ジュリアン
マロリーから、アナスタシアが回復したと聞いて、ジュリアンは急いで城へ戻った。
ところが、アナスタシアは寝室におらず、外の温室で休んでいるという。
それを知ると、彼は激怒した。
「魔法がきかない外に出るなんて許さん」
ジュリアンは目を吊り上げて、温室へ向かった。しかし、温室の中でイスに座りスープをすすっているアナスタシアを見た途端、一気に怒りが消えた。
「ナターシャ…」
「ジュリアン」
アナスタシアの顔色は明るく微笑んでいる。
今朝まで彼女は息をするのもやっとだったのに。
その彼女がイスに座っている。
ジュリアンは嬉しさのあまり、アナスタシアに駆け寄った。
アナスタシアがそっと手を差し出す。
手を取ると、温もりを感じた。
「心配した…」
抱き寄せてキスしたかったが、ミアやマロリー、そして目つきの悪い魔女が側にいたため、手を握るしかできなかった。
魔女は怖い顔でジュリアンを睨んでいるように見えた。
「お主の城が王女を苦しめておるのじゃ」
「何だって?」
ジュリアンは魔女を睨んだ。
「いきなり何を言う」
「やめて、マレイン。ジュリアン、ごめんなさい。わたしはお城へ戻れないわ」
「なぜだ」
ジュリアンは顔をしかめて、アナスタシアを見た。
アナスタシアは悲しそうに目を伏せた。
「お城がわたしを拒んでいるの。戻ればまた息が出来なくなるわ」
「そんなバカな!」
ジュリアンには信じられなかった。
今までずっと城で過ごして来た。それが今になって息ができないから住めないなんて。
言い訳にしか聞こえない。
「城に戻りたくないのか」
「違うの。そうじゃないの。何かが変わってきている」
「わけが分からない」
ジュリアンは苛々した。
「伯爵…、ナーシャを休ませてくれませんか? お腹の赤ちゃんもナーシャも休息が必要なんです」
ミアがおずおずと言った。
「君がアナスタシアを連れ出したのか」
ミアがびくっとして体を震わせた。
「ジュリアン、ミアを責めないで。わたしがお願いしたの。外へ出たいって」
ジュリアンは納得がいかなかったが、アナスタシアは確かに元気になっている。それが自分の城のせいなのか確信はなかったが、アナスタシアをこれ以上苦しめるのは辛かった。
「分かったよ。今夜はここで眠るといい」
「ありがとう!」
「だが、今夜だけだ」
ジュリアンがきっぱり言うと、アナスタシアの顔がサッとこわばった。
「いいえ、無理よ」
「何だと?」
アナスタシアの言葉にジュリアンはムッとした。
「ここは魔法がきかない。危険だ」
「お願いよ、ジュリアン、お城へは入れないの」
アナスタシアが必死で懇願する。
ジュリアンには理解できなかった。
どうして、分からないのか。
そばにはゴーレの森があり、隣にはキャクタス領があるこの土地がどれほど危険か。
「いや、それだけは許せない」
ジュリアンは言葉を投げつけると、一人で城に戻った。
マロリーが慌てて後から追いかけてきた。
「お館様、奥方様をお許しください。ですが、本当に城から出た途端に、体調がよくなったんです」
「お前もグルなのか」
「そうではないです。俺はただ奥方様が心配で……」
「もういいよ。俺は疲れた。部屋に戻る」
マロリーはそれ以上何も言わなかった。
ジュリアンは自分だけが何だか悪者になった気分になり、むしゃくしゃした。
部屋に戻ると、ドアの前に誰かいる。
目を凝らすと、レイチェルだった。
ジュリアンは足を止めた。
「どうした?」
彼女は手に大きな紙箱を持っていた。
「奥方様のドレスを探してらしたでしょう」
「ああ……」
アナスタシアが病気になり、寝込んでいたためすっかり忘れていた。
彼女の事が気がかりで、仕事も滞っていた。
「気に入って下さるといいのだけど」
「ありがとう。助かったよ。アナスタシアの容体はよくなった」
「え? 本当に? それはよかったわ!」
ジュリアンは紙箱を受け取ると彼女に言った。
「すまないが、少し疲れているんだ。ドレスの代金はマロリーから受け取ってくれ」
「……ええ。分かったわ」
レイチェルは静かに下がった。
部屋に入ったジュリアンは中身も確かめず、机に紙箱を置くとソファにぐったりと座りこんだ。
アナスタシアのいない部屋はガランとしている。
彼女がいないと心にぽっかりと穴が開いたようだった。
朝は苦しんではいたが、寝室にアナスタシアの姿がちゃんとあった。手で触れる場所にいたのに、今は城の外にいる。
ジュリアンにとって城の中は一番安全な場所だった。
温室は守られていない空間だ。
外で過ごすなんて考えられない。
もし、敵が襲ってきたら。
ジュリアンは頭を抱えた。
子供の頃の辛い記憶がよみがえる。
キャクタス国の兵士とダイアンの戦いは壮絶だった。
自分はまだ幼かったため、母親たちが作った特別の部屋で小さくなって震えるだけだった。きょうだいたちも皆、そこで自分の身を守った。
いや、守ってくれたのは、母たちの強力な魔法だ。
魔法でしか、脅威から逃げることはできない。
それもこれも、あの王子が悪いのだ。
ダイアン国の王子。
愛してはならない相手に心を奪われ、強引に自分の物にしようとした罪深い男。
彼は死ぬことも許されず、今やゴーレとなってあの森にいると、キャクタス国王はそう思い込んでいる。
実際の事は知らない。
ただ、噂ではそう言われているのだ。
ただのおとぎ話であれば、どれほどよかったか。
皆がよく知っているキャクタス国とダイアン国のおとぎ話は、ほぼ実話だ。
キャクタス国王は今でも、ゴーレの森を全て消滅させることを望んでいる。
それができないことを承知な上で、ジュリアンに無理な問題を押し付けるのだ。
ジュリアンは息をつくと、休むために一人でベッドに近づいた。
一人で眠るにはベッドはただ広く、冷たいシーツに横になるとアナスタシアを思った。
明日、迎えに行かなくてはいけない。
何があろうと、城の中へ戻ってもらわねばならない。
彼は目を閉じた。
翌朝、起きてアナスタシアがいないことを思い出したジュリアンは、ため息よりも苛々の方が強かった。
ソファに置かれたままの紙箱を見て、プレゼントの事を思い出した。
そうだ。これを渡して機嫌を直してもらおう。
新しいドレスを着たアナスタシアは美しいだろう。
ジュリアンは朝食も取らずプレゼントを持って温室へ向かった。すぐ後ろからマロリーが駆け付け、慌てて声をかけて来た。
「旦那様、おはようございます。今朝の朝食はどちらでお召し上がりに?」
「もちろん、ダイニングルームでアナスタシアと一緒に取るつもりだ」
そう言うと、マロリーが黙り込んだ。
温室の中に入ると、中央部分にあるテーブルとイスに人が集まっていて、アナスタシアが朝食を食べていた。
ジュリアンに気づいて笑いかけると、立ち上がってこちらへ来た。
「おはよう、ジュリアン」
「おはよう。よく眠れたか?」
「ええ。ぐっすり眠ったわ」
アナスタシアがジュリアンの頬を撫でて、心配そうな顔をした。
「あなたの方がお疲れのようだわ」
君がいなくて寂しかった、と言いそうになり、慌てて持っていた紙箱を渡した。
「わたしに?」
アナスタシアが目を輝かせる。
「ああ」
「まあ、何かしら。ありがとう」
アナスタシアは紙箱を開けて、ドレスを見てほほ笑んだ。
「あら、ドレスね」
濃い黄色のドレスは最新の流行の型だった。
ジュリアンはそのドレスを見て、中身を把握しておけばよかったと後悔した。
派手に思えるドレスはどう見てもパーティードレスだ。
アナスタシアは最初、それをじっと見て、自分の体に合わせると、ぴったりだわと嬉しそうに笑った。
「すごく素敵ね。ありがとうジュリアン」
「今度、キャクタスでパーティがある時に着るといい」
「ええ」
アナスタシアは大事そうにドレスを箱にしまった。
「もう、朝食は頂いたの?」
「いや、まだだ」
「だったら、一緒に食べましょうよ」
アナスタシアに手を取られ、イスに座るとマロリーが紅茶を注いでくれた。
ちらりと彼を見ると、目を逸らされる。
ここで、食べてしまえという意味か。
ジュリアンは息をついた。
トマスとソフィーが用意してくれた朝食を食べると、朝からケンカするのもつまらないと思い、これから領土の様子を見にまわってくると言って温室を後にした。
アナスタシアはくつろいでいるように見えた。
馬丁の用意した自分の馬に跨り、森を駆け抜けていると、清々しい天気と風に気持ちが和んだ。
確かに季節はそれほど寒い時期ではないし、日が当たると温室は気持ちがいい。
だが、ジュリアンはすぐに顔をしかめた。
だが、残念ながらあそこは間違いなく城の外側なのだ。
叔母たちは、城の外にまで魔法をかけることはできなかった。
ジュリアンが農場へ行くと、放牧されている牛の様子を見ていた農場主がこちらに気づいた。
「どうも、フォード伯爵」
「どうだ? 順調か?」
「はい。牛の乳もしっかり出ていますし、壊れた柵も直すことができました。餌にも困っていないです」
「それはよかった」
「はい。ありがとうございます。キャクタス国のおかげでゴーレは現れませんし、平和ですよ」
昔はよくゴーレが空を旋回する姿があったが、キャクタス国王が力をつけるごとにゴーレの数は減った。
この辺りには近づくことすらできないだろうが…。
ジュリアンは考えてぞっとした。
キャクタスに近づくゴーレは全て殺されているのではないか。
国王はそれほどにゴーレを憎んでいるのだ。
ゴーレには知恵がないので、彼らにとって危険な場所は理解できない。
ただ、無意味に殺されているだけだ。
いつ、この戦争は終わるのだろう。
ゴーレが消滅したら本当に平和が戻るのだろうか。
考え事をしていたジュリアンは、農場主の声にハッと我に返った。
「伯爵、奥様がご懐妊されたと伺いました。おめでとうございます」
「ああ。ありがとう。情報が早いな」
「もちろんですよ。だって、はるばる遠くから来てくれた王女様でしょう? わしらは大歓迎です。お子様が生まれたらお祝いさせて下さい」
農場主と少し話をしてから、ジュリアンは別の領土を見に行った。
そこは広大な田畑で農作物を作っている人たちだが、皆から先ほどと同じようにアナスタシアの妊娠について聞かれた。
皆にお祝いされるうち、アナスタシアを一人外へ出していることが気がかりになってくる。
いくら、そばに魔女と救世主がいると分かっていても、彼女は自分の妻なのだから。
妻を守るのは自分の仕事だとジュリアンは思った。
少し早目に戻り、城に届いた書簡をマロリーから受け取って目を通していると、エディがあわただしく入って来た。
「ジュリアン、これを見つけた」
彼が差し出したのは、焼けた手紙だった。
ジュリアンは立ち上がり、急いでエディが持っている手紙を受け取った。手紙といっても文面は全て焼けている。しかし、見覚えのある封蝋の一部分が残っていた。
レイモンド卿の紋章は、椿の花をモチーフにした封蝋印だったのを覚えている。
「マシューの部屋の暖炉から見つかった」
「え?」
ジュリアンは眉をひそめた。
「馬鹿な、あの部屋は俺自身が確認した」
「今朝、メイドが暖炉に残っていた灰を掻きだした時見つけたそうだ。間違いない」
ジュリアンが以前確認した時には暖炉の中には何もなかった。
もし、灰があれば気づいたはずだ。
ならば、何者かがあの部屋に入って、わざわざ手紙を燃やした…?
「やはり犯人はマシューか…」
「人を使ってマシューを探しているが、手掛かりはない。姿を見た者もいないし、どこに住んでいるのか何も情報はつかめない」
エディは首を振って答えた。
「手紙の内容は分かっているのか?」
「いや、中身は分からない」
「お前すら知らない内容の手紙を、マシューは盗んだんだ? 彼は何をしようとしているんだ」
エディの疑問はもっともだ。
マシューの目的は何も分からない。
ゴーレの森で待ち伏せしていたのも、マシューの仕業なのだろうか。
「ジュリアン、考えすぎじゃないか?」
「だが、俺たちはゴーレの森で危うく命を落とすところだったんだぞ」
「それはそうだが。あの場に一緒にいたマシューだって殺されたかもしれないんだぞ」
エディの言うとおりだ。
あの森で起きた出来事で誰が得をするのだろう。
「ジュリアン…」
エディの途方に暮れた声がした。
「何を隠しているんだ…?」
「何も…。ただ、手紙の内容を知るのは危険すぎる気がするんだ」
「レノックス卿の死か…」
エディの呟きに、ジュリアンは小さく頷いた。




