言えばそれもまた嘘になるが、積極的に知りたいというのもまた真実ではない。
この世界はまさに、そのために創られたものであり、知らない、という事実こそが世界の理だったとも言える。
世界の話はもう少し置いておこうか。この物語の終着点であり、それこそがお前の知りたい情報なのだろうが、知りたい、という事実こそがお前の、そして私の罪であるとも言える。
知りたい、という言葉は、未知であるか忘却したか、どちらにせよ無知を知り初めて生まれるものだな。
私もお前も、私だけはお前だけは、知らないも忘れたも許されない存在だと言うのに。
許されないからこそ、今の私はお前に話しているんだがな。
何がその割にはこれまでは非協力的だった、だ。当然だろう。私はお前が嫌いだ。憎い。
或いはあの綾文以上にだ。
のうのうと幸せを享受しながら、被害者面して弱さを武器に生き延びようとしている奴を甘やかす道理はないな。
自己嫌悪でもしていれば許されると思っているのだろう。
自己嫌悪でもしていれば誰かがいつか勝手に助けてくれるとでも思っているのだろう。
甘えるな。
自分から動こうともしない奴に手を差し伸べるほど周りは暇じゃない。
自分の目の前の課題や乗り越えるべき壁。
それら現実から逃避するための趣味。
愚痴を言い合い幸福を共にする友人や家族。
自分の手の届く範囲だけですら全てを理解しわかりあおうとすることは困難で、時間はいくらあっても足りない。
何かの時間を減らそうにも睡眠欲求は皆平等に訪れ、コミュニケーションを言語に頼っている内は時間がかかって仕方がない。
何も非言語のコミュニケーションを推奨したいわけではないさ。
それでも私たちの思考は言語によって縛られていて、一つの言葉を選定したとしても、話し手と聞き手との間に完全なイメージの一致が起きることはない。
互いが違和感と誤解を交錯させながら曖昧に議論を前に進めていく行為を会話と呼ぶ。
その曖昧の許容範囲が大きな人間は玖亜のような人物で、私もお前も正反対に属しているだろうが、この世に生まれた誰しもが曖昧に歪んだギャップを摺り合わせ無くしていこうと努力している。
その努力をする気のない人間とコミュニケーションなど取りたくもないし取れるわけがない。
そのお前が、今は知ろうとしている。
それが本当の意味での自発でなくとも、他の環境や人物によって誘発された意識の変化であろうとも、変化は変化だ。
お前は知りたいと願い、行動し、私は私の知り得る情報を伝えるべきであると判断した。
その判断が正しかったと、そう思わせて欲しいものだ。
私は信じたいよ。今でも信じたい。
あの日の選択が。
あの日の願いが。
あの日の真実が。
私がこう在りたいと願った全てが正しかったと信じたい。
信じたいと考える時点で、正しさは不安定なのかもしれないし、私自身が認められない理由が潜んでいるかもしれないが、それでもと私は正しかったと思い込みたい。
お前はどうだ。
お前も結局は私だから、きっとこれまでも同じ事で悩んで来ただろう。
そしてこれからも同じ事で悩むのだろうな。
今起きている事件でさえも、解決した時には同じ悩みにぶつかるのだろうよ。
私の選択は正しかったのか、と。
玖亜なら、「正しかったかどうかは未来の自分が決めることで、過去の自分から見た未来の自分である今の自分はその時のことをどう思ってるの?」等と言うのかな。
あいつはそういう奴だ。
誰よりも、今が更新されて過去になっていく当たり前の事実を理解していた。
その当たり前を自分で獲得してしまっていたから、玖亜は、自分自身の変化を許すことができなかった。
私やお前とは違う悩みだな。変われない自分を憎んだ私たちには、本当のところ、玖亜の思いは微塵もわからない。
この点に関してはある意味悲しいことに玖亜の思いならぬ玖亜が私を理解しなかった思考の構造を理解できるよ。
ところで、幾らか気になる点がお前には、いや、この場合は私に対してだが、一応は自分から生徒会に入ったつもりなのに、お前はどうして始まりからして他者起因なのだ。
そこを責める気はないが、玖亜の存在が私の持っていたはずの過去の価値観すらねじ曲げられていると思うとやはり私は弱く脆い人間なのだなと、それを見抜かれているようで心地悪い。
あぁまた私の話になってしまったな。玖亜の話をしよう。
玖亜は、誰よりも人生を楽しみ、偶然を楽しんだ。必然など求めず、絶対、などと言い切れる未来を望まなかった。
彼氏もいなかったな。顔も整っていたし、朗らかな性格も相まってよく告白はされていたようだが、当の玖亜があまり興味がなかったらしい。
私にとっては安心、だったかな。だからと言って、玖亜の興味が私に向くわけがないのに。
直接玖亜が話した内容をそのまま信じるのであれば、偶然の出会いをいつか誰かとしてみたい、なんてドラマのようなボーイミーツガールをしたかったようだ。
遅刻しそうになって駆けた曲がり角で転入生とぶつかるとか、旅行先で数年来の知人と出会うとかな。
そういう滅多に起きないことを、どこまでも小さな確率をこそ玖亜は大事にして、それが彼女にとっての生き方の軸だった。
そう、小さな、確率が、な……。
不幸。
不運。
事故。
誰でも知っている。知っては、いるんだよ。
小さな幸せは、どこにでもある。
背反。
幸せの裏に不幸が、ある。
そうか、そうだな。これもまた、絶対と言ってもいいのかもしれない。
世界から不幸がなくなることは絶対にない。
玖亜の妹……柚亜は、柚亜はな、その不幸を自ら選択してしまった。
その表現も正しくはないな。
櫛咲柚亜は自ら不幸を選択せざるを得なかった。
何の前触れもなく、たまたま、その日、その場所で。
柚亜は助けられ、自らを助けた人間の死を目の当たりにした。
助けられたんだよ。
何の変哲もない日常の一ページ。便利に長距離高速移動を可能とする電車。通過のために警告を促す遮断機。
自転車通学をしていた柚亜。何が原因か、踏切の中途で転び倒れた柚亜。鳴り響くベル。焦りから身動きが取れなくなる柚亜。
そして、その柚亜を助けようと、焦りから飛び込んだ夫婦。
……最後には、その夫婦二人が柚亜を突き飛ばしたそうだ。
何もかも、運が悪かった、としか、私には言えない。
例えば、柚亜が転んだ場所があと数メートル手前だったなら。
例えば、柚亜が転んだ時間があと数分後だったなら。
例えば、転んでも柚亜が焦らずすぐに立ち上がって退避することができていたなら。
例えば、目の前で焦る少女を見て、夫婦のどちらかが冷静に非常ベルを鳴らすことができていたなら。
考えるだけ、無駄だろうな。
過去の事実は変えられない。変えられるのはあくまで、事実に対する自分の認識だけだ。
柚亜の姉である玖亜であればここにまだ色々なタラレバを付け加えるのだろうが、あくまで玖亜の友人としての私が言えるのはここまでだ。
いや、強いて言うなら、例えば、柚亜を助けたのが綾文夫妻でなければ、とでも私は考えたのかもしれないな。
私にそんな非道いことを言う権利はないが。
不思議なもので、自分のことだって後悔はよくするが、自分とは全く関係のない場所で起きた事象を延々と後悔することも、人にはある。
この昨今であれば電車で人が死ぬことなど珍しくもないのかもしれない。
自殺かもしれない、事故かもしれない。
これまでの人生で私はそのどちらにも出会ったことがない。目の前で人の生き死にを見ることは……そうだな、本当にあのとき、私の終わり、私の世界の終わりの時まで見たことがなかった。
あの瞬間ほど独我論じみた光景はない。
私の見える世界が、客観的に見える世界と重なった瞬間だ。
私と世界が同一化した瞬間だ。
玖亜を助けるため……だったはずなんだがな。
如何せん実行したのが私だ。私にそんな高尚な考えがあるはずもなく、訳のわからない世界が誕生してしまったことは当然の帰結とも言える。
そのくらいに、それほどに、玖亜の世界は壊れてしまったし、玖亜の世界を壊した彼女の妹、柚亜の世界も壊れてしまった。
名も知らぬ夫妻に命を助けられて、ああそうだ、ここまで言えば大体もうこの後の話はわかるだろ。柚亜に、そして玖亜に起きた、起きざるを得なかった不幸が。
柚亜は葬式に参加したらしい。自分を助けてくれた夫妻の、だ。
そこで会ったのが、その一人息子。
そいつこそが、まぁ、綾文紀実なわけだ。
柚亜は必死に謝った、が、何と言い返されたと思う?
恨み言なら、許しなら、まだマシだったかもしれないな。
違う。
あいつはな。「俺に謝るなよ。俺の見えないとこで勝手にやってろ」と言ったらしい。
勝手にやってろ、だよ。
謝ることで、その行為そのもので許されようとしていたのかもしれない柚亜の気持ちを全て踏みにじった。
何もおかしなところのないただの一少女であるところの柚亜が罪悪感から逃れる術はなかった。
私は会っていないよ。本当に思い詰めてからの柚亜に。
だから私は元気だった時の印象しか残っていない。辛そうな柚亜の顔はまるで想像ができない。
大体において想像できないなど、その人間の何を知っていての発言なのかわからないがな。我ながら傲慢だ。
柚亜は……玖亜にすら相談できなかった。
思い悩んでいることは玖亜にもわかりすぎるほどわかっていた。玖亜は声をかけ続けていたし、心配し続けていた。
それでも一線を越えるとは、夢にも思わなかった、らしい。
柚亜は自殺した。
本心はわからない。
いや、本心も何も、正常な判断などどこにもないまま、負の感情に押し潰されたのだから、話すべき本心などどこにもなかったのかもしれない。
夜は毎日泣いていたそうだし、玖亜は毎日柚亜の小さく弱った体を抱いて支えていたと言っていた。
玖亜の両親も当然のことながら気に掛けてはいたようだが、同じだ。玖亜がそうしていたように、優しい言葉で励まして、
「柚亜は悪くない」
「誰も悪くない」
「気に病む必要はない」
「元気に生きてくれる方が助けた側もきっと喜ぶ」
なんて。
今の私だからこそ言えることだが……こんな嘘が苦しんでいる人間に届くはずがないな。
どうして世の不幸や不条理に苦しみ悩む人間はこれまでもこれからも無限に溢れかえっているというのに、それに対する言葉はこんなにも足りていないのだろうな。
こんなにも薄くて、こんなにも無価値。
しばらく学校も休んでいた柚亜が、その日は久々に登校した日だった。
元通りではなく。違和感はあったものの、震え怯える様子で壊れている状態にも見えなかった、とその日の柚亜と喋った柚亜の同級生は後で話してくれている。
その日だけは、その時だけは、友人を相手に何かを伝えようとしていたのかもしれない。
何かを見せようとしていたのかもしれない。
或いは、普段通りの明るさをせめて最期に見せたかったのかもしれない。
柚亜は……誰にも何も言わなかったから、誰も何も知らない。
何も書き残さなかったし、何も言わなかったし、何も、本当に何も、なかった。
何一つ最期の本音を残さなかったからこそ、玖亜もまた、狂ってしまったのかもしれない。
愛する唯一の妹を失って。
戻らない時間を知って。
後悔すら許されない事実を知って。
後悔が許されない事実に後悔した。
玖亜もまた、自分の生き方から、自分がそう在るべきだという姿に焦がれて、死に自ら近づいていった。
死に誘惑されたのではなく、むしろ柚亜に誘われたと言った方が正しいだろうな。
私は……ああ、そうだな、人間があそこまで変わってしまうことを、歪んでしまうことを、認識していながら知らなかったよ。
玖亜もまた、学校に来なくなった。
私は玖亜の元へ何度も通ったよ。柚亜の事は多少なり聞いていたから、玖亜もすぐに柚亜の後を追ってしまうんじゃないかって、それが怖かったから。
それが良かったのかどうかと、そう聞かれてしまえば当然、意味がなかったと回答しよう。
柚亜に対して何の言葉も届かなかったように、玖亜に対しても私たちの言葉は何一つ伝わらなかった。
それくらいはお前にもわかるだろう、夢叶優芽。
お前は誰に何を言われても、伝わっている振りをしているだけで本当は何も感じてはいない。
他人の言葉を微塵も信じていない。
他人を信じていない。
それは信じて裏切られたトラウマからではなく、自分の選択を他人に任せることへの恐怖からだが、この場合はどちらでも構わない。
玖亜は当たり前に当たり前が続くことの尊さを理解しながら、それが本当に崩れてしまった自分自身に対して、理解しているからと言って耐えるようなことはしなかった。
自分を守ることを一切せず、理解していた分だけの喪失を全てその心に受けた。
柚亜を助けることが出来なかった櫛咲玖亜という存在そのものを否定した玖亜の様子は……私にも形容しづらいな。正しく伝えられる気はしていない。
だがそれでも、私は玖亜の事をこそ語らねばならない。
お前が例えば、この確定した世界における綾文綾の苦悩を無視できないように、私にとって玖亜の苦悩を知る限りで全て語ることは当然の断罪だ。
これはある日のある時間におけるただの一部分でしかないことを先に宣言させてもらうが、私が学校帰りに玖亜の家に寄り、部屋に入ったときの姿は、大量の柚亜の写真や柚亜に関わる物品を部屋中に並べ、その中央に正座するものだった。
正座し、虚ろに宙を見上げ、ひたすらに「柚亜を助けなきゃ。柚亜を助けなきゃ。柚亜を助けなきゃ」と呟き続けていたよ。
あぁ、ひょっとするとお前なら助けられたのかもな。結果だけで言えばお前は侑李友莉を救ったことになる。過程を間違えたとしても、真に求める結果と違うものを得たのだとしても。
お前は親友である侑李友莉の鎖を解き放す機会を与えた。
お前自身に出来ることは何もなかったにせよ、綾文弥々の積極性に影響を与え、櫛咲櫛夜の周囲の人間関係をねじ曲げ、そのことが遠回しに救いの手を差し伸べる結果に繋がった。
正直なところ、複雑な心境だよ。
いや、素直に言おう。
お前が羨ましいよ。
結果だけ、結果だけで見れば私も玖亜を救うことが出来たのかもしれない。しれないが、私のは問題の先延ばし、いや、過去送りにすぎなかった。
しかしお前は、他者の力を十分に借りて、そのままの自分たち、いや、そのままと呼ぶには時間も関係も変化を必要としたものの、自分たちの世界を保ったまま親友を救うことができた。
私たちにはできなかったことだ。
私も玖亜をそのままの私たちで救いたかったよ。
出来なかった。
玖亜もまた、柚亜を救うことはできなかった。
時間の巻き戻しができるならば間違いなく使っただろうな。
私でも使っただろう。
前提として、時間を巻き戻すために大切な人の傷が、痛みが必要だとしても。
何度も何度も、希望も見えないままに救いたい誰かを救えない自分に打ちのめされるのだとしても。
何度だって巻き戻してやり直して繰り返して、絶対にと柚亜を、私ならば玖亜を救いたかったと考える。
あぁ、世界が変わろうが世に潜む不思議は変わらないよ。
私がお前の確率回帰を当たり前に認識しているように。
櫛咲櫛夜の確率制御を認識しているように。
狩野奏音の確率透視を認識しているように。
綾文綾の確率拾芥を認識しているように。
綾文弥々の確率誘導を認識しているように。
織上詩織の運命排斥を認識しているように。
森崎みもりの運命回顧を認識しているように。
秋山千晶の運命媒介を認識しているように。
私の知る世界にも確率に関わる不思議が起きていたよ。
あぁ、こんな言い回しをするとあたかも今回お前が直面している問題が生徒会の面々の誰かが引き起こしていて、かつ今名前が挙がらなかった人間が犯人だと示唆していると思われるかもしれないが他意はない。
聞きたければ光瀬光と侑李友莉に直接尋ねることだな。何か隠している異能はないか、とな。あるいは早くに引退した元生徒会の先輩を伺っても良いかもしれない。
私が得た不思議は、確率転乗だった。
変動と呼んでも差し支えない。
簡単に言えば乗り換えだよ。
私はこのまま乗っていては別の目的地に到着してしまうと考え、それが嫌で違う路線に乗り換えたんだ。
乗り換えた先が、この今。
……いや。
確率という言葉を用いるならそれは転乗だが。
もしも真実という言葉を用いるならそれは。
真実択一。
乗り換えたんじゃなく、唯一つ、たった一つだけを願って、それが叶う世界となるよう真実を一つ、選び取った。
まぁこれはまだもう少しだけ先の話になる。先に玖亜の話をしよう。
玖亜の確率制御の話だ。
玖亜の持っていた確率制御は櫛咲櫛夜の言う確率制御とは違う本物だったよ。
特定の条件下においてジャンケンで勝てる、なんて陳腐なものではない。
なんでもあり、という表現があれほど似合う不思議もない。
確率どころか世界に関わるありとあらゆる事象を玖亜は制御することができた。
ただ一つ、柚亜を救うことだけ、過去に干渉することだけができないこと以外は全能の力だったよ。
玖亜自身がその不思議を嫌悪していたから私はそう思っていても口にはしなかったがな。
だが、それはお前の周りでも概ね同じ事だろう。
真に求める確率を得られることはできない……はずだった。
いや、なに。お前は求める確率を手にしただろう。私も思うところはあれどそうだ。
真に求める形ではなかったかもしれないが、それでも求める世界に辿り着いたのだから信憑性は薄れているな。
柚亜が亡くなる少し前から、玖亜には確率を操る異能が宿った。
本人はそれを、頭で考えるとそれと大体同じ事が現実に起きるという違和感から始まったと言っていた。
ふと朝のテレビ番組の占いを見ると、高い順位だといいなと考える。結果、一位として紹介される。
ふと自動販売機のお釣りを取るときに、誰かの取り忘れ分だけ多くなってやしないかと考える。結果、十円が多く返ってきている。
ふと明日の天気よ晴れになれと願う。結果、蒼く輝く晴天に恵まれる。
ふと公園に立ち寄ってクローバーを手に取り、四つ葉を願う。結果、たまたま手に取った一本が四つ葉である。
ふと妹の死に関わった男が高校進学するという話を聞き、そいつがどんな奴かが気になる。結果、その男は玖亜と同じ学校に入学する。
ふと妹の死を招いた男を近くで観察したいと願った。結果、その男は玖亜と同じクラスになる。
ふと妹を殺した男をいつでも殺せる場所にいたいと願った。結果、その男は必ず、何度席替えしても玖亜の前の席になる。
玖亜は自分自身に宿った、柚亜の死、という拭えない過去以外はなんだってできてしまう自分の能力を呪った。
何でもできるのに、本当にしたいことだけはできない。
何も、できない。
柚亜が亡くなってから一切登校もせず、結局出席日数が足らずに留年した玖亜は、しかし、幸か不幸か柚亜の死の原因を作った男――綾文紀実の高校進学を知る。
知り、柚亜を殺しておいて、何をのうのうと生きているんだ、とまぁ、玖亜は殺意を覚えた。
だから玖亜は、本人の言葉を使うならば、柚亜の敵を取るために綾文紀実を自分の学校へとその異能の力を用いて招き入れ、自分の監視下においた。
無論、私としては面白くないよ。面白くなかった。
まずもって、好きな人の頭の中がその男一色になっているのが気に入らない。
例えそれがネガティブな感情だったとしても、だ。
私がどんなに声をかけても動かなかった玖亜を、殺意一つで動かした事実も気に入らない。
ふん、私の綾文に対する殺意は、それこそどうでもいいことだ。置いておこう。
あぁいや、しかし今のお前も櫛咲櫛夜のことを嫌いな辺り、どうしても憎しみは拭いきれないらしい。
それから、綾文紀実を監視し始めてからの玖亜は表面上、様子が良くなっていったよ。
濁しても仕方がないな。私が認めたくないだけで、表面上と言わず、完全に良くなっていた。
留年したから私たちとは学年が変わってしまったが、私たちとの繋がりが途絶えたわけではないし、玖亜から見て一つ下の中でも友人と呼べる間柄の人間は数名いたようだ。
普通に学校生活に励む優等生で。
普通に恋をする一少女だった。
玖亜の中で何があったのかは私は知らない。
好きや嫌いの反対が無関心であるとか、嫌いであればあるほどそれは好きに近しい感情なのだとか、そうなのかもしれない。
単純に話をする中で好きになるエピソードがあったのかもしれない。
大切なのは玖亜が殺したいとまで願っていたはずの相手、綾文紀実に恋をしたという事実だ。
そして、玖亜の中で殺したいと願う対象が、柚亜を殺した綾文紀実から、柚亜を殺した相手に恋をした自分自身へと変わっていったという事実だ。
言っただろ。私にはわからないよ。
玖亜にしかわからない。いや玖亜にもわからなかったのかもしれない。
どちらにせよ、綾文紀実と関わるにつれて精神的な安定を取り戻したはずの玖亜は、綾文紀実に関われば関わるほどに精神的な安定を失っていった。
あとは簡単だろう。
玖亜は終わりを求めた。
自分自身の矛盾に耐えきれなくなり、自分で自分を終わらせようとした。
未来視なんてなくても私たちにはそれがわかったし、結局は玖亜の死に乗じて生まれた綾文紀実の未来視の力によって確定した。
だが、勿論、私たちは玖亜の死を認めたくなかった。
私たち?
私たちとは、生徒会役員の面々だよ。
宇理に悠、そして私だ。
宇理は狩野宇理。悠は侑李悠。
お前のよく知る、狩野奏音、侑李友莉のことだ……だと思って貰って構わない。
名前が違う、か。
いや、違うのは名前だけじゃないよ。
宇理については確かに宇理にせよ奏音にせよ大きな変化はないが、例えば悠は性別が変化している。元は男だったが、今のお前が知るここでの侑李友莉は女だろう。
一言で言えば私の醜い願いが反映された結果、だな。
もう私の語るべき物語も終盤だからぼかす必要もあるまい。
玖亜の死が確定した未来を、私たちは認めなかった。
私たちは、この世界の理を無視する不思議が、その異能が人の死に反応して生まれ出る可能性が高いことを知っていたから。
だから。
玖亜の死を回避するために。
自分たち全員の死、という現象を故意に起こし、無理矢理に不思議を引き起こすことにした。
方法は簡単だ。
我々人間の体というものは非常に脆い。
包丁の一つで人の数十年に広がる無限の可能性は途絶えてしまう。
元々不運一つで、不幸一つで簡単に消えゆく命だ。
意図して死ねない道理もない。
玖亜が自殺を試みる現場に私たちは立ち会い、玖亜が死ぬ前に自分たちの命を絶とうとした。
あぁ、包丁で刺したんだ。
最初は綾文紀実。
次に侑李悠。
そして狩野宇理。
三人と、まさに自殺しようとしていた玖亜の死を前にすれば何かしら状況を打破できる力が宿ると考えたんだ。
私か?
私は、最後にこの不思議を手にして世界を、いや、玖亜を救う役割だったんだ。
だから私だけは痛みを知らない。
だから私は、自分で死ぬのが怖い、と、そう言った、綾文紀実を、侑李悠を、狩野宇理を、この手で刺した。死は、どうだろうな。死という現象が過去になってしまえば助けることは不可能だと思っていたから、三人が死ぬ前に能力が発現すると思っていたが、実際のところはわからない。
同意の上……あぁ、同意の上だった。
全員がその結論に納得したんだ。
意味がわからないだろう。気味が悪いだろう。
だが事実、私たちはそれこそがたった一つの正解であると信じて疑わず、決行した。
玖亜を救うため。
玖亜が死なない世界を生み出すため。
私は全員の善意を利用して、ただそれだけを求めた。
その結果が……この今だよ。
私は玖亜の死なない世界を創り出した。
だが玖亜が死ぬ運命とやらは私が思うよりもずっと強く定められたもので、私のいる世界そのままでは到底叶えることができなかった。
だから私に宿った不思議の異能は、世界を一から創造し、私の願いのままに書き換えるというものだった。
私はこの力が宿った瞬間に悟ったよ。一度も使ったことのない、突然私の内側から溢れ出したこの力の使い方、意味、そして使用後の世界がどうなってしまうのか。
私の理想ばかりが反映されて、私の異常性が余すことなく顕れて、私の罪が残る、偽物ばかりの心象世界。
心象だ。
真実なんか程遠い。
心、など。この世で最も信用ならないものの一つだな。
私はそうと知りながら、この世界を受け容れた。
自分自身の罪を知りながらこの世界を許した。
そうしなければ、玖亜に生きていてもらえなかったから。
万能なんかじゃないさ。
私の願いのままに、と言ったが私の思いのままに世界を書き換えたわけじゃない。
私が心の奥底で願っていることが勝手に反映されている世界だ。そして心の奥底で願う私と、その願いが絶対に叶わないと知っている理性ある私とが曖昧にあやふやに混じり合ったのがこの世界だ。
だから一緒にいたいと当然願うはずの櫛咲玖亜はこの場所にはいない。
だから一緒にいたいと当然願うはずの櫛咲玖亜の一部は私の手の届く距離にいる。
だからあの時の玖亜の気持ちが知りたくて私は玖亜の一部よりも一学年下に在籍している。
だから玖亜と綾文紀実は絶対に恋仲にはならない。
だから玖亜と綾文紀実は形は恋人には成り得なくとも絶対に一緒にいられる間柄になっている。
だから玖亜の一部と綾文紀実は恋人関係になり、そして私の手で引き裂かれる。
私が玖亜を好きだったから、同じように玖亜を好きだった、私よりもよほど想いが通じ合う可能性の高い悠の性別は男から女へと変わる。
全部が想定内だと、私の願いに準じた変化というわけではないよ。お前らの行動が、感情の揺れ動きが全て偽物だと言っているわけではない。
当然だろう。何をどう間違えれば玖亜を好きだったはずの元男である悠が、私の感覚で言うのも悲しいが同性である櫛咲櫛夜に恋をするというのだ。
いいか。
理解したか。
思い出したか。
だから本物の櫛咲玖亜は高校を卒業した私から距離のある人物として定義された。
だから綾文紀実は絶対に櫛咲玖亜と恋愛関係に陥らないが、家族として共に過ごすことが出来る、玖亜の弟、櫛咲櫛夜として定義された。
だから櫛咲玖亜はそれでもと櫛咲櫛夜と恋仲になる存在として、綾文綾として定義された。
私は留年し、一つ下の学年で過ごした玖亜の気持ちが知りたかった。だから私は綾文綾の後輩として定義された。
私は語気が強かったから、それも薄め弱めて、優しく大人しい夢叶優芽として、だ。
私が後輩として定義されたからそれに合わせて狩野宇理も侑李悠も綾文綾の後輩として定義された。
侑李悠は私もよく知る優しく強い男だったから、万が一にも玖亜と恋仲になるようなことを私は嫌がった。だから悠は男として定義された。
どうだ。
もう一度問うぞ。
思い出したか。
夢叶萌映がどれだけ狡猾で臆病な人間だったか。
夢叶優芽が、そんな奴から生まれた化け物であることを。
いいか……元の世界、本物の世界を知らないままに、今のお前の世界を。
人間関係を。
容易く本物と呼ぶのはお前の罪だ。
無知は罪だ。
知ろうとしないことは罪だ。
無知である事実を知らなかったとしても罪だ。
ここは私の心象を映しているから、私の知らないことであっても、私の感情にあればそれが本物として登場してしまう。
罪だ。
無知は罪だ。
罪だ。
無知は罪だ。
何度でも言う。
罪なんだよ。
無知は罪なんだ。
例えば……心の底から生きていて欲しいと願う少女がいたとする。
その少女のことを知っているならば、知っているなりのポジションに収めてしまえる。
私は玖亜のことをよく知っていたから、世界を乗り換えた時にも私の知る玖亜のままでよかった。そのまま玖亜は櫛咲玖亜となった。
宇理もそう。よく知っているから大きく変わらなかった。変える必要がなかった。変わらないまま狩野奏音となった。
悠もそう。私自身のエゴから性別は変わったのかもしれないが、性格は変わっていない。変える必要がなかった。変わらないまま侑李友莉となった。
それでも宇理と悠はこの高校で一緒に過ごすから。
私は私じゃなくて夢叶優芽になってしまったけれど。
だからこそ私じゃない私がそのままの宇理と悠に親友などと呼ばれるのは見たくなかった。
だから名前を変えた。実に私らしい目の背け方だ。
さらに例えば……心の底から生きていて欲しいと願う少女がいたとする。
けれど、私はその少女のことをよく知らない。
よく知らないから、私は適当にしか個性の設定を与えることができない。
本物に近いかどうかも判断できない。
似せる気もない。
知っていることは、一回二回会った時に受けた明るい印象。
知っていることは、その少女が櫛咲玖亜の妹であること。
願ったことは、その少女が笑顔で過ごせる日々。
無知は罪だ。
私の罪は知りもしない少女を想像で創造したこと。
お前の罪は、想像で創造した少女に役割を与えたこと。
死者に命を与える神様気取り。
有り得るはずのない役割を与える神様気取り。
私は死んだはずの櫛咲柚亜に命を与えた。
私は存在しないはずの櫛咲柚亜に絶対になってはいけない役割を与えた。
名は――綾文弥々。
私は玖亜の一部である綾文綾に、せめてと願い。
私は櫛咲柚亜擬きを自分勝手に創り。
私は櫛咲玖亜の、否、綾文綾の妹という本来の役割を与え。
お前は櫛咲玖亜と綾文紀実の恋愛、この世界における綾文綾と櫛咲櫛夜の恋愛を心の底から嫌悪し。
お前は二人の恋愛の破綻を自分勝手に画策し。
お前は綾文弥々に、櫛咲櫛夜の恋人という紛い物の役割を与えた。
無知は罪だ。
お前の目の前にいる可愛い後輩は。
本物の櫛咲柚亜の性格も趣味も趣向も得意不得意も何も知らない私が勝手にその人格を。
こうあればいい、と設定し。
玖亜と綾文紀実の恋愛が偽物だとしても上手くいくことを嫌ったお前が勝手にその役割を。
こうあればいい、と設定した。
無知は罪だ。
綾文弥々は妄想で創り出した、櫛咲柚亜の偽物で。
お前と私の罪そのものだ』
優芽は弥々の目を見た。
優芽が見たのか萌映が見たのかは、もはや優芽自身にもわからなかった。
萌映の物語、その最後の一節が優芽の口から発せられる。
優芽と萌映は結局同一人物だったから、今から萌映が、夢叶優芽が何を言うのかも正確に把握することができた。
(あぁそうだ、ちゃんと)
「私の罪は、弥々ちゃん。あなたに役割を与えたこと。櫛咲櫛夜の恋人で……それは、その役割はね」
(ちゃんと、言葉にしなくちゃいけない)
「綾文綾さんの恋を邪魔できたら、誰でもよかったんだ」
夢叶優芽の物語はこうして、「誰でもよかった」ことに気付いたことから始まった。