アナスタシア
自分の体に異変が起きている。
アナスタシアはそれだけは分かった。けれど、誰にも伝えることができない。
うまく息ができないのだ。
頭は朦朧とし、ジュリアンに名前を呼ばれても口を動かすことすらできなかった。
泣いてなどいないのに、時々、ジュリアンが目のふちを優しく拭いてくれる。
そして、こう囁くのだ。
「大丈夫だ、アナスタシア、心配することは何もない。君はすぐによくなる」
そうなのだろうか。
ならば、どうして彼はこんなに疲労困憊の顔をしているのだろう。
日に日にジュリアンの顔もやつれていく。
アナスタシアは起き上がれない状態でも、夢を見ていた。
元気な足でエリンギウム城を歩きまわっている。そして、秘密の図書室を見つけるのだ。
そこは、ジュリアンの母親たちが使っていた秘密の部屋で、たくさんの書物が置いてある。
そこには二人の女性がいて、彼女たちをよく見ようとするのだが、光が邪魔で見えない。
彼女たちは魔女なのだ。
このエリンギウムには魔法の力が働いている。
二人は囁き合って、そして、アナスタシアに何か言うのだ。すると、夢は突如途切れる。
夢の続きを見ようとすると、マレインの声がした。
「王女! そなたは生きねばならぬ。そなたこそ、この世界を救う救世主なのだからな」
何を言っているのかしら…。
アナスタシアは力なく笑った。
でも、誰にも分かってもらえない。
ミアがそばで泣いている。
「ミア……」
手を伸ばしたつもりだったが、動かせない。
ジュリアンの姿を探したが、彼はいなかった。
いったい、どれくらいの日々が過ぎたのだろう。
アナスタシアは朦朧としたまま、また眠りについた。
耳元で誰かが言い争っている。
マレインとジュリアンだ。
ジュリアンは、アナスタシアの具合が悪いのはマレインの魔法のせいだと言っている。
違うわ、ジュリアン、そうじゃない。
アナスタシアは言ったが、伝えることができなかった。
ミア、あなたなら分かってくれるわよね。
そっと横を向くと、ミアが手を握ってくれていた。
再び気がつくと、部屋の中は静かでジュリアンもマレインもいなくなっていた。
だが、誰かが手を握っている。
ミアだ。
ああ、彼女は大切な友達だ。
こうして、今もそばにいてくれている。
ミアが何だか泣きそうな顔をしている。
「ナーシャ…、何かしてほしい事ある?」
「外へ連れ出して…」
自分の声とは思えないほど、ガラガラ声だった。けれど、精いっぱい伝えたかった。
わたしは、このままではダメになる。
すると、驚いた事にミアがこくりと頷いてアナスタシアの体にかけてあった毛布をはいだ。
「マロリーさん、手伝って」
マロリーがいるのだろうか。
侍女のレイチェルはいないの?
アナスタシアが困惑すると、マロリーの不安そうな声がした。
「けれど、お館様に黙って奥方様をお連れしたら罰を与えられます」
「マロリーさん、ナーシャを見て」
ミアが強い口調で言った。マロリーが黙り込む。
「彼女が外へ出たがっている。ナーシャはいつも外を眺めていた。けれど、フォード伯爵がそれを許さなかった。赤ちゃんのためって言うけれど、今はそれどころじゃないわ。ナーシャの命が危ないの。お願いよ、マロリーさん、ナーシャの気持ちを最優先しましょ」
わたし、そんなに悪いの?
アナスタシアには分からなかった。
なぜ? 何が起きているの。
すると、マロリーは決心したようにこちらを見た。
「奥方様、お体に触れますよ。ああ、お館様、お許しくだされ」
そう言って、アナスタシアの足をベッドから下ろし、そっと自分の肩へアナスタシアの体を担いだ。
マロリーは男性にしては小柄なほうだが、こんなに力持ちだったのか。
アナスタシアの体をやすやすと担ぎ、さっと歩きだした。
ゆらゆらと体が揺れている。
でも、ずっと揺れているから平気だった。
全てが何かふわふわしているような感覚でいたから。
「急いで、マロリーさん」
ミアがドアを開けてから、辺りを見渡して囁いた。
二人は部屋を飛び出し、階段を下りて外へ飛び出した。
城から出ると、アナスタシアの肺に急に空気が送られてきた。
新鮮でおいしい空気が体いっぱいに入り、呼吸がしやすくなる。
アナスタシアは大きく息を吐いた。そして、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
深呼吸して空気を吸っていると、マロリーがギョッとして足を止めた。
「奥方様?」
「ナーシャっ」
ミアが目を見開いてアナスタシアを見た。
「ナーシャが目を開けたわ!」
ミアが言ってその場に下ろしてくれた。
わたしは地面に草の感触を味わっていた。
「生きてる…」
言葉にすると、涙があふれた。
「ナーシャっ」
ミアが後ろから抱きついてきた。
「もう大丈夫よ。大丈夫」
「ありがとうミア、助けてくれて…」
なぜだか分からないけれど、城の中へ戻りたくなかった。
城にいると息ができない。
力を吸い取られる。
「安心して、あなたの言いたいことは分かるから。フォード伯爵に言って温室で看病するわ」
ミアの申し出がありがたかった。
外から眺める城を見て、アナスタシアは息を呑んだ。
灰色の霧のような物が城全体を覆っている。
「ナーシャ?」
「ミア、あれが見える?」
「え?」
「お城を灰色の霧が取り囲んでいるの」
「いいえ、わたしには何も見えないわ」
ミアの言葉にアナスタシアは声が出せなかった。
あれが見えないの?
どこからどう見ても、魔法にかけられた城だった。
この魔法に自分は苦しめられていたのだ。
アナスタシアは首を振った。
お腹を押さえると、赤ちゃんが動いた。
この子たちを守らなくては。
アナスタシアは自分の体に起きた異変に気づいていた。
この魔法がわたしをダメにしているのだ。
「入れないわ…」
「え?」
ミアが不安そうにアナスタシアを見た。
アナスタシアはおびえた目で城を見つめ、もう一度呟いた。
「魔法が解けるまでわたしはお城の中へは入らないわ」




