過ち
夢叶優芽にとって、同級生との恋愛話ほど居心地の悪い時間はない。
好きな人がいる。
顔がいい。
性格がいい。
運動ができる。
ふとした拍子に見せた仕草にときめいた。
わかるような、わからないような。
羨ましいような、羨ましくないような。
優芽は人に恋する周囲に対して、ある種の尊敬の念を抱いていた。
人を好きになることはつまり、形の違いはあれど、両想いになりたいという感情の動きであり。
信じ信じられる関係を築きたいという願いであり。
そもそも自分のことが嫌いで仕方がない優芽は、自分のその傲慢さに耐えられない。
自分自身で嫌う夢叶優芽という存在を、赤の他人であるはずの誰かに好きになってもらいたいだなんて。
なんて自分は卑しいのだろう。
その思考回路から先に進むことができない。
いつか、自分の心の全てを曝け出して、それでも一緒にいたいと思える相手が、そう思ってくれる相手が現れるのだろうか。
その「いつか」を期待することがまた、不気味な自分へと一歩近づいていないだろうか。
だがしかし。
永遠に繰り返す問いに終わりが来たのは高校生活が始まってすぐのことだった。
優芽が入学したのは地域でも進学校と名高い幸魂高校。変な名前だとは思いつつもその由来について調べることはなく、自分の成績に見合った、正しく努力をしなければ入れないレベルであるとして第一志望にした高校だ。
なにより、変われなかった中学時代の同級生がほとんどいないことが嬉しい。
人付き合いがあまり得意でない優芽にも小学校の六年間、中学の三年間で友人と呼べるような仲の人間が数人いるにはいるのだが、どうも依存しすぎてしまう。よくないと頭では理解できていても友人と一緒にいればいるほど、友人がいなければ何もできない自分が浮き彫りになる。
それは、辛い。
友人が沢山欲しいわけではない。苦手なりに狭い人間関係をしっかり築ければ何も問題はないと思う。
けれど、依存したくない。自分が依存することで、相手から距離を置かれてしまうことが怖い。
どこまでも自分の保身だけを考える優芽はそうなるより前に、自分から正当な理由をつけて離れていってしまうのだ。
習い事を始める。
毎日決められた時間には勉強する。
進学校に通う。
委員会に入る。
いかにもそれらしい理由をつけて人から距離を取る。距離があればナイフで傷は付けられない。自分は自分のまま、安全でいられる。
そんな優芽はしかし、彼女――綾文綾に出会ってしまう。
四月から一ヶ月ほど、各部活動には仮入部期間が設けられており、新入生は皆様々な部活動を見て回っている。
中学では漫画研究部と図書委員に所属していた優芽は高校でもひっそりと本か漫画に関われる活動をしようかと考えていたのだが、当時二年生で生徒会広報を務めていた綾が教室へと勧誘に来たのだ。
とはいえ綾が急に縁も所縁もない優芽の勧誘に来たわけではない。
元々幸魂高校では生徒会という存在が大きくあり、文化祭や体育祭、卒業式など多くの行事において教師以上に中心となり企画、運営を行っている。生徒ながら持つ責任も大きく、そのためクラスに何人という設定はなく、やる気のある生徒であれば誰でも立候補して生徒会に加入できる。
少数精鋭で構成される生徒会は、しかし毎年毎年十分な人数が確保できるともわからないので、生徒会メンバーは新入生の勧誘に足を運ぶことが他の部活動同様この四月には多い。
綾も勧誘活動の一環として優芽の教室を訪れ、全体に対して生徒会活動の内容を説明していた。
「生徒会は高尚なものではありません。皆と一緒に、皆と過ごす毎日を楽しくしたいんです」
そう語る綾の姿は堂々としており、また、本気で楽しそうであった。
女性ながら格好いいと言われることの多い綾の話に男性陣が聞き入る中、優芽は全くの正反対、敵意か憎悪か羨望か、とにかくよくわからないままの嫌な感情を抱いていた。
先輩は自分に自信があって能力もあるからなんだってできるんだよ、と内心で思ったことを優芽は今でも覚えている。そしてその感想自体に変化はそれほどない。ないが、今であれば綾が誰より努力していることを知っているし、誰より努力を隠していることも知っている。
綾の内面を全く知らないその頃の優芽が瞬間的に抱いた嫌悪感に気付き、個人的に話しかけてきたのは綾が教室を訪れた翌日の朝。
普段から朝のホームルームが始まる時間の三十分は早くに登校している優芽はいつも通りに席につき、一人授業の予習をしていた。そこに綾は現れ、優芽の席の前に立ち、言い放つ。
「全てが面白くなさそうね」
この短い言葉を理解するのに数秒も要らなかった。
優芽は醜い自分の全てが目の前の先輩に見透かされているようで、惨めでちっぽけな自分自身と、全部がわかっているような口振りの綾の双方に対して激昂した。
「先輩に、何がわかるんですかっ!」
人と喋ることが苦手で大きな声を出すことなど一切ない優芽は、はち切れんばかりに悲鳴を上げた。それでも教室全体が精一杯、程度だったことに優芽自身は気付かない。ついでにクラスメイト二人ほどが教室内にいることも頭の中からすっかり抜け落ちてしまう。
「一年生の教室は半分回ったわ。興味がなさそうな人はたくさんいたけれど、積極的に嫌そうな感情を向けてきたのは二人だけ。櫛咲くんとあなた、夢叶さんだけ」
入学したばかりで同じクラスの人すら名前を覚えられていないので、別のクラスの人の名前を挙げられてもわからない。その櫛咲くんとやらがどんな顔をしていたのか想像もつかない。
「雰囲気と名前ですぐわかりそうなものなのにね」
「……あの」
「ごめんなさい、夢叶さんの話だったわね。きっとあなたは今、『嫌そうな顔をしていたのであればどうしてこの先輩は自分の所に来たのだろう』って思っているんじゃないかしら」
またしても図星。
肯定するのも癪なので、黙ってその先を待つ。
心なしか、ではなく、まず間違いなく綾が楽しそうにしていることにも腹が立つ。
人のコンプレックスを抉って何が楽しいのだろう。
「大した理由じゃないわよ。こう、初対面の場では好意より悪意の方が信じられるってくらい」
綾から出てきた言葉は、想像よりも優芽の価値観に近いものだった。それとも、狙って捻れた風を装っているのだろうか。
「私はただ生徒会の話をしただけよ。特に六月、三年生にとっては最後の行事になる体育祭があるからすぐにでも楽しさがわかるって」
そんなことは言われなくてもわかっている。
進学校である幸魂高校では秋頃に行われる文化祭に、三年生の参加が原則的に認められていない。息抜き自体は必要であろうが、大学受験に向けての大事な時に文化祭に携わってしまう時間のロスはさすがに大きすぎるというのが学校側の見解らしい。高校受験を終えたばかりの優芽に大学受験の厳しさはわからないものの、特段間違っているようには思えない。
その幸魂高校において三年生が最後に楽しむことのできるイベントというのが、六月の頭にある体育祭である。梅雨に近い時期にどうして体育祭があるのだろうと疑問に思う生徒も多いが、四月に大体の人間関係に慣れてきた一年生もその準備を通じてより一層親しくなれる意味合いもあり、悪くはないタイミングに開催される。
確かに綾は教室で、そんなことをあれこれと話していたはずだ。
「生徒会の機能、楽しさ、勿論辛さも。加えて行事に教師との関係も。私の所見を混ぜつつ基本は事実を話しただけ」
「それ、が」
それがどうした。
わかってる。
わかってる。
全部わかってる。
「羨ましい? それともくだらない? あるいは優等生ぶってる私個人が気持ち悪い? どれでもいいわ、全部でも構わない」
全部わかっていて、全部わかられている。
羨ましい?
当たり前だ。羨ましくないわけがない。
できることなら自分だって学年の中心に立ってイベントを動かしてみたい。
くだらない?
当たり前だ。くだらないと思わないわけがない。
自分が一切楽しむことができないイベントになんの意味があるのかわからない。
気持ち悪い?
当たり前だ。気持ち悪くないわけがない。
優等生ぶって、本心かどうかもわからない嘘偽りを並べ立てて不気味だ。本心なのであればより気味が悪い。
「できるわよ、夢叶さんにも。いえ、夢叶さんだからできるわよ」
肯定される。
肯定されると……どうすればいいのかわからない。
褒められることはあっても肯定はされたことがないからだ。
優芽は返す言葉に困る。
一体、一体この綾文綾という先輩はどこまでわかって話をしているのだろう。
どうして自分の心を全て言い当ててくるのだろう。
どうして。
「どうして……私の欲しい、言葉を、言えるんですか……?」
誰かに認められたかった。
誰かに欲して欲しかった。
自分が嫌いな自分を、それでいいのだと言って欲しかった。
優芽の疑問に対して、綾は顔を赤らめた。「恥ずかしいから他の人にはあまり言わないでよ」と言いたげな表情。少しだけ間を置いて、出された答えはやはりシンプル。
「私が欲しい言葉だから」
あぁ、なるほど。
優芽のことが全部わかるのではなく。
綾は綾自身のことが全部わかっているだけなのか。
けれど、だから自分と同じ人が、わかる。
必死に仮想で理想の自分を作り上げて、皆に認められるように頑張る。頑張り続けるしか、自分が本当に求めている答えに辿り着かないから。
ならば、頑張ってこなかった自分はどうなのだろう。
今からでも、頑張れるのだろうか。
「一歩は一歩、小さいわよ。踏み出して世界が変わったら苦労しない。だから一緒に進みましょうとは言えない。私はたぶんもがいてるだけで、一緒にもがいてみない、って誘うことしかできない」
「もがく、ですか」
「例えばさっき言った二人の内、櫛咲くんではなくて夢叶さんの下へ来るくらいには臆病。六月の体育祭で生徒会長を引き継ぐ予定だけれど、そんな肩書き、なければないほど気楽でいいのにって思っちゃう」
男の子より女の子と話すほうが楽という意味だろうか。それを臆病だとは思わないが、だが優芽とて同じ感覚がある。異性というのは距離感がわからない。
「でもやるべきことは日々増えていくのだから、やるしかない。自分のキャパシティを平気で超えてくる世界に対してもがいてみせて、こんな世界と私を作ったらしい神様に馬鹿って怒ってるの」
「あの、わ、私」
「うん。なぁに?」
思わず声が出てしまった優芽を、綾は急かさない。
声が出ても言葉にならない状態を、それこそ誰よりも理解しているかのように。
「私、私は」
どんな言葉でも、きっとこの人は受け入れてくれる。
何故かそれだけは信じることができた。
だから、言うべき言葉は、きちんと出てきてくれた。
「私は、先輩のこと、嫌いです」
「そう。それは残念」
酷いことをはっきりと言われておきながら、実に楽しそうに嬉しそうに残念と話す綾。だから嫌いだ。
同じことを考えていても、やっぱり元々のスペックが違えば何もかもが違ってきてしまう。
可愛くて格好良くて人前で堂々と出来て、それでいて何もできない感情を理解できるだなんて。そんな人に本当の意味でわかるわけがない、そんな人にわかられたくない。
「だから、その、あ、あの」
「うん」
「わ、たし……入ります、生徒会、に……」
意外、ではなかった。
もう既に、夢叶優芽は綾文綾の言葉に納得してしまった。
できるはずがない自分と、できるはずだと語る綾。
戦うなら、選択肢は一つしかない。
「私には……無理、だと、思いますから」
「そう。嫌いだから入る、悪くないんじゃないかしら」
そんな朝のやりとりを経て。
優芽は自分の価値観の正しさを証明するために。
あるいは。
自分がこうなりたいという姿を実現するために。
後ろ向きな理由で生徒会へと立候補した。
生徒会役員になってから、どれくらいが経った頃だろうか。
あるいは嫌いだと宣言した時からずっとそうなのかもしれない。
結局、嫌いと好きはほとんど等価で、自分にはできないものを持っている綾が羨ましくて仕方がない事実は覆らず、自分にはできないのではないかと思う気持ちと、自分にもできるのではないかと思う気持ちとが戦い続けて、戦い続けている時点で答えは出きっていたとも言える。
どんな時でも、その視界の内に綾を捉えると、必ずその一挙手一投足を追ってしまう自分がいた。
優芽は初めその自分の変化を変化であるとは思わなかった。嫌いな人の姿を見るのは当然であると信じて疑わなかった。
これ、というきっかけがあったわけでは、なかった。
見れば常に綾文綾は完璧だった。
瞳に映る綾は光を放ち、その光で周囲を照らしてくれていた。
いつだって信じて「優芽ちゃん」と名前を呼んでくれた。それこそ、一体いつから下の名前で呼ばれるようになったのか覚えていない。
何故だろう。綾に名前で呼ばれると、自分がちゃんとここに存在していて、存在していることを求められている気がする。
何故だろう。綾と目が合わないだろうか、綾に名前を呼ばれないだろうか、自分がここにいる証明をしてはくれないだろうかと思考する自分がいる。
何故だろう。一日の始まりから終わりまで、綾のことを考えない時間が日に日に減っていく。いつだって綾の姿が脳裏に焼きついて離れない。
何故だろう。無理だと思った自分の姿に、綾が確かに連れて行ってくれる気がする。
何故だろう。
何故。何故。何故。
「綾文……会長」
どうして自分は彼女の名前を無性に呼びたくなるのだろう。
「あら優芽ちゃん。どうしかした?」
こんなにも嫌いで。
こんなにも憎い。
「綾文会長には、好きな人とか、嫌いな人とか、いますか?」
こんなにも嫌いで。
こんなにも好きだ。
「難しい質問ね。そりゃあ苦手な人はいるし、友人は皆好きよ」
「わ、私……私、今、綾文会長のこと、き、嫌いじゃ、ないです」
「そう。そっか。そっかぁ……ふふ、ありがとう優芽ちゃん。すごく嬉しい」
「変われるのかは、まだ、よく、わかりません」
「変わったわよ、もうとっくに。気付いてるでしょ」
こんなにも好きで。
こんなにも好きだ。
「綾文会長が、好きには、なりました」
「そのことを自分から発信してくれるようになったじゃない。待つだけじゃない、遠くから嫌うだけじゃない、あなたが決めてあなたが進んであなたが発した言葉がこうして、ここにある」
「……はい!」
こんなにも好きだから。
いつだって、自分だけを見てくれればいいのに。
いつまでも、完璧なままでいてくれたらいいのに。
そのためならなんだってするのに。
どうして純白はいつか汚れてしまうのだろう。別の色が付着してしまうのだろう。
「とはいえ、そうね、質問には答えておきましょうか。そういう意味で好きな人はいるの。全然気付いてくれないんだけど……あ、これ優芽ちゃん以外に話したことないんだから内緒よ?」
どうして綾文綾と恋愛が結びついてしまうのだろう。
自分を好きになってもらいたいというエゴを、卑しい人の本能を。
綾文綾が持つべきではないのに。
どうして。
どうして…………
本当はわかっていたはずだ。
心のどこかでずっと待っていた。
助けを求めなくても助けてくれる誰かが欲しかった。
その誰かに依存していたいだけだった。
それがたまたま綾だった。
それだけ。
綾は完璧でも完全でもなくただの少女で、ただの優秀な先輩でしかなかったのに。
夢叶優芽の間違いはまさしく、「誰でもよかった」ことに気付けなかったことから始まった。