アメリアの異変
アメリアの付き人は男女合計5人いる。
彼女は時間を見つけては、5人に聖歌を歌わせた。
彼女にとって歌が癒しの時だったのだろう。
ミアにもよく歌って欲しいと頼んで来た。
ミアは歌が苦手だったが、アメリアに褒められると、勇気が湧いて来るような気がした。
付き人で最も綺麗な声を持っているのが、アメリアよりも年上の女性で、エブリンと言う名前だった。
エブリンは40代くらいだと思う。ほっそりした美人で、兵士の間でも人気があったが独身だった。
彼女の歌声を聴けば優しい気持ちになる。いつまでも聞いていたい歌声だった。
アメリアはよく、エブリンに歌を教わりなさいと言った。彼女はラテン語を深く理解していて、ミアは暇があれば彼女から歌を学んだ。おかげで聖歌の内容は把握できた。
もし、ミアの母親が生きていたらエブリンみたいなのかな、と何度も思ったりした。
エブリンは穏やかな人で、アメリアをとても大事にしていた。
それは彼女から溢れるオーラで分かった。いつも、愛情をこめてアメリアを見ているからだ。
ある日、アメリアのテントで片づけをしていると、彼女が突然、本を譲りたいと言いだした。
「え?」
「あなたに持っていて欲しいの」
「何を言い出すの?」
ミアは大きな声を上げてからハッと周りを見た。誰もいない。ミアは二人きりの時は、いつもアメリアと呼んでいた。
「アメリア、これはあなたの大切な物でしょう?」
「あなたに持っていて欲しいの」
「受け取れない」
ミアは首を振った。しかし、ぐいっと本を押し付けてくる。
「これは大事な事なの。あなたにはもっと学んでもらいたいの」
アメリアからはいろんなことを学んでいた。
3歳だった幼いミアを7年間も育ててくれた。今ではもう10歳だ。
聖歌、戦略方法、愛情。
そして、秘密の宝石について。
宝石については、誰にも口外してはならないときつく言われている。
アメリアの宝石を見たことのある者は、ミアとジェイクだけなのだ。
ミアは偶然、見てしまっただけなのに――。
「ミア…」
その時、突然、アメリアが顔を歪ませてぽろぽろと泣きだした。
「どうしたの? どこか痛いの?」
ミアは驚いてアメリアに駆け寄るとぎゅっと抱きしめた。
アメリアは首を振って言った。
「ジェイクを愛してるの」
「ええ。知っているわ。もちろんよ」
「もう、限界なの。ジェイクと共に生きたい。ここにはいたくない」
まるで幼い子供のように駄々をこねて、アメリアは取り乱していた。
「大丈夫よ。泣かないで」
ミアは自分も泣きそうになりながら、アメリアの頭を撫でた。
アメリアは泣きじゃくっていた。
彼女はもう27歳になっていた。大人びた体つき。今が一番美しく見える。
「ごめんね、取り乱したりして」
少ししてから、アメリアが体を離して笑った。ミアも涙を拭いて笑顔を見せる。
「とにかく、この本を受け取って頂戴」
「分かった」
ミアは、アメリアから大切な本を受け取った。
本は手のひらほどの大きさで厚さも1センチほどだ。でも、中身はぎっしりと小さい文字が詰まっている。
それらはすべて聖歌であった。
アメリアは泣いたせいで疲れた顔を見せたが、大丈夫よと笑った。ちょっとだけ休むわねとアメリアが言うので、テントを出ると、空は夕焼け空だった。
赤く色づいて、まるで、アメリアの髪の色みたいだと思った。
ミアは何となく彼女を一人にしたくなくて、もう一度、テントに戻ろうとした。
きれいな夕日を一緒に見ない? と誘うつもりだった。
その時、ガンガンとけたたましい鐘の音が鳴りだした。
ミアは悪寒が走り、思わず体を低くした。
これは、人間が責めてきた時の合図だ。
敵が攻めてきた!
アメリアがテントから飛び出して来て、ミアを見るなり手を引いて走り出した。
「どこへ行くの?」
「ジェイクの元へっ」
アメリアは物凄い速さで走った。ミアは追いかけるのに必死だった。
テントが燃えている。そこにジェイクの姿があった。彼は敵と戦っていた。
槍で相手を突き殺すと、背後に駆け付けたアメリアに気づいて彼女の手を握った。
「どうしてここにっ」
「私も戦うわっ」
アメリアは剣を抜いた。
ミアは邪魔にならないよう。自分を守りながら体を低くした。
テオはどこにいるのだろう。
テオの年はすでに戦える年齢に達していた。
18歳のテオはどこかで戦っているのか。
「アメリアっ、テオの様子を見に行きたいのっ」
「ダメよっ。あなたはここにいるのっ」
アメリアは鋭く言った。
いつもの彼女じゃなかった。焦りが見える。
ミアは不安に駆られた。
敵は鎧をつけ、兜をかぶっていた。頑丈そうな剣が音を立て、味方の剣は簡単に折れた。
アメリアの軍隊は、長年旅を続けて数も減っており、若すぎるか年老いた者ばかりだった。見れば、女と子供はすでに捕えられている。
ミアは戦おうと思った。
剣を握りしめた時、ヒュンヒュンと矢が次々と飛んできた。
目の前に突如馬が現れ、大柄な男の手には弓が握られている。あっと声を上げる間もなく、放たれた弓矢がまっすぐにジェイクの胸を貫いた。
ジェイクがどさりと倒れた。
アメリアが悲鳴を上げた。
「ジェイクっ」
泣き叫び、彼に抱き付く。そして、ジェイクが既に死に絶えたことを知り、茫然とした顔をした。
彼女は光らなかった。
力を失ったかのように、天を見上げ、それからだらりと両手を下げた。
「アメリア…」
ミアは駆け寄って、彼女の肩に触れた。
「ミア……」
アメリアは泣いていた。かと思うと、突然、立ち上がり、持っていた剣を思い切り投げ、ジェイクを殺した相手の胸に突き刺さった。馬から男が転がり落ちる。
地上で走って来る敵を落ちていた剣で斬りつけ、そこにいた数十名を一瞬で殺した。
ミアは後ずさりした。
こんな戦い方を見るのは初めてだった。
アメリアの狂気はすさまじく、彼女は泣きながら赤い髪の毛を逆立て全身でいかっていた。
そこにいた敵がほとんど倒れ、アメリアの軍隊が歓声を上げたのを聞くと、彼女は何を思ったのか突然、ミアの手を引いて走り出した。
アメリアが他の場所の人たちを助けに行くのだと思った。
ここだけじゃない。あちらこちらで戦いが起きている。人間同士の戦いほど恐ろしい光景はない。
ミアは誰もいない森の中に引き込まれた時、不安で胸が一杯になった。
「どうしたの? 助けに行かないの?」
「ミア、これを」
アメリアは洋服を脱いで裸になると胸の間にある赤いルビーをわしづかみにして思い切り引きはがした。
血が噴き出す。
宝石は胸からはがれた途端、灰色の石になった。
「アメリアっ」
ミアは悲鳴を上げた。
宝石をはがしたアメリアは、がくりと膝から崩れ落ちた。ミアはすぐさまその体を抱きとめた。
胸からの血は止められない。
「いや、死なないで、アメリアっ」
手で押さえてもえぐられた胸は再生できなかった。アメリア自身で治せる傷なのに彼女は何もせず冷たくなった石をミアに突きつけた。
「あなたが持ってっ……」
「なぜ…? いやよっ、いやっ」
ミアは会った時の3歳児のように泣きだした。
「死なないでアメリアっ。置いて行かないでっ」
「あなたは選ばれたの…っ」
「違うっ」
「聞いて……」
アメリアの声がか細くなった。ミアは青ざめていくアメリアの手を握りしめた。
「受け取って…」
アメリアの目が閉じようとしている。
ミアは石を取った。
持った途端、石はミアの手のひらに吸い込まれていき、お腹が燃えるように熱くなった。
服をめくると、おへその上に宝石が現れた。
透明のダイヤモンドのように輝く宝石を見て、アメリアがほほ笑んだ。
「やっぱり、あなたは選ばれし者……」
ミアは、すぐにアメリアの手を握った。祈りを込める。彼女には死んで欲しくなかった。
目を閉じていたアメリアは少し元気を取り戻したように見えた。顔の色が戻る。ぐったりしていた体を起こした。
「ありがとう。ミア、楽になったわ」
「返すわ」
「何を言うの」
アメリアは息を吐いた。まだ、苦しそうで胸からは血が溢れたままだ。
「教えたことは全て覚えているわね」
ミアは頷いた。
「逃げなさい」
アメリアはそうひとこと言った。ミアは首を振った。
「行けない。テオを愛しているの」
「知っているわ。けれど、あなたが側にいると、彼は間違いなく殺されるでしょう。私のジェイクのように」
テオが死ぬ?
「ジェイクが死んでしまったわ」
アメリアが呟いた。
「私はもう生きる気力はない」
そう言いながら、アメリアは力を振り絞り立ち上がった。
「どこへ行くの?」
焦って止めようとしたが、アメリアは聞かなかった。
「みんなを助けるの」
「わたしも手伝うわ」
「あなたは逃げるのよ」
「アメリアっ」
その時、アメリアがミアに向かって光を発した。
彼女のどこにそんな力が残っていたのだろう。
ミアの体は弾き飛ばされた。遠く、遠くへ。
どさっと草むらに落ちて顔を上げた時、アメリアはいなかった。
たった一人にされて、ミアはおびえるように辺りを見渡した。
静かだった。
物音ひとつしない。
勇気を出して、体を起こす。
一人だけ逃げるわけにはいかない。
みんなを助けるんだ。
ミアは這うようにして集落の中心へと戻ろうとした。しかし、いきなりお腹が燃えるように熱くなった。
苦痛のあまり、地面に横たわる。
激痛が襲った。そしてミアは意識を失ってしまった。
目を覚ました時、辺りは真っ暗で星が瞬いていた。
がばっと起き上がり、辺りを見渡す。
静けさの中、昆虫の鳴き声が聞こえと同時に白っぽい煙が遠くでくすぶっているのが見えた。
みんなはどうしたのだろう。
アメリア! テオっ。
ミアは立ち上がると走りだした。
意識を失う前に感じた激痛はない。体は軽く、別の体かと思うほどだ。
ずいぶん遠くまで飛ばされたようだ。何度も足を何かに取られて転びながらも、誰か知っている顔はないかと人を捜したが見つからなかった。
残っているのはテントの燃えカスだけだ。
誰もいない。
自分は一人きりになってしまった。
その場にがくりと座りこむ。すると、お腹が熱くなってきた。見ると、宝石が光っている。そして、アメリアから譲りうけた本があった。スカートの上に巻いているベルトに引っ掛かっていた。
ミアは唇を噛んだが、涙があふれ出して止まらなかった。
アメリアは死んでしまったの?
テオは無事なの?
宝石に聞いても何も答えない。
ミアは両手をついて泣いていたが、いつまでもここで泣いていても仕方ないと立ち上がった。
悲しみで心がいっぱいだったが、どこへともなく歩きだした。
何もかも失ってしまった。
どこへ行けばいいの?
もう、どうなってもいい。
自暴自棄になっていた。本当なら見を守るために隠れるべきなのに、姿を見せたまま歩き続けた。
でも、何も起きなかった。
月はない。星は輝いていたが、真っ暗な中を森の中へ入った。
恐怖もなにも考えず歩き続けた。
何日もそうやって歩き続けて、足がようやくくたくたになって立ち止った。
ミアは生きていた。
ゴーレにも見つからなかったし、人さらいにすら会わなかった。
その時、どこかで銃声が聞こえた。
ハッとして立ち止る。狼の遠吠えもしている。
狼がいるのか!
何かの気配を感じた時、ようやく、恐怖がミアを襲った。
ミアは身を低くした。
動くのが怖い。襲われるだろうか。身構えて震えていたが、いくら待っても何も起きなかった。
全身から汗が吹き出し、心臓はざわざわと早く打ち続けたままだ。
体を動かすと草がかさりと音を立てた。
ああ、もう終わりだ!
恐怖で頭が一杯になったが、それでも何も起きなかった。すると、ミアは立ち上がり猛ダッシュで走りだした。
どこからこんな力が湧いて出たのか。
真っ暗な森を無我夢中で走った。
突然、足場がなくなり、崖から転がり落ちた。
ミアは悲鳴を上げてごろごろと落ち続けた。何かに腕をぶつけ、足首をひねったようだ。顔に木か何かが当たり、生ぬるい血が出た。
地上へ叩きつけられた。
身動きできず、恐ろしくて手が震えた。
ここで死ぬんだ。
そう思ったが、何も起きなかった。
ああ、もう、いやだ。
暗い事ばかり考えている。なのに、何も起きないし、もうわけが分からない。
ミアは突然苦笑すると、大声を上げて笑いだした。
お腹がよじれるくらい一人で笑った。
空には星が見えている。
ずっと星は追いかけてきた。
でも、自分は一人だ。
悲しくて苦しくて涙が出る。笑うしかなかった。
ミアは笑うのをやめて、ぼんやりと空を見た。
こうやって空を見上げていても仕方ない。
ミアは体を起こし、手で顔に触れると、指先にべっとりと血がついた。
ケガしたんだ。
腕にも大ケガを負っていた。傷口に触れるとその傷が消えた。
頬にも手のひらを当てると、傷口がふさがるのが分かった。
足首も元通りになる。
アメリアの言葉が思い出された。
救世主は目的を果たさない限り死ぬことはできない。
アメリアは目的を果たしたの?
なぜ、彼女は死んでしまったの?
私のせい?
ミアは自分が落ちた崖を見た。
あんな高いところから転がり落ちたのに、生きているなんて。
唖然として、手で顔を覆った。
歩かなきゃいけないのだ。
ミア。
あなたにはアメリアからたくさんの贈り物をもらったのよ。
お腹に手を当てると、宝石がほんわりと熱くなった。
アメリア――。
テオ。
二人の名前を呟きながら、ミアは歩きだした。