ジュリアン
部屋を出たジュリアンは自分を抑えるのに必死だった。
あと少しでキスをするところだった。だが、アナスタシアのけなげな瞳を見て、自分が卑劣で愚か者だった気がしてならない。
真実を隠していたにも関わらず彼女はわめきもせず、城を出て行くとも言わなかった。
この城では呼び鈴を鳴らしてもすぐに召使いや執事が飛んでくることはあり得ない。なにせ、執事しかいないのだから。
ジュリアンはすぐにでもエディと話をしなくてはと急いだ。
エディは部屋にいるだろうか。
彼の部屋には誰もいなかった。この城でまともな部屋は調理場くらいだ。あそこにはテーブルとイスがある。
ジュリアンがそちらへ行くと、案の定、エディがテーブルにもたれて、ワインとチーズを手に、トマスとソフィーと談笑していた。自分を見ると片手を上げてにこりと笑う。
「今、トマスと話をしていたところだ。二人ともこの城についてびっくりしているが、ここは快適だと褒めていたところさ」
「それはよかった。エディ、少しいいか?」
「ああ」
エディはワインを飲み干すとそこに置いて、ジュリアンに次いで部屋を出た。廊下に出るなり、エディの顔付きががらりと変わった。
「書斎へ行こう」
彼が先に言って歩き出す。ジュリアンもすぐ後についた。
中に入るなり、エディは肩越しにジュリアンに言った。
「言いたいことは分かっている。ゴーレの森についてだろう」
「そうだ」
ジュリアンはドアをしっかり閉めた。二人はいつもの定位置についた。
ジュリアンは書斎の椅子へ、エディはそばの肘掛椅子だ。
「ゴーレの森を出てすぐに待ち伏せされていた。こんな事は今まで一度もなかった。あり得ない事件だ。我々が来ることを知っており、ゴーレの恐ろしさを知らない人間。つまり、ケイン国を出国する前に、先回りした裏切り者がいる」
エディはマホガニーのデスクに置いてあるウイスキーのデカンタを取ろうとしてやめた。
ジュリアンは頷いた。
「俺も考えていた。あの森のそばで争いを起こそうとする輩はよほどのアホウか、雇われた人間だろう」
エディは信じられないとばかりに首を振った。
「ジュリアン、用心した方がいいな。犯人が誰か突き止めるまで、アナスタシアのそばを離れるのは危険な気がする」
「分かった」
ジュリアンは頷いていとこを見た。
「君も用心してくれ」
「分かっている。これからメイドを増やすのだから、人選は慎重にしなくてはいけない。ぼくの使用人も何人かこちらへまわそう。見えない敵がいるからといって、行動を起こさないわけにはいかない」
「その通りだ」
ジュリアンは頷いた。
領地を生かすために、いろいろ計画は立ててあった。
ワイン畑にヤギやヒツジが野放しの牧場。
ジュリアンの暮らす土地は本当に自然豊かだ。人が集まりさえすれば、すぐに収益がたまるはずだ。
あのゴーレの森、ダイアン国の城があった場所をのぞいて、人々が自由に行き来できる場所は全てジュリアンの土地だった。
「明日にはキャクタス国王に挨拶をしに行かねばなるまい」
エディの言葉にハッとする。
重要な事を忘れていた。
魔法の力で全てを破壊したキャクタス国王、カール2世。
あの王は、人の心を読むこともできる。
どこまでが真実か知らないが、全て見抜かれている気がする。
「救世主の事をお伝えせねばなるまい。おそらく、もうばれている気がするが」
「まさか、考えすぎだ。ジュリアン」
エディが身震いをして言った。
「しかし、隠しごとをするわけにはいかない。ミアとテオはキャクタス出身といっていたから、報告する必要があるだろう」
その時、ドアをノックする音がして二人は黙った。目配せしてジュリアンが頷くと、エディが呼びかけた。
「中にいるよ」
「俺です。エドワード様」
マロリーだ。
彼はドアを開け中へ入り、お辞儀をした。
「テオ様がお館様に話があるとおっしゃっています」
「入ってもらってくれ」
ジュリアンが言うと、テオが深刻な顔付きで入って来た。
「二人にお願いがあって」
マロリーが出て行ったのを確かめてテオが言った。
「エリンギウムが予想以上にひどいんでびっくりしたろう」
エディが茶化すと、テオは少し笑った。
「確かに、想像した以上だった」
「頼みとはなんだ?」
ジュリアンが聞くと、テオがふうっと息を吐いた。
「キャクタス国王に報告に行くんだろう?」
「そのつもりだ。国王に隠し事はできない。黙っていて欲しい、はナシだ」
「そうじゃない。俺たちの事を伝えた後、探して欲しい人物がいるんだ」
ジュリアンとエディは顔を見合わせた。
「誰だ?」
「レノックス卿だ。ぼくの祖父でもある」
ジュリアンは目を見張った。
「まさか、君は貴族なのか?」
確かに、テオはかなりの男前で品格がある。
「母から聞いただけで、実際に実在するかどうかも分からない。だが、無一文ではミアを守ってやることはできない。ここで、働かせてもらえるのなら、何だってするが、もし、本当にその人物がいたら話をしてみたいんだ」
「分かった。レノックス卿については調べてみる」
「ありがとう。助かるよ」
テオはほっとすると、部屋を出て行こうとした。しかし、足を止めてひとこと付け足した。
「ぼくたちを助けてくれてありがとう。閣下」
「ジュリアンでいい」
テオは頷くと、部屋を出て行った。
「レノックス卿か、聞いたことないな」
「ああ、明日、陛下に報告しよう」
気が進まないがやるしかない。
エディが自分の部屋に戻り、ジュリアンも一息ついて、アナスタシアの元へ戻ろうと思った。
そろそろ、風呂から出た頃だろう。
ジュリアンが部屋へ戻ると、風呂場でゴトゴト音がしている。すでに、ダイニングルームに行っていると思っていたが、まだ部屋にいるらしい。
「ナターシャ?」
声をかけてドアを開けると、
「入らないで!」
切羽詰まった声がしたが遅かった。風呂場の惨状に思わず目を疑った。
「な…!」
白い下着姿のアナスタシアが、バスタブの前でしゃがみ込んでいる。その周りは水浸しで、彼女自身もずぶ濡れだ。金髪は頬に張り付き、下着が素肌に張り付いて、体の線がくっきりと透けて見えた。
形のいい胸と平らなお腹、魅力的なヒップに太ももからふくらはぎに、ジュリアンは体がかあっと熱くなった。
完璧なスタイルに目を奪われる。
「見ないで!」
アナスタシアが叫んだが、彼女は突然泣き出した。
「水しか出ないの。どうしたらいいの?」
いつもの冷静な彼女はおらず、パニックになって必死で自分の体を隠そうとしている。
ジュリアンは見とれている場合じゃないと、我に返ると、名残惜しかったが、たたんであったタオルをアナスタシアの体にかけてやった。全身が隠れて、アナスタシアがほっとした。
そして、ジュリアンを上目遣いで見つめた。
その視線で、下半身が硬くなりかけ焦った。
大きく息を吐いて、アナスタシアの体を見てはならないと目を逸らした。
アナスタシアがすがるようにジュリアンの腕をつかんだ。
「どうすればよかったの?」
ジュリアンは、アナスタシアを抱きしめたくなった。
分からないのも当然だ。
彼女は初めてここに来たのだ。
しかも、メイドにさせることを一人でやらせてしまった。
全て自分が悪い。
ジュリアンはすぐにバスタブにお湯を張り始めた。
「この城には金はないが、薪はたくさんあってお湯を沸かすことができる。この元栓を開ければお湯が出る。俺が悪かった。謝ってすむことじゃないが」
お湯が溜まりだし、アナスタシアの涙も止まったようだった。
「シルクの肌着がダメになっちゃったわ」
アナスタシアが惨めな口調で言う。
「早くお湯に浸かるんだ。そのままでは風邪を引く」
ジュリアンが外へ出て行こうとすると、アナスタシアに呼び止められた。
「待って、一人にしないで」
「しかし…」
ジュリアンは紳士として、入浴中の女性を見るべきではないと背を向けた。
「勝手が全然分からないのよ。一人にしないで」
よほど心細かったのだろう。
ジュリアンは仕方なく、ここにいると約束した。
まず、この水浸しの床を拭かなくてはいけない。
ジュリアンが息をついて、腕まくりしてタオルでせっせと拭いている間、アナスタシアはバスタブに浸かり石鹸で体を洗い始めた。たちまち部屋中がバラの香りに包まれる。
「石鹸を持ってきたのか?」
アナスタシアを見ないで聞くと、ええ、と彼女が答えた。
「用意がいいね」
「お気に入りの香りはこっちではなかなか見つけられないと思ったの」
確かに、石鹸などという高価な物はこの城にはない。それと、四つん這いになって床を拭く城主もこの世にいるのだろうか。
ジュリアンはようやく水を吸い取ってから顔を上げると、いつの間にか湯から上がったのか、アナスタシアがタオルを体に巻いて立っていた。頬が上気してさっぱりした表情だ。
「じゃあ、俺は出ているよ」
「ジュリアン」
アナスタシアが再度呼びとめる。
「何だい?」
「コルセットを一人ではつけられないの」
ジュリアンは首を振った。
「だったら、つけなきゃいい」
「でも、体の線が崩れてみっともないわ」
「アナスタシア」
「それに、髪の毛も一人じゃどうしようもない」
「グレイスを呼んで来ようか」
ふと思い付く。
そうだ。それがいい。
とっさに思い付いたが、アナスタシアは急に黙り込んだ。それから、少し硬い口調で言った。
「あなたに頼みたいの」
「分かったよ」
ジュリアンは息をついた。
まるで、拷問だ。
振り向くと新しいアナスタシアがコルセットを胸まで上げて困った顔でこちらを見ていた。
ジュリアンは平常心を装い近づいた。
アナスタシアからは湯上りのいい匂いがする。首筋にキスしたいくらいだ。
どうしたことか、彼女を愛しているわけでもないのに、欲望だけが自分を別人のようにしている。
コルセットの紐を取り、一つずつ締め付けていく。ほっそりした腰だ。魅入っていると、
「苦しいわ、ジュリアン」
との声に手を止めた。
締めすぎていたらしい。
慌てて緩めると、アナスタシアが息を吐いた。
クリーム色のドレスを来て、背中のボタンを一つずつ止めた。
いつものアナスタシアらしい装いに戻り、ジュリアンは胸を撫で下ろした。
やれやれ、だ。
髪の毛はまだ湿っている。ジュリアンは、アナスタシアの美しい金髪を丁寧にタオルを当てて乾かした。
「背中に垂らすか、ミアに結ってもらったらどうだ?」
「あなたはどっちが好き?」
「え?」
「下ろしている方がいい?」
「気にしたことないな」
何も考えずに答えると、アナスタシアがムッと口を尖らせた。
「ミアに頼むわ」
「そうしてくれ」
こちらはクタクタだ。
ようやくお役御免だとばかりに出て行こうとすると、アナスタシアが髪の毛を横にまとめてから、とんでもないことを言いだした。
「わたしの裸を見たのだから、あなたも裸になって」
「は?」
「背中を流してあげるわ」
冗談だろう?
ジュリアンは笑えないと思った。
アナスタシアを睨む。
「断る。俺は確かに君を一人にして辛い思いをさせ、不作法だった。しかし、俺が裸を見せるのは別の話だ」
「恥ずかしいのね。わたしはとても恥ずかしかったわ。あなただけ服を着ているのはおかしいわ」
「いいや、君の言っていることの方がおかしい」
「わたしはいつだってあなたと対等でいたいの」
「何だと?」
ジュリアンはムッとした。
「対等? 何様だ。俺はここの城主だ。命令される義務はない!」
思わず大きい声を出してハッとした。
アナスタシアは真っ青になり、一歩後ずさりした。
「いや、今のは…」
かなり言いすぎた。
謝る前に、アナスタシアが部屋を飛び出した。
ジュリアンは自分を殺したいほど憎らしく思った。
王女にあんなことを言うなんて。
俺の方こそ、何様だ。
しかし、もう時間を戻すことは不可能だった。