石の旅
寝転がった。晴れていたが、小さな雲が真上を過ぎた太陽にかかり、目蓋さえ閉じれば光はうやむやになった。河川敷沿いの道は車もあまり来ない。大きい通りがその向こうにあり、大抵の車はそっちを通るのだ。エンジンの喧しい音さえも遠いとなると、もう自分自身すら希薄になった。眠りに落ちる兆候だとわかっていたが、抗う気もなかった。名も知らない雑草が風にさわさわとそよぐ。間延びしてくる。
目が覚めた。目蓋は閉じたままだが、太陽は明らかに力をなくしていた。足音。近づいてきていた。
「翔。おい、翔」
頭上から将文の声がした。目を開けた。六人。将文とその取り巻きで四人、あとの二人は弱々しくこちらを睨んでいる。五対二と思っているのかもしれない。本当は一対二だ、などと言ってもしょうがなかった。将文の集団が、近隣の同年代から高山翔大の一派と見られていることに気付いたのは一年前である。
中学生がなにを、と思っていたのは俺だけで、周囲はもとより時には将文自身がナンバーツーらしいことを仄めかしている。
「昨日の勢いはどうした。高山には絶対勝てる、と粋がってたろうが」
将文の取り巻きが言った。それで、大体の事情が俺にも呑み込めた。つまり、一番ありきたりなやつだ。
「五人なんて聞いてねぇよ。汚ねぇよ」
「馬鹿言うな、こっちは翔だけだ。そっちこそ、何人も声掛けたんだろ。全部知ってるぜ」
「あいつら、クソだ。ビビりばっかだ」
「心配すんな。ちゃんとタイマンだよ」
将文の言葉で、一人が息を吐いた。巻き込まれるかもしれないと不安だったのだろう。
「なんなら、一対二でもいいだろ?翔」
頷いた。すでに腰が引けている人間が一人加わったところで、何の意味もない。勝ちに乗じない限りなにもできないという不良は、少なくなかった。
「そんな、せこいことはしねぇよ。というか、なんか、あんまり気分じゃなくなってきたっつうか」
「いまさらなんだ」
「やるよ。やるけどよ、なんか、変じゃねぇか。一対一なのに、四人いるし、こっちも一人いるし。もっとちゃんとさ」
俺は躰を起こした。俯き気味に喋っていた男が弾かれたように顔をあげる。気にせず、立ち上がった。身長は百八十あり、体重は九十を優に越えていた。百六十あるかないかの男は、目に見えて怯えだした。
「待ってくれよ」
「いつまでだよ。さっさと終わらそうぜ」
俺はなにも言わなかった。もう、将文は最後まで筋書きをつけている。はやく終わればいいと思った。ちょっと頭をさげるか、思い切って走り去るか。どうせそんなところだろう。
しばらくして、男が詫びを始めた。なにも考えずに頷いた。なにかの拍子で盛り上がって、高山翔大に勝てる、と不良仲間に言ってしまった。周りに流されてここまで来たけれど本当はしたくない。勝てないとも思ってる。そんな内容のことを途切れ途切れに語っていた。俺はもう一度頷いた。将文がもう一人の方にもなにか言っている。それで全てが終わりだった。
解散した時には、すっかり暗くなっていた。将文が横に並んでくる。俺は少し歩調を緩めた。将文には歩きながら考える癖があり、その歩みはいささか遅い。
付き合いは長かった。きっかけすらももう思い出せず、俺にとってはただ当たり前の存在になっている。将文の方がきっかけを覚えているかはわからなかった。いまさら理由を言い合ったり、思い出話をしたりする間柄でもない。
「どうも、けしかけてるやつがいるような気がするよ、翔」
将文が呟いた。どうでもいいことだった。勝つ限り、どこかにそういう面倒はついてまわるだろう。
土手の道は街灯がぽつりぽつりとあるだけで、横にいる人間より遠くの街の方が細やかに見えそうな気さえした。将文は足下を睨み付けている。
「明日は学校来いよな。高山翔大に会いたいって新入生、結構いるんだぜ」
「そうかよ」
「知ってる顔もいる。同じ小学校だったやつなんだけど」
「覚えてないな」
「向こうは覚えてるし、最近のお前も知ってる。まあ、荒川中学の高山を知らないってのもこの辺の学生じゃそうはいないだろうけどな」
ゴールデンウィークを越えた新入生たちはつまらないことを気にし始めたらしい。会ってなにをしたいのか、見当もつかなかった。将文が考えているだろうことは、多少の予想がつく。
「最近、おばさんに会ってないなぁ」
「いないさ」
「美人だもんな、おばさん」
顔の造りは悪くないと、息子である俺でも思う。しかし、もう四十になろうとしていた。夜の街というのは、もっと若々しく華やかな女性たちがたくさんいるのだろう。そんな場所で母がどう働いているのか、考えないようにしていた。父が他界してから、たった二人きりの家族だ。
「今度の休み、遊びに行っていいか?昼はおばさんもいるんだろう?」
「助かる」
将文は笑っていた。こういう気遣いを、昔からよくしてくる。口の上手くない俺は、いつも短い言葉を返すだけだった。
ふと、今日は返せるものがもうひとつある、と思った。
「明日の一限ってなんだ?」
将文がまた笑った。今度は苦笑したようだ。
「筆箱だけでいい。お前の教科書、知り合いに頼んで全部サッカー部の部室に置かせてもらってるんだぞ」
◇
三日間で、会いたいという連中にはほぼ会った。
激励のような言葉をかけてくるやつもいれば、腕相撲をしようというやつもいた。言葉には頷き、腕相撲はすべて一瞬でなぎ倒した。負けた連中は手の甲をさすりながら、それでも笑みを浮かべていた。
なにがしたいのかと、訊ねてみたかった。困ったような顔になり、見かねた将文が助け舟を出す。そうなるだろうことはわかっていたが、それでも訊いてみたかった。
「もう二、三人だからさ。付き合ってくれな、翔」
実際に訊くまでもなく、取り直すように将文が言った。二限終わりの休み時間。一年生の学級が並ぶ二階は、奇声のようなものも飛び交っている。
大勢と一斉に会うことはなかった。一人から多くて三人。差配したのは将文だから、きっと意味はあるのだろう。将文にとっての意味だ。
視線を感じた。生徒指導の教員が、階段の辺りから様子を窺っている。当たり前のことで、できるだけ気にしないようにしていた。
「何人かは覚えたか?」
「鈴木、田中、佐藤」
「覚えてないってことだな」
「最初が平野だった」
「まあいいか、それで」
三組の入口で足を止めた。将文が手を挙げる。将文に気付いたらしい生徒の一人が、遠回りして教室の後ろの方を通って出てきた。黒板にはまだ板書が残っていて、幾人かはノートに書き写しているようだ。
「沢村ってやつだよ。沢村、こいつが高山だ。多分知ってるだろうが」
「どうも、沢村といいます。噂は聞いてます」
俺は軽く頷いた。目礼して、沢村は将文とも挨拶を交わした。
変わったやつだ。第一印象はそれだった。平凡で善良な学生にしか見えなかったのである。そして、平凡で善良な学生の大半は、俺のような人種と関わりたがらない。
上背はあったが、線が細く、猫背だった。目元は穏やかで、服装にも着崩したところはない。そして、黒板を避けるような配慮をする。
「荒川小だ。後輩だぜ、翔」
「ひとつ上に凄い二人がいるってよく言ってました」
「そうか、小学校の」
「高山さん派と秋山さん派がありました。秋山さん自身が高山さん派筆頭みたいなものでしたけど」
将文は特になにも反応しなかった。小学校の頃の将文にそういう傾向があったのか、よくわからない。余人はともかく、二人の間では今も当然対等なのだ。
「派閥とか、そういうのは俺は知らない」
「そうだろうと思ってました。高山さんは、そうだろうって」
「先輩って言えよ沢村。俺も翔も、それぞれ先輩だ」
「高山先輩はすごかった」
将文が押され気味なのがなんとなく伝わってきた。およそ珍しいことといっていい。ちょっと愉快になって、俺は沢村に言った。
「言いたいことがありそうだな、沢村」
「怒られるかもと思ってます」
「おい沢村」
「いいよ。怒ってやるから言ってみろ」
「高山先輩は、どうやって人を殴れるようになったんですか?」
意外なことを言われた。喧騒がわずかに遠くなる。少し考えたが、上手く言葉にならなかった。
「よくわからんよ沢村。訊かれたことが、よくわからん」
「とても頭にきてるのに拳が出せない、ってことあると思うんです」
一般論として、という物言いだったが、実感のような響きがあった。
「殴ろう、殴ろうと思ってるのに躰がうまく動かない。そんなことがあるんじゃないかと」
「お前、場数が違うよそりゃ。いまさら翔にそんなことがあるかよ」
「高山先輩はそうですよね、今の高山先輩は」
「今のって、沢村お前な」
「でも、最初ってあるじゃないですか」
「それは」
「なかったよ」
言っていた。将文はちょっとうつむき、それから横を向いた。最近はそうでもないが、喧嘩っぷりを誇っていたこともあったのだ。漠然とではあるが、そういう将文にとっては嫌な昔話なのだろうと思って、俺もこの話は避けている。
「初めて喧嘩した時から、人は殴れた。疑問も持たなかった、と思う」
「そんな。棒倒しって訳にはいかないですよね?」
「その時の俺には棒倒しだったかもな」
「そうですか」
「悪い」
「いや、やっぱりすごい」
きっかけのようなものを欲しがっている。それはわかったが、やはり言えることではなかった。成り行きでそうなった。将文でなければ。将文であっても、一対一だったなら。そう考えてみても意味はなかった。やってしまったことだ。
「しかし、思い切ったことを訊くじゃないかよ沢村」
「そうでしたか?」
「翔だからいいけどな。初喧嘩は敗けってやつ、意外といるぜ」
沢村はきょとんとして、それから手を打って破顔した。
「考えてませんでした。そっか、そういうこともありますよね」
「これだよ、まったく」
「ない、と信じてたんですよ。なにせ、小学校からの高山さん派ですから」
「よし、その喧嘩買ったぞ沢村」
沢村が駆けだしていく。将文がその後を追っていった。将文の祖父母が沢村という姓だったと、俺はようやく思い出した。親戚筋だろうと挨拶の時には上下をはっきりさせる。奇妙なところで格式ばった遠慮をするのが、将文らしいといえばらしいやり方だった。
授業が進み、給食を食べ、また授業だった。俺は出来る限りをノートに取り、課された小テストにも真剣に回答した。半分程度の正答だろうが、それでも教師は驚いたよう顔をした。将文はもっと点を取っているだろう。俺が参加している時の授業では将文は模範的だったが、教師の表情を見るに普段はそうでもないらしかった。多分、将文の取り巻きたちもそうなのだろう。
教師の俺を見る視線が、だんだんと変わってきた。クラスメイトたちもだ。ありもしないものを見ている、と思ったが、態度には出さなかった。将文がそうしたいのであれば、そうすればいい。合わせることもないが、わざわざ壊すこともないだろう。
「高山、もうちょっと登校できないか?」
終業後に、世間話という感じで担任が言った。どこか、慮るような風さえある。
「わかりません」
「そうか」
「すみません」
「いや、いいんだ。高山が来てくれると引き締まるというか、連中の姿勢も変わってくるからな。だから助かるんだが、無理にとはな」
無理などどこにもなかった。欠席した日の大半は、河川敷で空を眺めているだけだ。気をつけて帰れな、とだけ言って担任の背は廊下を遠ざかっていった。俺はちょっと頭を下げて、それから靴箱へ向けて歩きだした。コンビニへ寄って、惣菜を買わなければならない。出勤前に作ってくれた味噌汁と米に、コンビニの惣菜。それで、いつもの夕食だった。
◇
前日の雨で、すべてがぬかるんでいた。立ち上る薫りは悪くなかったが、横になろうとは思えなかった。スニーカーの下で雑草と露と土が一体に擦れて、転がり落ちる軽石とともにかすかな音をたてた。こういうとき、希薄になるような眠りは望めないだろう。
土手を進み、橋のところで街中の方へ曲がった。なにか当てがあるわけではない。俺の家は橋を渡ってしばらく行ったところで、つまり普段と違う場所へ行ってみようとしただけだ。
「高山だ、マジでいたぞ」
「俊樹の言った通りだったな。喧嘩もしないで逃げてきたときはどうしてやろうかと思ったが」
「詫びまで入れたっていうんだからな。まあ、チャラとはいかないがちょっと苛めるだけで済ますか」
「メシぐらいだろ」
「奢りでな」
男が三人、こちらを指しながら駆けよってきて、よくわからないことを言い始めた。名前が聞こえたから、多分俺に用があるのだろう。
中学生ではなかった。真ん中の男は猪首で耳が潰れていて、風体は高校の柔道部というところだ。実際は部活動に所属していないだろう、とも思った。胸ポケットの膨らみは、恐らく煙草だ。
「悪いんだけどよ、ちょっとツラ貸してくんねぇか。時間は取らせねぇからよ」
猪首の男が言った。濁声だ。恰幅も良く、老けたら一角の人物のようになるかもしれない。
「淳くん、彼女待たせてるからさ。な?」
「バカ、いいんだよそういうことは」
「一時からデートだろ?もう二十分もないよ」
「充分だよ、充分」
「ま、そうだろうなぁ」
男たちは勝手に盛り上がっていった。淳と呼ばれた猪首の男を、残りの二人がおだてあげている。よくあることだった。集団の中で多数派になった方は、なぜか内輪ノリを押し出してくるものだ。猪首の男が殿様のように振る舞うのが、彼らの内輪ノリなのだろう。
俺は背を向けて、土手を下って行った。三人はなにか喚いたが、向かう先が橋の下だと知ると、にんまりとして着いてきた。ツタの絡みついた金網に囲われてる場所があり、そこは外からは見え辛い。人通りの少なさを考えればそれで充分だった。
向き直ると、相対するように猪首の男が前に出た。
「お前と秋山ってのがくだらないことしてるらしいじゃねぇか」
男の声が低くなった。濁声でそうされると、それなりに迫力があった。
「あんまり、うるさくしたくねぇけどよ。しかし後輩がやられたとなっちゃ、流石に黙ってられねぇ。中学生同士、一対一ならまだいいが、五人も連れてたって言うじゃねえか。それで脅して詫びさせるってのは下衆のすることだぜ」
俺は川を見ていた。自分一人以外の喧嘩などしたことがない。そう言ってみても意味はないだろう。客観的に見れば高山翔大は秋山将文とその取り巻きを連れている男だということを否定できない。いつのまにか、そうなっていた。
沢村の言っていたことを思い出した。色々と理由が付いているが、ここで行われていることはいわゆる派閥争いだ。そしてその派閥の一方は、自分を大将とした高山派だった。錯覚のようなものだと思っていたが、将文は実体を見事に作り上げ、流されるままに俺はそこに座った。
「だんまりってことはないだろう。おい、何か言えよ高山」
将文はなにをしたいのだろう。そこで、俺はなにをしたらいいのだろう。たまに、そんなことを考えるようになっていた。
「なにか言えっつってんだよ、おら」
男が両手を突き出してきた。俺は避けず、ただ躰に力を入れた。突飛ばそうとした男が、逆に弾かれる格好になった。男の顔がみるみる真っ赤になった。
「てめぇっ」
掴みかかってきた。その手を弾き、横に跳んだ。男が向き直る。一瞬、見合った。両手を広げて突っ込んだ。受けようとした男が、自分も両手を挙げる。その瞬間、体勢を低くして、肩からぶつかった。男の鳩尾に俺の肩が食い込んだ。すぐに離れる。前屈みになりながらも、男はこちらの襟に手を伸ばしていた。当てるだけのパンチを出して下がった。男の手が空をきる。
もう一度、両手を広げて突っ込んだ。今度は男の腕を掴んだ。膝で突きあげる。なんとか襟を取ろうとしてくる男の腕を、全力で抑える。真っ向からの力比べになった。膠着はそれほど長くなかった。男の体勢がだんだんとのけぞっていく。再び膝で突きあげ、腕で押し離し、前蹴りを飛ばした。吹っ飛んだ男が四つん這いになり、反吐を吐いた。
取り巻きの二人が、唖然としていた。そっちに足を進めると、今度は青ざめ始めた。
「いや、待ってくれ。一対一って話でついてきただけだ」
「俺たちなんもするつもりはなくて」
興味はなかった。男たちの後ろに、金網の出入り口があるのだ。男たちがさっと道を開けた。そこを出て、土手をあがり、街へ続く道を歩いた。誰も追ってはこない。
今の喧嘩でなにか変わるのだろうか。今更そんなことを想像してみても、なにも思いつかなかった。将文なら、きっとなにかを変えるだろう。せいぜい、良い方に変えればいい、と思った。
力は生まれつき強かった。お父さんに似たのねと母は言っていた。かろうじて記憶にある父は、確かに力強かった気がする。大掃除などでは箪笥を二つ三つと抱えていたのだ。
学年でも飛びぬけて力の強かった俺を、誰かが番長と呼んだ。それで、力自慢の輩が勝負を挑んでくるようになった。それがいつからか不良と呼ばれる連中になり、そして、ある時喧嘩をした。将文が今のようになったのはその喧嘩の後からだ。その喧嘩は、もともと将文の喧嘩だった。
不意に、建物が高くなった。街中に入ったのだ。距離から考えて二十分ほど、益体もないことを考えながら歩いていたことになる。
街に着いても目的地はなかった。強いて言えば、街自体が目的地だったのだ。なんとなく歩いたが、すぐに公園のベンチに落ち着いた。木製で、湿った感じはあるが汚いほどではない。
腕を組んでみた。ちょっと前屈みになって肘を足に乗せた。どれもしっくりこなかった。歩きながら考えていたさまざまなことが、足を止めた途端に頭から消えていた。将文の癖がうつったのかもしれない。
「あなた、もしかして高山翔大くん?」
呼ばれて、顔をあげた。背中ほどの髪の長さをした女だった。見覚えはない。燻んだ紺色の制服は知っていた。ここから数キロ先にある、街中の高校のものだ。不良校だ、という話は昔からよく聞いた。
「急だな、と思ったけど道理でね。あなたがここにいるんだもの」
「すいませんけど、ちょっと」
「うん?ああ、会ったことはないわよ。私が知ってるのは、喧嘩に負けて、デートをすっぽかした方」
俺は公園の中央にある時計を見た。携帯電話の類は持っていないのだ。一時十五分。そういえば、あの猪首の男の取り巻きがそんなことを言っていた気がする。
そこまで痛めつけてはいない、と思った。二、三度吐けばそれで気分もよくなる程度だろう。デートにぐらい、来てもいいはずだ。
「しばらくしたら、来ると思います。俺は、これで」
その時に俺がいたら不味いだろうと思い、立ち上がった。女はきょとんとして、それから口を開けて笑った。夜露の残滓が未だ滲んだ公園は人影もなく、女の笑い声はよく通った。
「来ないでしょ。多分、来ないと思うな」
「ひどくはしてません」
「それが、もう既に酷い。あしらうように終わらせちゃったってことでしょそれって。今日一日は、人前にも出れないと思うよ」
「掴まれたらやばかったと思います」
何を言っているのかよくわからなくなってきた。女の言う来ないという言葉が、心のどこかをささくれさせた。負けた相手が苦しむのと、その取り巻きが慌てるのはよく見てきた。それ以外の人間を不快な気分にしたというのは、今のところ記憶にない。
「思ってた感じと違うな。今は一人で取り巻きもいないから?それとも、淳の方こそしょうもない嘘を吐いてたってことかな?」
俺は答えに窮して俯いた。何を言っても誤解がある気がする。五対二だったというのは、ある意味では間違いではないのだ。俺と将文のことを齟齬なく説明するのは、俺には難しすぎた。
「ま、用事がないなら座って。私も、用事がなくなったから」
ちょっと迷ってから、結局座った。女の用事がなくなったのはあの猪首の男が弱かったからだが、それが消えた理由の一端は確かに俺だった。罪悪感などはもちろんない。ベンチに座る程度の理由はある、というだけだ。
「ほんとに座るんだ。ちょっとびっくり」
「なぜ?」
「だって、罠があるかもしれないじゃない。今から、淳のやつが仲間連れてやってくるかもよ?それまで引き留めておく役が、私かもしれない」
「そうなんですか」
「来ないよ。というか連絡してないから、あなたがここにいることも知らないはず」
どうでもよかった。来たら相手をする。少なければ勝てるし、あまりに多ければ負けるだろう。ひどければ、血反吐でも吐くかもしれない。勝ち負けがあれば当然のことで、今まで俺に負けた連中もそういう想いを通り抜けていったはずだ。俺がそこをすり抜けようというのは、あまりにも馬鹿げていた。一人で強いのも集団だから強いのも、同じようなものだ。
そこまでを言葉にする意思も能力も、俺にはなかった。ただ、女の方は俺を見て何かを察したようだった。それはどこか不快だった。将文に似た視線を、女は寄こしたのである。似ているというだけで、根底から違うものだ、と俺は思った。
「あなたは、そういう風に生きてるんだね。自分は自分で、それがどうなるかに興味がないんだ。いや、違うかな。自分があるのに流されてるんだ。それか、流されるのが自分だと思ってる」
「さあ、よくわからないですね」
「淳はわかりやすいんだけどな。なんだろう、多分石みたいなものなんだろうな。きっと君は、強く硬く、それでいて川や風や動物の歩みなんかに動かされるままなんでしょう。動かしてる人が、動かすままに」
「先輩は、あの淳って人が好きなんですか?」
意地悪なことを言った、という実感があった。女の饒舌さに、引っ張られてるとも思っている。しかし、余りにも狭量な言葉選びだった。風がゆっくりと風景を揺らす。さんざめく公園は、人の芯まで雑音を響かせそうだった。
「それを言われると、辛い。保育所から一緒の仲でさ。ヤンキーの彼女っぽくないって、自分でも思うんだけど」
すでにベンチを立ち上がっていた。石みたいな男。間違った言い草ではないだろう。
なにを持っているのか考えた。中天を過ぎた陽光が、焦がすように街を覆っている。日は降り注ぐ。石のような男でも、それは確かだった。
「淳はあれで下っ端だからね。後輩くんの言ったことはもっと別まで広がってるから」
女の声は、ほとんど頭の上を通り過ぎた。また別から喧嘩がくる。それだけのことだろう。
◇
やはり癖がうつっている、そう思わざるを得なかった。どこをどう歩いたかさえ思い出せないのだ。将文のこと、沢村のこと、あの女のこと。そこで回っていた思考はいつからか幅を広げ、母や教師や同級生や後輩、果てには淳という猪首の男や他の不良たちまで及んだ。もう既に辺りは暗く、音や光が大げさに感じられるようになっている。前から来たヘッドライトがすべてを強烈にし、通り過ぎた後のテールランプが闇の陰影を朧に映しあげた。そのたびに、考え事のすべてが馬鹿らしくなり、しかし歩き出すとどこからかまた考え始める。橋を越えた。歩きを早める。家に着いて座ってしまえば、多分どうでもよくなるだろう。
明かりが点いていた。出勤ではなかったということだ。玄関にはいつものヒールはなく、運動靴とスニーカーがあった。単純に休みだから靴箱に収まっているのか、それとも思春期の息子の目を気にしているのかはわからない。仕事のおかげで生活が成り立っているのはよくわかっていた。ただ、それを口に出したことはお互いにない。
「あら、おかえり翔」
短い廊下を通ると、台所から母が振り向いた。ちょっと頷いて、居間へ行き畳に腰をおろした。体重をかけすぎない程度に襖に寄り掛かる。ほとんどのことが消えていった。将文のことだけは、たまに頭をよぎる。テレビをつけた。野球、サスペンス、バラエティー。どれにも、興味はない。打たれた瞬間、画面を切り裂いていくような打球が、時折美しいだけだ。
「そういえば」
居間に入ってきた母が言った。手にはサラダを抱えている。
「将くんがきてたわよ。相変わらず、気の利く子ね。おばさんに会えて嬉しいですって」
将文なら言いそうなことだった。将文がチンピラのような取り巻きを従えているなど、誰に言われても母は信じないだろう。チャンネルを変えた。時代劇のようで、古びた長屋が映っている。
「翔を探してるって言ってたわよ。まだ、いくつか行ってみるって。どこかで会わなかった?」
なにか胸騒ぎがして、俺は躰を起こした。携帯電話を持ってない俺との連絡のために、将文が歩き回るのはいつものことだ。いつものことだ、と自分に言い聞かせてみても胸騒ぎは治まらなかった。
「河川敷とかなんとか、言ってたような気がする。ちょっと行ってみるって」
飛び起きた。玄関に行き、靴を履き替えると、紐もしっかり結ばないままに外に出た。お前と秋山ってのが。猪首の男はそう言っていた。連中は、河川敷に俺がいるらしいことを知っていたのだ。狙ったのは、俺のことだけなのか。高山派の秋山将文を、知らないということがあるのか。
闇の中で、足元すら定かではなかった。橋を過ぎ、土手の道に入る。六歩か七歩で、街灯がひとつ視界の後方へ飛ぶ。まどろっこしい。地面を強く蹴った。五歩で、街灯が飛ぶようになった。
影。街灯の下で、俺の姿を認めたらしい男がニヤニヤとしている。止まれよ高山。走り続けた。男の顔が、恐怖に染まった。左肘を振るった。喉元に受けた男は、折れた人形のように腰を落とした。そのわき腹を打ち、携帯電話を探り当ててバッテリーを乱暴に外した。男は表情をぼんやりとさせたまま、打たれたわき腹をさすっている。平手を喰らわした。
「将はどこだ」
「高山だろうお前。止まれって」
もう一度頬を張った。
「鼻を潰されていいなら、適当に喋れ。将はどこだ」
「ちょっと先に集会所がある。その辺りの地区のちっさいやつで、裏手が広場だ」
鼻を掠るように拳を振った。男の鼻が、甲高い小さな音を立てた。
「本当なんだ。高山をやってやろうって話だった。でも秋山しかいなかったんだ」
「何人で来たんだお前ら」
「十五。ただ、秋山が思ったより強かった。三人はぶちのめされたし、もう二人苦しそうな顔をしてた」
顔面を蹴り飛ばした。男がどうなったかは見ずに、俺は走り始めた。風。街灯と闇が交互にやってくる。集会所は知っていた。幼いころ、将文と一緒に地区の祭りに出たことがある。その祭りの話し合いがあって、集会所へ行ったのだ。隣には、父がいた。
ずっと曖昧だった父の顔が、なぜか浮かんできた。無精ひげがぽつぽつあった。髪は剛毛で、逆立ってるようなものだった。鼻は細く、目蓋が厚く、目にはいつもギラギラした光があった。怒った時には、顎を引いて、上目のようにして相手を睨んだ。
見えてきた。集会所。裏手に狭いながらも土のスペースがあり、祭りの集会では舞台でやる催しのリハーサルをやったりしていた。三方をコンクリに囲まれていて、人の目を気にせず済むのだ。
「翔っ」
そのコンクリに背を預けながら、将文が立っていた。顔の左半分がいやに腫れている。まわりに六人いて、ちょっと離れて四人が地面に座っていた。そのうち一人が、笑いながら立ち上がった。
「おまえが高山かぁ。最近、凄いらしいじゃねえか。高山と秋山の名を聞くと、俺らも思わずビビっちまうよ」
下卑た笑いがそこら中で起きた。全員、高校生のようだった。座っている一人は、缶のチューハイを飲んでいる。
「詫び入れてもらえばいいんだわ、お騒がせしてすみませんってさぁ。秋山が聞いてくんねえから、おまえ、ちょっと頭下げてみろよ。そしたらおまえも秋山も帰してやっからさぁ」
将文の方を指さしながら男が言った。また、笑いが起きた。土下座な、という声も飛んでいる。勝てそうな相手だ、と思った。ただ、将文が向こうにいる。俺の喧嘩は、良くも悪くも俺のものだった。将文を苦しませながらやる喧嘩などない。
膝をついた。意外な形だが、負ける時がやってきたのだ。自分が負ける時は集団で散々に殴られた後だと思っていたから、肉体的にはマシな形になったのかもしれない。負けた後に殴られるというのもありそうなことだった。それは、敗者の義務に似ている。
「っざけんな。翔」
将文が叫んだ。将文の持っている計画のようなものが狂ってしまったのかもしれない、と俺は思った。いくつもの喧嘩や沢村たち下級生との会話なんかも無駄になってしまうのだろう。仕方がないとしか言えなかった。それは、勝つからこそ活きることなのだ。
土下座とは、どうするんだったか。両手と額を、地面に擦り付ければそれでいいのだろうか。くだらないことが、なぜか気になった。
「絶対に嫌だ。俺はあの喧嘩でそう決めたんだ」
将文がコンクリを蹴って飛び出した。立っている一人に猛然と突っ込む。受けた男は、目を見開いていた。しばらく押しまくったが、横と後ろから組み付かれてその勢いが止まった。
「俺のせいで喧嘩を始めたんだ。だから、俺が頂点まで」
もう二人に組み付かれて、将文は地面に倒れた。じたばたともがいて、拳を避けている。
将文が何のことを言っているのか、俺にはよくわかった。俺の初めての喧嘩。元々将文の喧嘩で、しかし劣勢だった。相手側が四人いたのだ。幼馴染の将文を助けようとして割り込むようにその四人を打ち据えた。その後から、力比べに代わって喧嘩を挑まれるようになった。相手もより不良色の濃い人種になった。
将文自身の野望があって立ち回っているのだと思っていた。喧嘩の道に引き込んでしまった俺への、贖罪のようなものだとは思ったこともなかった。そういうことをされる立場に自分があるとも思っていなかったのだ。
また一人、将文のところへ行った。躱しきれずにいくつか拳を受けたようだ。頂点か。呟いてみた。不良界の頂点など、なんの価値もあるはずがなかった。ただ、そこへいくまでの将文との旅は、充足に満ちている、という気がする。
雄叫び。自分があげたとは、最初思えなかった。しかしその場の全員が俺の方を見ていた。こういう自分もいる。そんな、新鮮な発見がこの先にはいくつもあるのかもしれない。
「なんだぁ高山。てめえまさかやろうってんじゃ」
右の拳が、男の顔面を捉えた。場が凍り付いた。比喩ではなく、男の躰が宙を舞ったからだ。一歩二歩と進む。座っていた三人が慌てて立ち上がった。一人を殴り飛ばし、もう一人は顔を掴んで鳩尾に足を叩き込んだ。殴られた方は完全に意識を飛ばしていた。
「お前、ダチがどうなってもいいのかよ、おい」
将文に組み付いていた男が、拳を振り下ろした。将文の左頬をかなりまともに捉えていた。低く鈍い音。頭が地面に叩きつけられ、それから跳ねるように持ち上がった。また低い音。ぶつけあった頭のひとつが、やけにゆっくりと横たわった。倒れた男を見下ろしていた将文が、俺を見た。腫れあがった目蓋の向こうに、はっきりと光を感じた。俺は苦笑した。不敵な眼光だが、頭はまだふらふらと揺れていたのだ。普段はともかく、喧嘩のやり方は危なっかしいやつだった。
俺は姿勢を低くして、ひとりの男に突っ込んだ。腰の上に跳ね上げ、そのまま投げ飛ばす。まともに背中から落ちたようだ。それきり、動かなくなった。
俺はゆっくりと歩みを進めた。めまいが治まったらしい将文も、おもむろに立ち上がる。残った男たちに緊張が走るのがはっきりとわかった。
地を蹴った。左。将文が反対側へと走る。すれ違いざま、ラリアットのようにしてなぎ倒した。将文が、蹴りをまともに喰らっていた。倒れこんだが、脚は掴んだままだった。パンチの交換。先に、相手の方が動かなくなった。男が一人、俺の背中にしがみついてきた。躰をちょっと左右に振り、それから右に全力で回った。弾かれた男の腕を取って、跳ね上げた。一本背負いのような形になった。男は一瞬エビぞりになり、そのまま地に伏した。
うめき声が、集会所を覆っていた。残った二人のうち、一人が失禁した。もうひとりは顔を青ざめさせたまま、コンクリに背を預けている。どちらも、俺たちに向かってこようとはしなかった。
「終わりだな、将」
「悪かったよ、翔。手間を掛けさせた」
将文はもう、いつも通りだった。残った二人に、何かを言い含めている。多分、弱みのようなものを握ったことになるのだろう。十五対二の喧嘩といってもよかったのだ。最初にやられた連中が、ぽつぽつと起き始めた。俺と目を合わせないように、俯きながら去っていく。全員がいなくなるまで、十分もかからなかった。四分ぐらいの月が、物事をそこそこに照らした。いい塩梅だ、と思った。吐瀉物や荒れた土や踏み潰れた雑草などが、辛うじて見えない程度の明かりだ。
広場の中央まで、俺は歩いた。飲みかけのチューハイが残っていた。つまらない争いの、たったひとつの目撃者だ。
アルコールに溺れてしまうことも、そのうちあるかもしれない。アルコールは、石でも揺らすのだろうか。石も酔っぱらって、真っ赤になったりするのだろうか。
「俺のことを、石と言った人がいたよ、将文。なにもなく、流される男だと」
「どこのやつだよそりゃ。全力でぶっ潰してやる」
「高山派でか?」
将文が唖然とした。それから、口をもごもごとさせた。さっき口走ったことを、今思い出したのだろう。頂点か。また呟いてみた。石なのだ、俺は。だが、それを動かす男ぐらい、選んでもいいはずだ。
躰が大きいから。力が強いから。そんな理由で、気づいたら一派閥の頭になっていた。そうではない相手が、ただ一人いる。流されるままに決めるのではなく、決めて流されるということは、石にだってある。多分、あるだろう。なければないでもいい。頂点への旅を始めようという気に、俺はすでになっている。
「初めて会った時のこと覚えてるか、翔」
「いや、忘れた」
「そうだよな。実は、俺もさ。取り巻き連中に訊かれるたびに、適当なことを言ってる」
「俺は、頂点を目指す気になったぞ、将」
「そんなのは俺だけでいいさ」
「そのお前に、乗っかろうってことだ。お前は気にしなくていい」
「あの喧嘩のこと考えてるのか?」
「あの四人は、今考えると強かった。その程度のことさ」
「となり町の石川ってのが強いらしい。やり方も、よくないな」
「じゃ、そこからだ」
将文は地面に寝そべっていた。そのそばで、俺は空を見た。星々が、ぶちまけたように広がっている。不意に、流れ星が横切った。
「あれも石だぜ、翔」
「先輩さ。いつか、ぶちのめしてやる」
「まず、石川かな」
「好きに行こう。短いようで、長い旅だろう」
また星が流れた。俺は腰を下ろし、星を眺め、将文になにかつまらない冗談を言った。将文がまじめくさった顔で、石川とやらの話を始めた。