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アナスタシア





 アナスタシアは震える足を必死で動かし廊下へ飛び出した。


 わたしは奴隷じゃないわ。

 頭があるの。考えることもできるし、判断力もある。

 自分を一人きりにしたジュリアンに気持ちを分かってもらおうと、ほんの少し意地悪のつもりで言ったのに、逆に命令するなと怒鳴られた。


 命令なんてしたつもりない。

 アナスタシアは足を止めてうなだれた。


 彼を困らせるような事、言うんじゃなかった。


 わたしは王女だった。

 わがままは身について簡単には治らないのかもしれない。

 末っ子で甘やかされたから、きっと他人から見たらどうしようもないくらいわがまま王女に見えるのかもしれない。


 自分では分からない。

 どうすればいいの?


 歩いているうちに、ここがどこなのか分からなくなってしまった。

 廊下の隅には埃が舞い、窓枠には鉄格子がはめられ、たいまつの火がところどころに燃えている。

 それでも廊下はとても長く、どこまでも続いている。

 ドアはたくさんあっても、ノブが壊れている個所もあった。


 まるで幽霊屋敷だわ。

 幽霊なんて見たことないけれど。


 その時、前から、黒い人影が見えた。

 アナスタシアはドキッとして身構えた。

 相手は細身でローブを身につけている。影はゆっくりとこちらへ近づいて来た。


 アナスタシアは逃げようとしたが動けなかった。背筋が冷たくなる。


 ああ、助けて、ジュリアン…。


 夫の名前を呼ぼうとして、手を合わせた。

 すると、黒いローブの人間はアナスタシアの前で立ち止まりフードを脱いだ。

 アナスタシアは小さく悲鳴を上げた。


「マレイン! どうしてここに?」


 ケイン国つきの魔女、マレインだった。

 彼女はじろりとアナスタシアを睨んだ。


「わしがお主を一人で旅立たせると思ったか?」


 ずっと姿がなかったから、てっきりケイン国に残るのだと思っていた。

 時々、辛辣な事を言うけれど、心が折れているときに知った顔を見ると、アナスタシアは嬉しかった。


「ああ、あなたがいてくれて心強いわ。マレイン」

「ほお」


 マレインが片方の眉を上げた。


「珍しいこともあるもんだ。王女に褒められたのは初めてだね。だが、こんなところに一人でいてはいけないよ。アナスタシア王女。危険すぎる」

「あなたの予言は当たらなかったわ。ジュリアンは、わたしを嫌っているの」


 思わず弱音を吐いてしまった。


「あんたのような美しい王女を嫌う男がどこにいる」

「残念だけど、ここにいるの」

「わしを侮辱するのは許さんよ。あの者はお主を宝石のように大事に扱うのだ」


 もう、わたしは宝石じゃないのに。


 逆らっても仕方ないので、アナスタシアはマレインの後をついて歩き始めた。


「わしが教えたことは守っていれば、お主は幸せになれる」


 マレインが教えてくれたことは、分別、学問だ。

 規則、礼儀作法、ダンスに音楽は家庭教師から教わった。


 わたしに足りないのは何?

 思いやりね、きっと。


 肩をすくめると、マレインが怒鳴った。


「何だ、その態度は。品がない」

「ごめんなさい」


 怒られてばかりだ。


 マレインにとって、この城は初めてのはずなのに、まるで前から住んでいたかのように、迷路のような廊下をためらいもなく歩き、階段を下りてドアの前で止まった。

 中からがやがやと声がする。


 ドアを開けると、話し声がピタッと止まった。

 てっきり、ダイニングルームへ行くと思っていたのに、アナスタシアはそこが調理場であることに気づいた。

 テオとミア、そして、トマスとソフィーが片づけをしている。


「ナーシャっ」


 床をモップがけしていたミアが駆け寄って来た。


「ごめんなさい。まだ、支度が出来ていないの。閣下とあなたがテーブルについたらお出ししようって話をしていて、ここがきれいにならないと、食事は作れないってトマスが言うの」


 トマスが出てきてお辞儀をする。


「奥方様、お腹が空いたでしょう。さっき、マロリーさんに頼んだら、新鮮な野菜とチーズを町から買って来てくれました。サンドイッチぐらいしか作れませんが、熱い紅茶とお出しします」


 それを聞いて、すっかりお腹が空いていることに気づいた。

 ジュリアンとケンカしたこともすっかり薄れ、アナスタシアは心からありがたく思った。


「ああ、ありがとう。トマス。あなた方がいてくれなかったら、わたしは本当に飢え死にするところだったわ」

「わしがいる限り、王女が飢え死にすることは絶対にあるまい」


 後ろからマレインが出て来て、みんながギョッとする。ミアもハッとして息を呑んだ。


「みんな、紹介させて。彼女はマレイン。わたしの教師だったの」


 マレインがにやりと笑う。そして、ミアを見た。


「目覚めたようだの。救世主」

「その呼び方はやめて下さい。知らない人が聞いたら驚きます」


 ミアが硬い口調で言った。


「いいだろう。さて、ミアよ。お前はまだ、力の使い方を理解しておらん。わしはアナスタシアと救世主が深いかかわりを示すと予言したのは、お前が全ての力を使えるようになってからだ」

「どういう意味ですか?」


 テオがミアの側に寄り、肩を抱き寄せた。まるで、ミアを奪われまいとしているしぐさに見えた。

 ミアもテオの背中に腕を回す。


「力の使い方を教えてやろう」


 ミアが驚愕している。

何も言えず、目を見開いたまま、マレインを見ている。


 マレインを恐れるのも無理はない。

 彼女は人の心の奥底まで見抜く。

 ほんの少しの心の動きを読み取り、そこを突いてくる。自分の弱みを指摘される程、恐怖はない。


「お主は世界を平和に導くのだろう? 今のままで何ができる。できることはほんのわずかだ」


 ミアは悔しそうだった。

 二人きりの時、言っていた。自分に出来ることは少ないと。

 ミアは決心したように顔を上げ、テオから体を離した。


「お願いします。わたしに力の使い方を教えて下さい」


 マレインがニヤッと笑った。


「よく言った」


 ミアに歩み寄り、懐から小さい杖を取りだした。


「ミアと王女にわしからの祝いじゃ」


 杖を一振りした時、ぴかっと部屋が光り、人々の体がその衝撃で吹き飛んだ。


 叫ぶ間もなく、全員が壁に激突した。


 アナスタシアは右肩を強く打って倒れた。

 すぐには起き上がれず、何が起こったのだろう、と思った。


 ゆっくりと手をついたが、右の肩が痛い。

 何とか起き上がってみると、調理場がめちゃめちゃになっていた。

 マレイン自身がびっくりして、真ん中にたたずんでいる。杖が粉々になって、手を押さえていた。


「なんてこった。この城全体に魔法がかかっておる…」


 茫然と呟いた。


 トマスはソフィーをかばい、二人は起き上がって無事のようだ。

 テオとミアも机の下から這い出てきた。そして、アナスタシアを見て口を押さえた。


「ナーシャ、けがをしているわ!」

「え?」


 見ると、右肩を押さえていた手が血で濡れていた。


「あ…」


 アナスタシアはふらっとその場にしゃがんでしまった。

 ミアがすぐに駆け寄って来た。


「大丈夫、すぐに治してあげる」


 ミアが手を当てようとすると、マレインが叫んだ。


「やめよ! この城で魔法は使えん!」

「え?」


 ミアの手が止まる。


「わしはただ、お主らに食べ物でも出してやろうとしただけだ。まさか、跳ね返されるとは思っていなかった。力が強いほど、跳ね返る力は強い」

「じゃ、どうすれば…」

「外へ出るのじゃ。そこなら魔法が使えるだろう。わしも油断していた。先代の城主はよほど恐れたと見える」


 何を恐れたというの?


 アナスタシアはぼんやりと思った。


「大丈夫?」


 ミアが心配そうな顔をしている。


「ええ…」


 アナスタシアは力なく答え、自分がどうなっているのだろうと思った。


「わたしの体、どうなっているの?」


 ミアが肩を見て、大丈夫とだけ言った。


「血が出ているだけ。何か木の破片が刺さったのだわ」


 テオが、アナスタシアを抱き上げて歩きだした。

 アナスタシアは痛みに顔をしかめた。


「ごめんなさい、重たいでしょ」

「ミアより軽いくらいだ」


 テオが言うと、ミアがその背中を軽く叩いた。

 ノブに手をかけると、開ける前にドアが開いて目の前に血相を変えたマロリーとジュリアンが立っていた。


「誰か魔法を使ったな。この城で魔法を使う事は許され…。アナスタシア?」


 すぐに彼はアナスタシアが負傷しているのに気づいた。

 目が怒りに変わる。


「これはいったいどういう事だ」


 テオの腕で震えているアナスタシアの顔色はどんどん悪くなっていく。


「ごめんなさい、閣下。アナスタシアの傷を治すために城の外へ行こうと思うのです。わたしなら傷を治せるから」


 ジュリアンは驚いてミアを見た後、傍らに立つマレインを見た。


「魔法使いか、どこから入ったのだ」

「わしは王女の行くところへはどこへでもついて行く。さあ、急いでいるのだ。おどきなされ」


 ジュリアンは何か言いたそうだったが、アナスタシアのケガを一番に考えたようだった。ミアに尋ねる。


「本当にアナスタシアの傷を治せるのか?」

「ええ、できます。でも、このお城では力を使っちゃダメって」

「その通りだ。アナスタシアを俺に渡してくれ」


 テオからアナスタシアをそっと受け取り、抱きかかえると彼は急いで歩きだした。


「ここからの方が早く外へ出られる」


 アナスタシアはジュリアンの腕の中で息をついた。

さっき、言い争いをしたのに心配してくれるのだろうか。


 ジュリアンは急ぎ足で回廊を抜けると外へ飛び出した。ミアがすぐ後ろから出て来て、草むらに寝かせたアナスタシアの傷に触れた。

 ミアの手は冷たく感じられた。

 肩が焼けつくように痛んだが、ミアが触れると血液の流れがはっきりと感じられ、体がぞくぞくした。


「ジュリアン…」


 手を出すと、彼が握り返してくれた。


「アナスタシア」

「もう、大丈夫よ」


 ミアが声をかけ、アナスタシアは痛みが全くないことに気づいた。

 ゆっくりと起き上がる。

 こわごわ右肩をまわして見た。痛みがない。


「ありがとう、ミア」

「本当によかった」

「すごいわ。あなたは本当に救世主よ」

「でも、大したケガでなかったからよかったけど、命にかかわっていたら、間にあわなかったかもしれない」


 ミアがぞっとしたように言った。


「その通りじゃ。だから、すぐにでも力の使い方を教える必要がある」


 ジュリアンがアナスタシアを立たせて、他に傷がないかを確認すると、マレインを睨んだ。


「どういうことか、説明してもらおう」

「ジュリアン、彼女はマレイン。わたしに勉強やしつけについて教えてくれたの。乳母と同じように幼いころから、面倒を見てくれたわ」


 マレインは、ジュリアンを見つめてから、いつもよりおとなしい口調で話した。


「閣下を怒らせるつもりはございませんでした。わしは見ての通り魔女です。ここへ来たのは、救世主のお手伝いをさせていただくため、さっきの魔法は調理場で王女のために食べ物を贈って差し上げようとしたら、倍返しになり、跳ね返されたのです。ということは、この城にも魔法が使える者がいるのではないですか?」


 ジュリアンは無言でマレインを見つめた後、アナスタシアの手を取って、城の方へ歩き出した。


「フォード伯爵!」


 マレインが後ろから呼び止める。


 ジュリアンは足を止め、その場にいる全員に言った。


「話は全部、城の中でする。皆、朝から何も食べていないだろう。ダイニングルーム(食堂)に全員集まり、今後について話し合いたいと思う」

「承知いたしました」


 マレインが答えた。


「ミア、アナスタシアの着替えを手伝ってやってくれ」

「分かりました」


 ミアは、アナスタシアに駆け寄り体を支えた。


「もう、大丈夫よ」

「そばにいるわ、ナーシャ」

「ありがとう」


 ミアの心遣いが嬉しかった。





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