アナスタシア
エドワードが町から数十名の人を連れて来てくれたおかげで、城の中が少しずつきれいになっている。
エリンギウムはケイン程ではないが、人手がないと暮らすには不便だ。
アナスタシアはさっきのキスで、彼の唇の感触を思い出し、ぞくりと身震いしてはため息をついた。
ぼーっとしている目の前で、せっせと使用人たちが埃をはらったり、床をモップがけしたりと大忙しだ。
アナスタシアは邪魔をしないように、外を散歩しようと思った。
ジュリアンを探しに書斎へ入ると、机に向かって何か書き物をしていた。
「アナスタシア」
ジュリアンがすぐに気づいた。
「どうしたんだ?」
顔を見るだけで、自分の頬が火照ってくる。
「みんなの邪魔になるから、外を散歩しようかと思うの」
そう言うと、ジュリアンが手をそっと握った。
「だったら、城の案内がまだだったね。一緒にまわろう」
「本当に? 嬉しいわ!」
アナスタシアは、ジュリアンの体に抱き付いてハッとした。また、キスをしてくれるかしら、と思ったが、彼は優しく背中を撫でた。
腕を取って部屋を出る。
アナスタシアは、がっかりした顔を見られないよう笑顔を作った。
城には部屋がたくさんあった。
客室もたくさんあり、音楽室、図書室、肖像画の部屋、ダイニングルーム、大広間、応接間、居間、使用人たちの部屋などだ。
部屋を見るのは楽しかったが、どこに行っても使用人たちが掃除をしている。
廊下がきれいになって、カーテンが外され、外の光が入って来ていた。
たいまつも全て入れ替えるか、明かりに替えるか検討していると言った。
「アナスタシア、君のおかげで城はこうして生まれ変わった。感謝しているよ」
ジュリアンが珍しく穏やかな口調で静かに言った。
アナスタシアは自分はそれだけのために来たのではなかったが、彼が喜んでくれるなら嬉しかった。
「これからが楽しみだわ」
「ああ、やることが山積みだがね」
苦笑して、領地の話を聞かせてくれた。
驚いたのは、サッサス領は、ケインの国土の3分の1程度の土地を所有している事だった。
アナスタシアは、ここが元ダイアンであることを知っていたため、すぐに理解した。
「元ダイアンの土地だった場所をあなた方が相続したのね」
そう言った瞬間、ジュリアンが大きく目を見張り、喘ぐように息を吐いた。
「なぜ、そのことを知っている…」
「なぜって、元ダ…」
ジュリアンに引き寄せられ口を塞がれる。使用人がギョッとしてそそくさといなくなった。
ジュリアンは、アナスタシアの手を引っ張り目の前の部屋に入った。そこは客室で埃まみれの部屋だった。
キスでぼーっとしていたアナスタシアは大きく息を吸った。
「わたし、まずいことを言ったのね」
「その国の名は禁じられている」
「何かあるの? 教えてくれなきゃ、あなたはキスでくたくたになるかもよ」
アナスタシアの冗談にジュリアンは笑わなかった。アナスタシアの両肩をぐっと掴みまじめな顔で言った。
「アナスタシア、ここはキャクタスに支配されてからどこで監視の目が光っているか分からない」
アナスタシアは目を見張った。
今もどこかで誰かが観ているのだろうか。
ぞっとして身震いすると、ジュリアンが抱き寄せた。
「この会話も監視されているの?」
声が震える。ジュリアンは首を振った。
「そんなはずはない。そんなことができるはずがない。しかし、禁じられた言葉には敏感だ。何かが起こる」
信じられなかった。でも、ここで暮らす彼が言うのだから、嘘ではないのだろう。
「分かったわ。かの地について口にすることをやめると約束するわ」
「テオとミアにも忠告しなくては」
「知っているのはわたしだけよ」
ジュリアンが顔をしかめた。
「なぜ、君は知っているんだ」
「わたしは救世主として育てられた。マレインからありとあらゆる書物を与えられたの」
救世主について書かれてあることを学んだのに、自分については無知だった。この瞳を宝石と思いこむなんて、本当に愚か者だ。
思い出すと悔しくて唇を噛みしめた。
ジュリアンが気づいて肩を撫でてくれた。
「ねえ、それで、このエリンギウムには魔法が張られているの?」
ジュリアンが小さく頷いた。
「かの地に嫁いできたキャクタスの子孫には魔法の力がある。魔力は女性にだけ受け継がれ、俺の母とエディの母は姉妹でその血を受け継いだ。
「あなたは、じゃあ…」
「それ以上想像しない方がいい、ナターシャ。ここは本当に危険なんだ」
ジュリアンは何を恐れているの?
アナスタシアは自分から彼にキスをした。
「あなたを守ってあげるわ。ジュリアン」
「それは俺のセリフだ」
ジュリアンがくすっと笑った。
「明日、キャクタス王に会う。その時、君は理解してくれるだろう」
明日。ああ、なんて長い一日だったのだろう。
だいぶ、夕日が陰って外は暗くなっていた。
ぽつぽつと使用人がいったん町へ戻り、残りの数名と面接をして夕食となった。
アナスタシアはくたくただった。
トマスとソフィーの料理はとてもおいしかった。
凝った料理ではなかったが、あの惨状の調理場でよく料理ができたものだ、と感心する。
誰もがへとへとに見え、ようやく部屋へ戻ると寝室は見違えるほどきれいになっていた。
新しいマットレスに清潔なシーツ、上等の上掛け、それらを見ただけで心が安らいだ。
バスタブで体の流れを落としてネグリジェに着替えた。
ふと、数日前の事を思い出す。
苦い思い出だけど、まるで自分が別の世界の住人のように思えてくる。
わたしはもう、アナスタシア・ノヴァラ・ルーゼではなく、アナスタシア・リンジー、フォード伯爵夫人なのだ。
アナスタシアはエリンギウムに来てようやく実感した。
天蓋付きのベッドへ近づき、シーツに横になる。眠くて仕方ないが、ジュリアンを待っていよう。
しかし、横になった途端に深い眠りに包まれた。
眠っていたのはどれくらいだろう。
がたっと音がしてアナスタシアは目を覚ました。部屋の中は薄暗く、明かりがともっていない。
「ジュリアン?」
アナスタシアが彼の名を呼ぶと、ベッドのそばにジュリアンが立っていた。
何だか顔をしかめているように見えるのは気のせいだろうか。
「どうかしたの?」
起き上がって心配すると、彼は首を振って反対側からマットレスに手をついてベッドへ入ってきた。
「いや、君を起こしたくないと思ったのに、何かに足をぶつけたようだ」
「わたしの衣装ケースかしら。ごめんなさい」
明日のドレスの用意をしてそのままにしていた気がする。
ジュリアンが枕に横になると、
「おやすみ」
と彼は静かに言った。
アナスタシアは急にドキドキしてきた。
「ジュリアン、眠いの?」
返事がない。きっと、眠くて仕方がないのだ。
がっかりして自分も眠らなければと思った。
しかし、隣では寝がえりを打ったりため息をついたりする音が聞こえる。
きっと眠れないのね、と思ったアナスタシアはもう一度、話かけた。
「今夜は外に人はいないのでしょう」
「ナターシャ」
ジュリアンがため息をついて呆れたように言った。
「眠らないのか」
「何か話をして」
「話?」
ジュリアンがこちらを向いて囁き返す。
声をひそめる必要もないのに、アナスタシアはおかしくてくすっと笑うと、ジュリアンが手を伸ばし自分の頬に触れた。
「君の目は本当に綺麗な紫色だ」
じっと見つめられドキッとする。
「暗くてもよく分かるよ」
そうだろうか。
救世主だと思いこませたこの瞳を何度、憎んだか知れない。
目を閉じると唇に息がかかり、ジュリアンがそっとキスをされ、抱き寄せられる。
アナスタシアはドキドキしたが、ジュリアンの肩に両腕をまわした。
二人の体がぴったりとくっつくと息が止まりそうになった。ジュリアンがさらに抱き寄せ、彼の太ももや足で身動きが取れなくなる。
なんて硬い背中と肩幅なのだろう。
ジュリアンがアナスタシアの額の髪の毛をかき分けてキスをする。頬や鼻、そして、首筋を撫でるようにキスしていく。
アナスタシアは息をするのがやっとだった。
あの日の夜と違って、彼は優しかった。
ネグリジェの前身頃のリボンを解かれ、脱いでと囁かれた。
恥ずかしかったが、ジュリアンにもっと触れて欲しいとアナスタシアは思った。
全て脱いでしまうと、ジュリアンがじっと見つめて言った。
「君は美しい」
「ありがとう…」
声が震えた。目が潤むと、ジュリアンは重みがかからないよう覆いかぶさってきた。
肩口にキスをして、
「傷がない…」
と言った。
「ええ」
「よかった」
ジュリアンも裸になる。
お互いの目を見つめ、アナスタシアは涙を滲ませて笑った。
「ジュリアン、ありがとう」
ジュリアンがアナスタシアを抱き寄せ、深く情熱的なキスで応えた。
翌朝、アナスタシアはぱちっと目を覚まし、一瞬、自分がどこにいるのか考えた。
そして、すぐに目の前にあるジュリアンの顔を見て、夕べの事を思い出し顔が熱くなった。
アナスタシアは何もかもが初めてでキス一つ上手にできない。
ジュリアンと一つになる時、アナスタシアは痛みと怖さでなかなか思うようにいかず、時間がかかった。それでもジュリアンは文句一つ言わず、アナスタシアを慰め優しくしてくれた。
初夜の事は思い出すまい、と思うがどうしても比較してしまう。
父の側近やエドワードは不振に思わなかったのしら?
あんなに大変で時間がかかったのに…。
想像にふけっていると、いつの間にかジュリアンが起きていて目があった。
「おはよう」
挨拶をするジュリアンの顎にはうっすらと髭が生えていた。
アナスタシアは無意識に体をすりよせていた。
胸に顔をうずめ、彼の体温を感じる。
ジュリアンが何も言わずキスをしたが、残念そうに体を離した。
「カール国王は時間にうるさい。もう、起きなくては」
「ええ」
アナスタシアはゆっくりと体を起こし、シーツで体を隠した。
ジュリアンが気づいて、ガウンを取ってくれる。
夫はてきぱきと自分だけ衣服を身に付けた。
「ゆっくり着替えるといい。誰か呼んでこよう」
軽くキスを頬にして出て行った。
アナスタシアは一人になり息をついた。
ジュリアンとくっついていたい。
甘えたい気持ちで頭がいっぱいだ。
ベッドを見ると、しわくちゃのシーツは確かに以前と違って見える証が残っていた。ほんの少し色がついたシーツ。
わたしはようやくジュリアンの妻になったのだ。
アナスタシアは誇らしい気持ちでいっぱいになった。




