誰にも言えなくて
ジニアに来たのに、ミアは外の世界を知らぬまま、牢屋に閉じ込められている。
テオはどこにいるの?
トマスやみんなは無事なのか気になって仕方がなかったが、ヘンリーはあれ以来、ここに来ないし兵士以外誰も来なかった。
地下にいると、外の光は入らない。
日中は監視されているので、クロエと会話ができなかった。そこで、ミアは聖歌を教えることにした。
聖歌を歌っている間、ゴーレが騒いでいるのが分かった。
夜、クロエに尋ねると、彼らは聖歌を聞くと見えない状態になるらしいと教えてくれた。
見えない、とは。
言葉通り目が見えなくなるのだ。
だから、人の姿が見えなくなり、自分たちがどこにいるのかも分からなくなるらしい。
混乱を招いているの?
そうではない、とクロエは言った。
聖歌は彼らを苦しめているわけじゃない。
クロエに一通り救世主に関することを教えると、今度は、彼女がジニアで訓練と称した試練について教えてくれた。
初めて会った時のケガの理由も分かった。
彼女は殴られたり痛めつけられたりして、救世主の力を試されたのだ。
だが、彼女は治癒できなかった。
そして、アメリアのように光も出せなかった。
アメリアはどうやって光りを出すのだろう。
しかし、クロエはやり方を知っていた。
思い描くのだそうだ。
光を思い描けば、自由に操ることができるのだが、クロエには光を思い描くことはできない。
クロエはゴーレの言葉を聞いていた。
彼らは助けを求めている。
元は人間なのだから。
殺したくない、
とクロエは言った。
それが、クロエの目的なのではないか。
彼女はゴーレを殺したくないのだ。
ゴーレを生かそうとするのが目的なら、何か意味があるはずだ。
「ねえ、クロエは何が望みなの?」
「ここから出たいの」
「どうやったら出られるの?」
聞くと、クロエのグリーンアイがじっとミアを見た。
「ゴーレを操るわ」
ミアは息を呑んだ。
「それはダメよ。だって、ゴーレが外へ出たら、みんなを襲うもの」
「私がさせないわ」
クロエはそう言ったが、ミアは怖かった。
「わたしたちの仲間はたくさんゴーレに殺されたの。あなたを信じたいけれど、怖いわ」
「ミア、あなたは救世主なのよ」
クロエが厳しい声で言った。
「あなたが恐れていたら、誰が世界を救うの?」
「わたしは救世主じゃないと思う」
「え?」
わたしはちっぽけな中学生なの――。
「何それ、チューガクセイって何?」
クロエが真剣に眉をひそめる。
理解できるわけがない。
ミアは説明することも出来ず、不意に辛かったあの日々を思い出し、家族の事も思い出した。
もう何年もここにいる。家族はもう諦めただろうか。
「ミア」
クロエがミアの肩を叩いた。いつの間にか自分は泣いていた。
「泣いている暇はない。まだ戦争は終わっていないのよ」
「ヘンリーは何を考えているの?」
ミアは涙を拭いた。
そうだ。泣いている場合じゃない。
クロエは何も言わなかった。
「ミアは救世主よ。だって、アメリア姫が選んだんだもの」
「クロエは産まれた時から、宝石があったの?」
「ええ。これのおかげで死んだ方がましだと思う事がたくさんあった」
クロエは吐き出すように言った。
彼女は怒っているようだった。
「宝石の色は何色だった?」
「透明よ、あなたと同じ。私の宝石は少しずつ変化した。小さかったけど、これを盗もうとした人もいた」
額の宝石を取ろうとした人がいたのだろうか。
ミアは恐怖で体が震えた。
「辛かったでしょう」
「ええ」
それだけ言うと、クロエは疲れたように目を閉じた。
ミアもクロエの隣に寄り添った。
「ねえ、好きな人いるの?」
クロエが小さい声で言った。
ミアはテオの事を思い描いた。
自分の命と同じくらい大切な人はテオだ。
間違いなくそう言える。
「ええ。いるわ」
「名前をなんて言うの?」
「テオよ」
クロエが息を呑んだのが分かった。
ミアは、テオの事を言った後、彼がクロエをここに連れてきたことを思い出した。
「ごめんなさい、あなたはテオをよく思っていないかもしれないわ」
「気にしないで」
クロエは首を振って許してくれた。
「テオはたった一人の家族なの。彼がいなきゃわたしは生きられなかった」
「お兄さんなのね」
「ええ」
クロエは納得したように見えた。
「また、一緒に暮らしたい?」
今夜のクロエはよく話をするな、と思った。
「テオと一緒に暮らしたい」
言っているうちに胸が熱くなった。
「そうなれたらいいね」
クロエはそれだけ言うと、目を閉じたようだった。
「おやすみ」
ミアはクロエにそう言った。
夜明け前、監視が起きているかまだ眠っているかの時間帯に、クロエに体をゆすぶられて目を覚ました。
初めての事で、ミアはびっくりした。
「ミア、聖歌を歌い続けて」
「え?」
急に起こされて胸がドキドキしていた。
「聖歌を歌うのよ」
「何をするの?」
「ゴーレを外へ出す」
「クロエ、もっと計画を立てましょう」
「ミア、私はここにもう3年も閉じ込められているのよ」
いきなりどうしたのだろう。
冷静なはずのクロエが驚くことを言いだした。
「お願い、待って、本当にこんなにたくさんのゴーレを操ることができるの?」
「できるわ」
クロエはそう言ったが、ミアは止めなくてはと思った。
「ゴーレを外へ出して何をするつもり?」
「何って…」
クロエは言い淀んだ。
「これを見て」
クロエは裸になった。
ミアは口を押さえた。
みみずばれの体。
痛々しい傷に目をそむけた。
「救世主って何? 私はこの宝石のおかげで見知らぬ人に追われ、体を辱められたこともある。ここに連れられた日、救世主は何ができるのかと称した実験もさせられた。高い塀の上から落とされ、ゴーレの中に放り込まれた。私はゴーレの言葉が分かったから何とか助かったけど、あんなにたくさんのゴーレを相手にどんな目にあったと思う?」
「やめて、クロエ」
ミアは耳を塞いだ。
ジニアは平和な国じゃない。
世界を狙っている一つの恐ろしい国だったのだ。
アメリアの理想郷じゃなかった。
「だったら、二人で逃げましょう」
ミアはクロエを抱きしめた。
クロエは吐き出すように言った。
「ミア、あなたは救世主なのよ。ここにいれば私と同じ目にあうの。この意味が分かる?」
「え?」
「あなたがここに放り込まれて、今日で一週間。皇太子はやってくるわ。あなたの成果を聞きに来る」
「成果って何?」
「私の力を引き出せたかどうかよ。何のためにあなたはここにいるの? アメリア姫の後継者として選ばれたのだから」
「でも、ヘンリーはわたしの宝石を知らないの。わたしはただのミアよ」
「彼はそうは思っていない。だって、現にあなたは歌でゴーレを追い払った。それは力を使ったからよ」
そうだろうか。
聖歌はずっと歌い続けていた。
聖歌は宇宙へのエネルギーと調和だとアメリアは言っていた。
「時間がないわ。皇太子は時期にやってくる。そして、私たちを見せしめにするの」
ミアはぞっとした。
見せしめって何?
「ねえ、クロエ、あなたは何か隠しているのじゃない? わたしに言っていないことがあるでしょ」
ミアの問いにクロエは答えなかった。
冷たい目で。
初めて会った日と同じ、心を閉ざした顔で、ミアを見た。
そして、ちらりと鏡を見た。
ミアは鏡を見ることができなかった。
鏡の向こうにいる。
ヘンリーがこちらを監視している。
不意にドアが開いて兵士が数名入って来た。その後をヘンリーが続き、そして、テオがいた。
テオは険しい顔でミアを見ている。
「ミア、よくやった。やはりこの娘は話ができるのだな」
ヘンリーがミアの肩を抱きしめる。
ミアは体をよじったが、ヘンリーの力は強かった。甘い花の匂いがした。
「やめてください」
クロエはじっと立ったままだ。彼女の視線はテオにあった。
テオがすらりと腰に帯びた剣を抜いた。
「テオ? 何をしているんだ?」
「ヘンリー、この娘は何か企んでいる。この部屋から出た方がいい」
テオが言うと、ヘンリーはハッと口を引き締めると、すぐさま部屋を出て行った。
残された兵士にミアは腕をつかまれ、身動きできなくなった。
クロエは黙っている。
その時、ゴーレの閉じ込められている部屋がにわかに騒がしくなった。
ドアをゴンゴンと叩き、中で暴れている。ゴーレは翼が折れようと暴れるのをやめなかった。
扉がきしみだす。
「クロエっ、やめてっ」
ミアは叫んだが、彼女は聞き入れなかった。
テオは構えるしぐさでゴーレの部屋を睨んでいる。そして、兵士に何か囁いた。
兵士が部屋を飛び出していく。
きっと、応援を呼びに行ったに違いない。
ミアは膝をついて祈りの姿勢を取った。すると、兵士がミアの腕をつかんで立たせると、口にさるぐつわをした。
これでは歌が。
声が出せない!
聖歌が歌えなければ、みんな殺される。
テオに解いてくれるように頼みたかったが、彼はこちらを見てくれなかった。
テオっ、と何度も叫んだが、ミアは他の兵士に殴られた。
クロエがそれを見て、あっと口を開けた。
ミアは首を振った。
お願い、やめて、と頼んだ。
「やめるんだ、救世主の娘よ」
テオが言った。
「今なら、まだ間に合う」
テオの言葉に、クロエの目が鋭くなった。
「あなたのせいよっ。あなたが私をこの地獄へ連れてきた。あなたを殺すことが私の目的だわっ」
クロエっ。
ミアは必死で暴れたが、兵士の力に及ばなかった。
クロエが力を放出したのが見えた。
ゴーレの扉が開き、中から傷ついた化け物が次々と飛び出してきた。
テオは剣で攻防した。
一匹ずつ確実に殺していく。
だが、無数のゴーレが扉を破り飛び足に出してきた。
その後をクロエが一緒に追って走り出した。
気がつけば、ミアの目の前にはテオがいた。
彼はミアを助けるように、ゴーレから守ってくれていた。
ミアはテオの邪魔にならないように、頭をかばって丸くなった。
昔のようだった。
ゴーレに襲われた時、アメリアが助けてくれたように、ミアはうずくまって震えていた。
お腹の宝石は冷たいままだ。
殺したくない。
殺したくない。
光を呼びたくなかった。
光を呼び寄せたら、ゴーレが消滅する。
わたしは人殺しになる。
ゴーレの爪がテオの腕をかすり、剣が落ちた。テオは剣を拾わず、ミアのさるぐつわを取って叫んだ。
「ミアっ、逃げろっ」
テオが言った。
ミアは動かなかった。
いつの間にか兵士が全員倒れていて、ゴーレに変わるために黒い塊となって蠢いている。
血の海の中で生きているのはミアとテオだけだった。
「一緒に逃げてぇっ」
「くそっ」
テオは暴言を吐くと、ミアの手を取り、片腕を支えながら外へ飛び出した。
階段は血で濡れている。
ミアは、テオにしがみついた。
無数のゴーレがいなくなっていた。
階段を上がると、動かない人々が転がっていた。
悲惨な惨状におびえながら進んでいくと、広間はクロエと空へ飛び立てないゴーレで埋め尽くされていた。
そして、ゴーレの数を上回る兵士たちに追い詰められていた。
クロエは切り傷を負っていた。
ミアを見て手招きをする。
「ミア……」
クロエの頭上でゴーレが数匹、飛び交っていた。
「ミア…来て」
ミアはクロエの側に行こうとした。
「行くなっ」
テオがミアを背後から抱きしめた。
「大丈夫よ、テオ。クロエは何もしないわ」
「殺される」
「わたしを信じて」
テオはためらっていたが、ミアを離してくれた。
「クロエっ」
ミアはクロエに走り寄った。
「ミア…」
彼女がミアの手を握った。
囁くような小さい声でミアだけに言った。
「ゴーレの言葉をあなたに伝える。光は天への道しるべなの。あなたにしかゴーレを導くことはできない。消滅は殺す事じゃないって。光を分け与えて欲しいって。恐れないで自分を信じて……」
そう言い終えると、クロエの額から宝石がぽろりと落ちた。
宝石は灰色の石に変わってしまった。
クロエは石を見て笑った。
「あなたの言っていた意味がよく分かった。これで私は死ねるのね」
わたしの手の中で救世主がもう一人逝ってしまった。
ぐったりしたクロエの頭上でゴーレが鳴いた。そして、取り囲んでいたジニアの兵士たちが一斉に、ゴーレ目がけて弓矢を放った。
ゴーレは飛び立つこともせず、頭を貫通され地上へ落下した。
「ミアっ」
ヘンリーがやって来て、ミアの手からクロエを奪った。石がころころと転がる。その石をヘンリーがつかんで胸のポケットにしまった。そして、ミアの胸倉をつかんだ。
「クロエは何を語った。言えっ」
ミアは歯を食いしばった。
言うわけにはいかない。
ヘンリーが手を振り上げる。
それをテオが遮った。
「ヘンリーっ、ミアを傷つけるなっ」
ヘンリーは肩で大きく息をしていたが、ミアを突き離した。
「後で必ず口を割らせる」
吐き捨てると、怒り狂ったように歩いて行った。
「早く、城をきれいに片づけろっ」
クロエが連れて行かれる。
ミアは焦った。
「クロエをどこへ連れて行くの?」
誰も答えなかった。
「テオっ。何とかして」
「黙るんだ、ミア」
テオはミアを立たせると、手を強く握りしめた。
「離して、クロエを返してっ」
「お前はもうここから出て行くことはできない」
テオの言葉は重々しかった。
「どういう事?」
「救世主と二人も関わったのだ。ヘンリーはお前を鎖につなぐだろう」
要塞は血の臭いで一杯だった。
トマスたちは無事だろうか。
ミアは誰も助けることができなかった。
「テオ、わたしを逃がして、ここにいるわけにはいかないの」
「無理だ」
ミアは逃げようと手を振りほどいた。テオは不意を突かれ、するりと手が離れた。
「ミアッ、待てっ」
ミアは無我夢中で走った。
アメリアの言葉を思い出す。
あなたが側にいると、テオが死ぬのよ。
わたしの存在は迷惑になる。
「ミアっ」
テオの声がしたが、ミアは振り返らず道を曲がった。
どこを走っているのか分からない。
そのまま、わけも分からず走り出そうとした時、ぐいっと腕を掴まれた。
「あっ」
口を塞がれてミアはもがいた。
「シーッ」
目の前にいたのはトマスだった。
「トマスっ」
「見つけた。よかった! ミアっ」
「無事だったのねっ」
ミアはトマスに抱きついた。見ると、壁に隠れるようにして、ソフィーにトマス、グレイスもいた。
トマスがミアの手を引いた。
「逃げるぞっ。ここは何だかおかしい。人が住む場所じゃない」
ミアは泣きじゃくりながら頷いた。
もう、言い訳も何もいらない。ここにいてはいけない。
「イモージェンとエミリーは残るそうだ」
トマスが苦々しく言って、辺りに誰もいないことを確かめると歩き始めた。
「出口は分かるの?」
「分からないけど、進むしかないわ」
グレイスが答えた。彼女の顔は見たこともないほど険しく、手には弓矢が握られている。
「グレイスは昔、軍隊にいたのよ」
ソフィーが言った。
ミアは目を丸くした。こんな穏やかな人が軍隊にいたなんて。
確かに背が高く、彼女はたくましく均整のとれた体つきをしていた。
「皆、しゃべらないで」
グレイスの指示に従いながら進んでいくと行き止まりになった。グレイスが窓の外を確かめる。
「崖しかないわ。ここからは下りられない」
と悔しそうに言った。
「まるで迷路だわ…」
下りているはずなのに、いっこうに進めない。
この要塞はどのような作りになっているのか。簡素な部屋がたくさんあるが、どこも戦うために作られているようだった。
「人は住んでいるの?」
ミアが聞くと、トマスは首を振った。
「ここは要塞だ。この建物の内側のごく一部に人々は暮らしている。しかし、4割は兵士たちで、残りは何をしていると思う? ほとんどがここで最新兵器を作っているのさ」
「兵器?」
「国を大きくするつもりなんだ」
トマスが吐き出すように言った。
ミアは愕然とした。
希望の都市がこんな風になっていたなんて。
世界はどのようになってしまうのだろう。
「ミアっ、伏せてっ」
グレイスが叫んだ。
あっと思った時、ミアの右腕に矢が刺さった。ミアはとっさに腕をかばい、その場に倒れた。
気がつけば、周りを弓矢や剣を持った兵士たちに囲まれていた。
「テオ……」
彼は苦しげな顔でミアを睨んでいた。
ソフィーとトマスが手を挙げて降参し、グレイスも武器を下ろした。
ミアたちは手を後ろにまわされ、抵抗できないよう紐で強く縛られた。
そのまま引きずられて、広場の中央に連れて行かれた。そこには先ほどゴーレに殺された人々が集められ、黒い不気味な物体となり蠢いていた。
これから新たにゴーレとして生まれ変わるのだろうか。
そこには兵士の他に、女や子供のようなシルエットもあった。
吐き気がして目を向けていられない。
この要塞の中にどれだけの人がいたのだろう。
その時、兵士たちの間からヘンリーが現れた。
手にはアメリアの本がある。
彼は繋がれているミアの側にしゃがみ込むと、本の角でミアの頬をぺちぺち叩いた。
「ミア、こんな結果になってしまって残念だ」
「お願いです。トマスやソフィー、グレイスを助けて下さい」
「どうしようかな」
ヘンリーはにこっと笑った。
「お前とテオは、兄妹だってね」
「え?」
ミアはどきりとしてヘンリーを見た。
胸騒ぎが全身を襲う。
テオが怪訝な顔でヘンリーを見た。
「おいで、テオ」
手招きされて、テオが前に出てくる。
「ミアは知らないだろうが、テオは、ギムイ族に襲われた日に助けたんだ」
ギムイ族?
その盗賊の名前は聞いたことがあった。
極悪非道で小さい集落を襲って皆殺しにするというゴーレよりも恐れられている人間たちだ。
アメリアやジェイクを殺したのはその盗賊だったのか。
思いがけずあの日の悲しみがどっと押し寄せてきた。
ミアは泣くまいと歯を食いしばった。目がチリチリと痛んだ。
「だから、テオは私に恩義を感じている。そうだろ? テオ」
テオは青ざめてヘンリーを見ていた。
「ヘンリー、何を考えているんだ?」
「あの日、アメリアの仲間たち半分は殺された。ミア、君もその中の一人だと私は思っていたが、テオは思わなかった。彼は君を捜すために命をかけたんだよ、ミア」
ミアは目を見開いてヘンリーを見ていた。
「君を捜すために、テオはどれだけの人生を犠牲にしたか知っているか? テオは自分の足で行ける場所にはどこへでも行った。君を捜すためだ。君のためにクロエも見つけて来たのだ。どういう意味か分かるかい? 救世主は世界を救う。ゴーレから守るには、彼は何人だって救世主を捜してくる。すべては君のためにだ。まさか、売春婦になっているとは夢にも思わずにね」
ヘンリーの言葉に、ミアは涙をこぼした。
「テオ、許して…」
知らなかった。
テオが探していてくれたなんて、知らなかった。
テオは、ミアの顔を見ようとしなかった。
「ヘンリー、そんな話はいい。それより、ミアはケガをしているんだ。自由にしてやってくれ」
テオは硬い表情のまま言った。ちらりとミアの腕を見る。腕には矢が刺さったままで出血が止まらない。ミアはそれよりもテオの心の痛みの方が深い気がした。
ヘンリーが静かに言った。
「クロエが何を言ったのか、教えろ」
クロエの言葉を伝えたら、何をするのだろう。
ミアが救世主だと分かったら。
何が起きるだろう。
その時、トマスが叫んだ。
「ミアっ。何も言うなっ」
ソフィーが首を振る。そして、ヘンリーに懇願した。
「殿下、こんな事は間違っています。私たちはただの売春宿で働く卑しい者です」
「そうです。おやめ下さい、殿下。私らを殺しても、ゴーレが増えるだけです」
ミアは驚きのあまり、声が出なかった。
もしかしたら、二人は知っているの? わたしの秘密を。
しかし、ヘンリーはせせら笑った。
「ゴーレが増えたら殺せばいい」
と、ひとことで済ませた。
ああ、何が彼をこんなに非道な人間にしてしまったのだろう。
ミアには分からなかった。
目の前のゴーレは生まれ変わる寸前だ。
黒い物体は、悲鳴を上げていた。
まるで、泣いているようだった。
人間だった彼らが苦しんでいる。
「どうしてこんなことをするのですか?」
ミアはヘンリーに言った。
アメリアならどうしただろう。
彼ら(ゴーレ)に火をつけて燃やしてしまう?
わたしには分からない。
「テオ、ミアを守りたいだろう。これを持て」
ヘンリーが周りの兵士を下がらせて、テオに剣を渡した。
テオは困惑しながら剣を手に取った。
目の前のゴーレは今にも飛び立ちそうだった。
人間の形をしていたシルエットが、醜いツルツルの毛のない黒い獣に変化している。
鋭い爪、ぎょろりとした赤い目を持ち、口は耳まで裂けて耳は動物のように尖り、鳥のように二本足で自身を支え、手は大きな翼に変わっていく。
もう人間ではない。
ゴーレは、ギャアギャアっと叫んだ。
テオが身構える。
ミアは、膝を突いたまま聖歌を歌った。
この歌が宇宙へと届くように。
この歌が、たった今ゴーレに変わった人々を助けてくれるように――。
ソフィーとグレイスも歌い出す。
すると、ゴーレの動きが鈍った。
やはり、歌に意味があるのか。
その時、ヘンリーが兵士の耳元に何か囁いた。すると、兵士がミアたちに矢を向けた。
歌がぴたりと止む。
ミアの首筋を生温かい血が流れた。
気がつけば、兵士たちがミアの首筋に剣を当てていた。
ミアたちが恐怖で声が出せなくなると、ゴーレが活発に動き出した。
ぎょろりと目を開け、獲物を狙おうと構える。
元は人間の姿がゴーレへと変わっていく。
それを見て、テオは首を振って後ずさりした。
「こんな事はやめてくれ、ヘンリー」
「だったら、ミアに言え。何を隠しているのか、全て話せと命令しろ」
テオは、ミアの側に来てしゃがみ込むと、肩を抱くようにして言った。
「ミア、ヘンリーに言うんだ。殺されたくないだろう?」
涙でテオの顔がよく見えない。
「ミア、返事をしろ。このままじゃ、殺されるぞ」
テオ! わたしのテオ!
「ミア、俺たちはどうなっても構わない。何も言うなっ」
トマスの言葉に、ミアは目を見開いた。
「ミア、私たちの事は気にしなくていいんだよ」
ソフィーが優しく言う。
ミアは唇を噛みしめた。
「ソフィー、トマス…」
石よ、わたしに力を貸して!
その時、一斉に生まれ変わったゴーレが襲ってきた。
テオが剣を振り、ゴーレの頭を砕いた。
どさっとゴーレが倒れた。ぴくぴくとまだ息をしているゴーレはすぐに息絶えた。
ミアは悲鳴を上げた。
喉が痛い。怖くて声が出ない。
ゴーレは、トマスやソフィー目がけて襲いかかってきた。
ソフィーの肩がゴーレの爪でえぐられ、血が溢れる。彼女が倒れて動かなくなる。
「ソフィーっ。くそっ、くそっ」
トマスは、ソフィーを守ろうと自分の体でかばった。背中に爪が刺さり、彼の体が宙に浮かぶ。それから、どこかへ連れて行かれた。それを見たグレイスが兵士を押しのけてサッと手首の紐を解くと、落ちていた弓矢を拾った。素早く弓を引いて矢がゴーレの頭を貫通した。
ドサッと鈍い音がしてトマスが落下する。
「トマスっ」
グレイスが叫んで駆け寄った。トマスを抱え、ソフィーの側に移動する。
3人は抱き合うようにして小さく丸くなった。
兵士たちは戦う道具を持っていたが、誰ひとり助けようとしなかった。
ミアは悲鳴を上げていた。
「ミアっ、叫ぶのをやめろっ」
テオが耳を塞いで言った。
ソフィー、トマスが、グレイスが殺される。
わたしにかかわったために、みんなが死んでしまうっ。
この、宝石のために!
それ以上考えられなかった。ミアは聖歌ではなく悲鳴を上げた。
すると、辺りがだんだん薄暗くなり、空が黒い物に覆われた。
ざわざわと騒がしい音が次第に大きくなった。
広間にいた兵士たちが建物の中へと逃げ出す。
ヘンリーも腰が抜けたように、後ずさりした。
ミアが見たのは空を覆い尽くすゴーレだった。
おびただしい数のゴーレが空を舞い、その羽音がブーンブーンと唸っていた。
「ミアっ」
テオが駆け寄って来て、ミアを守るように抱きしめた。
ミアはそれでも悲鳴を上げていた。
お願い、みんなを助けて!
これ以上、わたしの大切な人を殺さないでっ。
感じたこともないほど、宝石が燃えるように熱かった。
テオがさらに強くミアを抱きしめた。
その力を感じてハッとした。
テオと目が合う。
ミアは正気を取り戻した。
テオの腕を払い、トマスとソフィー、グレイスの元へ走った。
「ミアッ、戻れっ」
テオが追ってくる。
ミアは立ち止らず、3人の側へ行った。
「トマス…、ソフィー」
3人の傍らに膝を突いた。
誰も動かない。
ミアは3人に覆いかぶさった。
アメリア、わたしに力を貸して。
どうすればいいのか、教えて!
その間にも空はどんどん暗くなっていく。
その時、ミアの体を誰かが抱きしめた。
見ると、抱きしめていたのはテオだった。
テオは逃げなかった。
ミアは覆いかぶさるテオを感じながら、宝石がさらに熱くなるのが分かった。
「火を放てっ」
ヘンリーの声がした。
兵士の一人がゴーレの黒い翼に火をかけた。
ゴーレが燃えて次々と倒れていく。
乾燥していたので、火の回りは早かった。
これで死ぬのだ、と思った。
アメリア、ごめんなさい。わたしは救世主ではなかった。
目を閉じようとした時、ゴーレが動いてミアたちを守るように取り囲んだ。
ミアを守ろうと、どんどんゴーレが増えていく。ゴーレはミアたちを襲わなかった。
ミアを守り、火にまみれていく。
要塞の中は焼かれて死んだゴーレで埋め尽くされていった。