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アナスタシア



 それから数日後、エドワードが、レイチェルという名の侍女を連れて来た。

 レイチェルは落ち着いた雰囲気の女性で、アナスタシアよりも5歳年上の29歳だった。豊かな黒髪とブラウンの瞳をしている。話す時、表情に色っぽさがあり、とても美人で、腰は細くメリハリのある体つきをしていた。

 一度、結婚をしたが現在は離婚して一人だ。子供はおらず大きな屋敷の侍女を長年続けてきたという。


 アナスタシアは一目でレイチェルが気に入った。


「よろしくね、レイチェル」

「奥方様、心からお世話をさせていただきます」


 レイチェルは早速アナスタシアの髪の毛を結ってくれた。

 こんなに難しそうな髪型を数分で仕上げるのだから大したものだ。


 鏡の中のアナスタシアは、自分では出来ない髪型に満足した。


「ありがとう。首筋が涼しくなったわ」

「奥方様は首が細いから何でも似合いますわ」


 レイチェルになら任せられる。

 アナスタシアは確信した。


 レイチェルが来て城の状態もだいぶ落ち着き、ジュリアンとの日々も穏やかに過ぎていったある日、アナスタシアは妊娠をした。


 妊娠しているのに気づいたのはミアだった。


 ミアが魔法の勉強のお休みの日、城のすぐそばの森にランチに出かけた日だった。


 その日、アナスタシアは朝から気分がすぐれなかったが、城にいるのも息苦しいため、ミアを誘って外へ出かけた。

 柔らかい日差しが照り、気持ちのいい空気でアナスタシアの気持ちもほぐれると思ったが、ランチのサンドイッチを見た途端に吐き気がした。

 それを見たミアがあっと口を押さえた。


「大変だわ! 妊娠しているのよっ」


 ミアが大はしゃぎして、レイチェルと一緒にアナスタシアを支えて急いで城へ戻った。すぐにジュリアンに報告し、マレインがやって来て、町から医者を呼び、アナスタシアが妊娠していることが確定した。


 その時のジュリアンの顔はたぶん、喜んでいたと思う。

 あまり、感情が顔に出ないから分かりにくいが、笑顔だったのは確かだった。

 大好きな彼の笑顔を久しぶりに見たと思った。


 最近では、仕事が忙しくあまり話もできなかったが、その日だけは早めに仕事を切り上げて二人で過ごす時間を作ってくれた。


 ソファに座り、隣にいるジュリアンを見ているだけでドキドキした。

 アナスタシアはまだ片思いのような気持ちで彼を見ていた。


「信じられないな、この小さなお腹に赤ん坊がいるなんて」


 アナスタシアはぺたんこのお腹を見ながら、自分でも驚きだと思った。


「わたしも信じられなかったんだけど、ミアは妊娠している女性を何人も知っていると言っていたから、間違いないって」


 ミアが以前、どんな仕事をしていたかはジュリアンには詳しく伝えていなかった。


「そうなのか。まあ、早く気づいてよかった。これからは大事にしてくれ。出来るだけ出歩かない。早めに体を休めて元気な赤ん坊を産んでくれ」

「病気じゃないのよ。普通に生活していいってお医者様も言っていたわ」

「そうだったな」


 ジュリアンはそう言ったが、納得していない。アナスタシアは息をついた。


「あなたの言うとおりにするわ」


 ジュリアンの顔が近づいて来て頬にキスをされる。


「ナターシャ、自分の体の事を一番に考えてくれ」

「ええ、ありがとう」


 アナスタシアは夫の手をぽんと叩いた。


 妊娠したことが分かったその日の夜、アナスタシアは不思議な夢を見た。

 しかし、不思議な夢を見たという記憶だけで、内容は全く思いだせず目を覚ました。

 隣にいるジュリアンはぐっすり眠っている。


 アナスタシアはお腹に手を当ててみた。

 本当にこの中に命が宿っているのだ。

 しかも、愛しているジュリアンの子供なのだ。

 これ以上、嬉しいことがあるだろうか。

 アナスタシアがお腹を撫でていると、ジュリアンが目を覚ました。


「どうした? 痛むのか?」


 体を起こして心配そうな顔をする。


「いいえ、嬉しくってつい」


 アナスタシアが笑顔になると、ジュリアンが両肩を抱き寄せた。


「俺も嬉しいよ」


 ぎゅっと強く抱きしめられる。アナスタシアは背中に腕をまわすとさらに抱き寄せられた。

 この人の妻になれて、本当に幸せだった。


 あまり出歩くなと言われても、何もしないわけにはいかない。アナスタシアは、厨房の様子を見に窺った。ソフィーとトマスが忙しそうに働いている。アナスタシアを見て、ソフィーが飛んで来た。


「奥方様! おめでとうございます」

「ありがとう。ソフィー」

「お腹が減ったのですか? 何かおつくり致しましょうか」

「いいえ、違うの」


 お腹がすくにはまだ早すぎるわ、と思いながら、厨房で足りないものや困っていることはないか聞いてみると、何も不自由していません、大丈夫ですと言う返事が返ってきた。

 その時、厨房のテーブルでマシューがイスに座っているのが見えた。目が合うと、彼はにっこり笑って近づいて来た。


「アナスタシア様、妊娠おめでとうございます」

「ありがとう」

「あなたは日に日に美しくなられる。きっと、生まれて来る子供もさぞ美しいでしょう」

「あなたにそんなふうに言ってもらえるなんて、嬉しいわ。ありがとうマシュー」

「少し歩きませんか?」


 マシューに誘われて厨房を出た。


「ここへ来て数日経ちました。おかげで何不自由なく過ごせましたが、そろそろ次の町へ移動しようと思うのです」

「あなたのお仕事はゴーレの研究だったわね」

「ええ」


 マシューが頷く。


「王女のおかげでいろいろ学ぶことができました。それに見ず知らずの僕の面倒まで見てくれた。あなたには本当に感謝することばかりです」

「いいのよ。でも、あなたがいなくなったら寂しいわ」

「また会えますよ」

「いつでも会いに来てちょうだい。遠慮しなくていいのよ」

「アナスタシア様…」


 マシューは言葉を切って、アナスタシアをじっと見つめた。


「あなたは本当に美しい。僕はあなた以上に美しい人を見たことはない」

「そんな、大げさだわ」


 お世辞と分かっていても、思わず笑顔になってしまう。


「あなたは大切なお友達よ。マシュー」

「僕も心からそう願います」


 マシューがアナスタシアの手の甲にそっとキスをした。


 挨拶だと分かっていても、マシューは熱っぽい目で自分を見ている気がした。

 頬が火照ってくる。

 夫がいるのに不謹慎だわと思い、アナスタシアは微笑んだ。


「あなたはきっと魅力のある旦那様になれるわ」

「ええ。僕もそう思いますよ」


 マシューが冗談を言って二人で笑った。


「さっき、厨房で少し食糧を分けてもらったんです。昼食も早めに食べさせてもらったからすぐに出発します」

「今から? ジュリアンには伝えたの?」

「フォード伯爵にも挨拶は済ませました」

「そうだったの。では、お見送りするわ」

「ありがとう」


 マシューが借りている部屋から荷物を取って出てきた。

 荷物は背中のリュック一つで他は何もない。


 アナスタシアは、なんとなく胸がざわざわした。

 玄関まで見送ると、マシューが振り返った。


「マシュー、本当に行ってしまうのね?」

「ええ。ありがとうございました。アナスタシア様、あなたとの時間が僕にとっては宝物だ」


 彼は微笑むと静かに城を出て行った。

 アナスタシアは一人で見送りながら、目が熱くなった。


 テオが去り、マシューまで行ってしまった。

 マシューとはほんの短い期間だったが、気の合う友達のように思えていた。

 寂しいけれど、彼だって仕事があるのだからいつまでもここにいるわけにはいかない。

 分かっているけれど、やはり別れは辛かった。


 身を翻し城の中へ入ると、回廊にレイチェルの後ろ姿が見えた。誰かと話をしているらしい。誰だろうと思ってみると、相手はずいぶん背の高い男性のようだ。

 すぐにジュリアンだと分かった。


 彼は町へ出かけたと思っていたが、ちょうどいい。

 今しがたマシューが出て行った事を伝えようと声をかけた。


「ジュリアン!」


 呼びかけた時、彼の肩がびくっとしてこちらを見た。

 その顔はずいぶん険しかった。


「どうかしたの? 何かあったの?」

「いや、なんでもないよ。どうしたんだ? こんな所で」


 ジュリアンがアナスタシアの方へ来ると、レイチェルはお辞儀をして、どこかへ行ってしまった。


「ごめんなさい。お話し中だったのかしら」

「いや、構わないよ。大したことではないんだ。それより、何かあったんだろ?」

「マシューが今出て行ったの」

「えっ?」


 ジュリアンは一瞬、驚いて口を開けたがすぐにまた怖い顔になった。


「出て行った? なぜ」

「彼はゴーレの研究をしているの。そのために旅をしているって言っていたわ。あなたにも報告したって」

「いや、俺は何も聞いていない」


 ジュリアンがむすっとして部屋に向かって歩きだす。

 アナスタシアは彼を追いかけた。


 二人は仲が悪かったのだろうか。

 アナスタシアは申し訳ない気持ちになった。


「あなたにお礼を言っていたわ。短い間だったけどお世話になりましたって」

「そうか…」


 咄嗟についた嘘に、ジュリアンは少し気分が落ち着いたようだった。

 立ち止って手を差し出す。アナスタシアはその手を握って二人で歩き始めた。


「テオやマシューまでいなくなったから、何だか寂しいわ」

「君には君の役割がある。無理に出歩かず、体を労わってくれ」

「ええ、そうね…」


 ジュリアンの言葉に少し傷ついた。

 確かに自分には役割がある。

 まずは元気な赤ちゃんを産むことだ。


 わたしはこの城で母親にならなくてはならないのだ。

 でも、何だかもっと大切な事があるような気がしてならない。


 アナスタシアは隣にいるジュリアンが近くにいるはずなのに、心は遠いままのような気がした。





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