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18/30

エリンギウムカースルへ




 目を覚ますと、ジュリアンはいなくなっていた。


 期待していなかったが、いないと分かるとさみしい。


 夕べはあまり寝ていない。


 当然だ。同じ部屋に夫となる人がいるのに、眠れるはずがない。

 ようやく眠りに着いたのはほとんど明け方だったが、侍女に呼ばれて目が覚めた。


 着替えて朝食へ行くと、すでにミアとテオ、ジュリアンとエドワードが食事をしていた。


「おはよう。よく眠れた?」


 ミアが嬉しそうに言う。

 微笑んでいる彼女を見ると、ホッと胸が和んだ。


「ええ」


 ミアは救世主だ。

 それなのに、全然偉そうな態度は取らないし、可愛い。


 アナスタシアが席に着くと、ジュリアンが言った。


「聞いてくれ、できるだけ早いうちにサッサスへ出発したい」


 それを聞くと、テオの顔が引き締まり頷いた。


「ぼくたちはいつでも行ける」

「では、今日中に出発しよう」

「今日中?」


 アナスタシアはびっくりしてしまった。


 夕べはそんな話、一言もしなかった。

 もっと早く教えてくれたら、こんなに寝過ごすこともなかったのに。

 しかし、マレインが早くからサッサスへの荷造りを済ませていた。


 わたしの意見は必要ないわね。


 アナスタシアはがっかりした。


「分かったわ」


 アナスタシアはそれだけ言って、朝食を食べ始めた。


 ジュリアンは、エドワードと話をしているが、時々、エドワードと目が合うのはなぜだろう。


 そう思っていると、ミアがトーストにジャムを塗りながら言った。


「夕べは遅かったのでしょう? よく眠れた?」


 あどけない顔でにっこり笑う。


 アナスタシアは笑顔で答えた。


「ええ、夢も見ないくらい、ぐっすりとね。おかげで寝過ごしたわ」


 その時、テオがおほんと咳をして、人々の視線を自分へ向けた。


「ところで、キャクタスまではどうやって行くんだ? 方法は?」


 ジュリアンは一同を見て、それから深々と息を吐いた。


「男たちはできるだけ馬で行く。女性は馬車を使ってもいいが、ゆっくりいけば五日程かかる。しかし、できるだけ急ぎたい。途中にゴーレの森があるから」

「ゴーレの森?」


 アナスタシアは息を呑んだ。


「ゴーレがたくさんいるの?」

「そうだ。しかし、奴らは何もしない。眠っているから。だが、一度起きたら大変な事になる。その数は数千匹と言われているが、もっといるかもしれない」

「本当なのか…」


 テオが呟いた。


「そこを通らないですむ方法はないのか?」

「残念だがない」


 エドワードが肩をすくめた。


「ゴーレの森を馬車なんかで行けるのか? 不可能だろ」


 テオが強く言った。


 アナスタシアは彼らの話を聞いて不安になった。

 もし、馬で行くのなら、自分は乗馬が下手だ。

 しかも、馬車がなくては荷物が運べない。


「馬の方が確かに安全だが、君はドレスや調度品を持って行きたいだろう」


 ジュリアンがちらりとアナスタシアを見た。


 アナスタシアは悩んだ。

 確かに、お気に入りのドレスや宝石も持って行きたいが、みんなの安全の方が大事だ。


「わたしは何もいらないわ。身一つで十分よ」


 そう言うと、ジュリアンが驚いた顔で自分を見た。


「乗馬ができるのか?」

「苦手だけど、今から練習するわ」


 それを聞いて、ジュリアンは顔をこわばらせた。


「……その必要はない」

「え?」


 この話は終わったとばかりに目を逸らす。


 アナスタシアはもっと話したかったが、仕方なく口を閉じた。

 すると、隣に座っていたミアがそっと囁いた。


「どうしよう。わたしも馬に乗れないの」

「ミアは俺と一緒だ。心配するな」


 テオがすかさず言い、ミアがうれしそうに頷いた。


「ありがとう」


 二人はまるで恋人同士のようだ。


 アナスタシアは、ミアをうらやましそうに見つめながら、ため息をついた。


 夫もテオのように優しくて分かりやすい人ならいいのに。


 恨めしそうにジュリアンを見つめた。

 しかし、当然、目が合うわけがない。

 アナスタシアは息をついて、すぐに気持ちを切り替えた。


 荷物を出来るだけ最小限にしなくては。


 サッサスの城がどういうところか知らないけれど、こことたいして変わらないだろう。


 アナスタシアは熱い紅茶をすすった。




 馬で行くと言うので、荷物をまとめ直すことにした。


 半日でどれくらい進むのか知らないが、生まれて初めての旅だ。

 アナスタシアは身軽なドレスに着替え、父と母にお別れを言いに行った。


 知っていたのだろうか、二人は驚かなかった。


 母は涙を流し、体に気をつけなさいと抱きしめた。

 父から言葉はなかったが、その表情は悲しみをこらえているように見えて、胸が締め付けられた。


 とうとうわたしはよその国へ嫁ぐのだ。


 アナスタシアは夫の待つ玄関へ行くと、みんなが待っていてくれた。


「アナスタシア」


 茶色の馬に跨って、待っていたジュリアンが手招きした。


「これに乗って」

「でも、わたし…」


 言い終える間もなくエドワードがやって来て、軽々と腰を抱かれジュリアンの前に座らされた。


 出発の合図とともに、みんながいっせいに進みだす。

 兵士の中にグレイスがいた。

 トマスとソフィー、そして、テオとミアがいて、マシューがいる。


 背中越しにぴったりとジュリアンの体があり、アナスタシアはドキドキした。

 しかし、そのうち、お尻が痛くなった。

 お尻の事は言い出せず、休むこともなく延々と歩き続ける。


 誰も止まろうとは言わない。

 アナスタシアはずっと我慢して進んだ。


 最初は道のあるところを進んでいたが、やがて森に入り、だいぶ空が薄暗くなった。


「今夜はここで休もう」


 エドワードが言って、一行は立ち止り、テントを張った。

 ミアとソフィーが具の入った温かいスープとパンを用意してくれた。


 食後にコーヒーが出て、アナスタシアは香ばしい香りに癒やされた。


 明日は夜明けに出発するため、すぐに休むように言われた。

 女性たちで休みを取ったが、アナスタシアは心細さにミアの手を取った。

 彼女は励ますように、アナスタシアの手の甲をポンポンと叩いた。


「わたしは3歳の時から、こうやって旅をしてきたの」

「本当? 怖かったでしょう?」

「ええ。でも、テオやアメリアがいてくれたから」


 ミアにとってアメリア姫は大事な思い出の一つのようだった。


「アメリア姫のようになりたい?」


 尋ねると、ミアは一瞬考えて首を振った。


「いいえ、わたしはゴーレを殺したくないの。アメリアはわたしたちを守ることで必死だった。ゴーレを殺さずにすむ方法があれば、わたしはその道を進みたい」


 ミアは優しい瞳で言った。


「いつか見せてくれる? ミアの望む世界を」

「ナーシャ…」


 ミアは何を考えているのか分からなかったが、少しして呟いた。


「わたしに出来ることはあんまりないの。人の傷を治すことくらい」

「それでも素晴らしいわ」


 そう言うと、ミアがにっこり笑った。


「おやすみ、ナーシャ」

「おやすみなさい、ミア」


 いつしか、二人は眠りについていた。




 まだ暗いうちからミアに揺り起されて、朝食を食べるとすぐ出発した。

 アナスタシアはお尻も腰も痛かったが、何も言わず我慢した。

 背中にはジュリアンがいたが、彼はほとんどしゃべらず馬を歩かせている。


 それから時々、馬を休ませたり用を足す人々のために止まったりしたが、できるだけ急いだ。


 二日目の夜、テントで休んでいるとジュリアンがやって来た。

 足を伸ばしていたアナスタシアは夫の声を聞いて、サッと足を隠した。


 ミアはテオの所へ行き、誰もいなかった。


「アナスタシア、入ってもいいか?」

「ええ。どうぞ」


 ジュリアンは中へ入って来て、片膝を立ててアナスタシアの正面に座った。


「疲れただろう」

「そうでもないわ」


 彼に迷惑をかけまいとしたが、ジュリアンは首を振った。


「無理をしなくていい。時々、君は馬の上で寝ている」


 ばれていた。


 恥ずかしい、と思って口を噛みしめると、ジュリアンが少しだけ笑った。

 その笑顔にドキッとする。


「寝るのは仕方がない。君はよくやっている。愚痴も文句も言わないし、感謝している」


 優しい声かけに、胸が熱くなる。


「ごめんなさい。次からは眠らないようにするわ」


 ジュリアンが肩をすくめた。


「そのことを言いに来たんじゃないんだ。明日中にはサッサスへ着く。だが、その前にゴーレの森を通り抜けなくてはならない。あの森は音を立てなければ問題ないが、何が起きるか分からない」

「ゴーレの森」


 アナスタシアは、ゴーレについては本でしか読んだことがなかった。

 見かけや大きさ、どんな声をしているかも知らない。


「どうすればいいの? 息を止めた方がいい?」


 ジュリアンがくすっと笑って首を振った。


「見ても悲鳴を上げないで。もし、恐ろしければ俺にしがみついたらいい」


 アナスタシアは息を吸って、こくんと頷いた。


「きっと、大丈夫だと思うけど、頼もしいわ」

「できるだけ、早く森を抜けることを考えている」

「分かったわ」


 アナスタシアは彼の邪魔だけはしないよう心の中で約束した。

 ジュリアンはそれだけ言うと、サッと立って出て行った。


 出て行く彼を見て、もう少し二人きりでいたかったのに、と思った。

 すぐにミアが戻って来て、二人は明日のために横になった。


 テントの外では、グレイスやテオたちが見張りをしてくれている。

 アナスタシアはおやすみを言って、目を閉じた。





 翌朝、いつものように出発したが、皆、だいぶ疲れているようだった。

 アナスタシアは、一人だけわがままを言うわけにはいかないと思い、体は悲鳴を上げていたが、普通どおりみんなに挨拶をした。

 これからゴーレの森を抜けるにあたって、静かに進むことを忠告され、皆、緊張した面持ちで進み始めた。


 出発して一時間ほど過ぎた頃、目の前に暗い森が現れた。


「あれが入り口だ」


 ジュリアンが囁いた。熱い息が耳を撫で、アナスタシアはドキンとした。

 頷いて呼吸を落ちつかせる。


 森の入口は暗く、獣道と言っていいほど狭い。

 馬たちを一定の速度に合わせ、これまでよりも速度を緩めた。


 アナスタシアは微かに息を吐きながら、そっとジュリアンを窺うと、彼はまっすぐ前を見ていた。

 その時、アナスタシアの視界に人間らしき影が見えて、背筋がぞくりとした。

 思わずジュリアンの洋服にしがみついた。


 頭上に黒い物体が頭を下にして何かがぶら下がっているのが見えた。

 蝙蝠のようにも見えるが、大きさが人間と同じだ。

 アナスタシアは恐ろしさに震えた。


 あれがゴーレ。


 だが、どう見ても人間だ。


 なぜ、人間があんな姿に変化したのか。


 ゴーレを見るのは初めてだった。


 文献にはゴーレに噛みつかれると、唾液に含まれるウイルスが傷から感染してゴーレへと変化する、と書かれてあった。


 ジュリアンは静かに馬を進めている。

 他の人たちも落ち着いて進んでいくのが見えた。


 ミアは、テオの前に座り静かに落ち着いて見えた。

 アナスタシアは息を吸ったり吐いたりして自分を落ち着かせた。


 ゴーレは数え切れないほどたくさんいたが、みんな目を閉じて眠っていた。

 森の中は薄暗く、ゴーレの影でさらに暗くなり、とてもひんやりしていた。

 太陽の光は遮られ、肌を刺すような冷たさと吐く息は白い。

 

 アナスタシアは鳥肌の立つ自分の腕をこすった。


 どれくらい森にいたのか。

 三十分ほどだったのか、もっと短かったのかもしれないが、ようやく出口が見えてくると、ジュリアンが後ろに合図を送った。


 ようやく森を抜けた時、ジュリアンが手綱を強く握りしめ、立ち止まった。


「待ち伏せされていた……」

「え?」


 ジュリアンが片手でアナスタシアを抱きしめ、もう片方は手を挙げた。

 馬が止まり、何事かと後ろをついて来た人々の声が暗い森に響いた。


 目の前に恐ろしい顔をした盗賊の男が馬上から、アナスタシアたちに槍を向けていた。

 

 数は5人。


 耳を傾けてくれるような穏やかな顔は一切持ち合わせていなかった。


「持ち物、全て置いて行け」


 片目を潰された男が、唾を吐くように言った。

 ジュリアンは、アナスタシアの肩を持つ手に力を込めたが、抵抗をせず、硬い表情のまま頷いた。


 その時、森の中からつんざく悲鳴のような、聞いたこともない雄叫びが聞こえてアナスタシアはぞっとした。

 振り向くと、真っ暗な森がバサッと上に飛び上がったかのように見えた。


「ゴーレが目覚めたっ」


 盗賊があっという間に逃げだした。


「大変だ…」


 ジュリアンが小さく言って、馬を思い切り走らせた。


 物凄いゴーレの大群で、アナスタシアたち目がけて飛んでくる。


 空が見えないほどたくさんの黒い物体が頭上を飛び交っている。


 アナスタシアの横をゴーレが歯を剥いて飛びかかって来た。

 ジュリアンが馬で避けたが、数が多すぎた。


 赤い目玉と尖った牙。

 黒い体はじっとりと濡れたみたいに光っている。

 大きな翼を広げて、バサッバサッと風を切って突き進んでくる。


 アナスタシアは、ゴーレのおぞましさに気を失いそうになった。

 しかし、突然、ゴーレが動きを鈍らせて、ふわっと宙へ浮かび上がった。


 どこからか歌声が聞こえる。

 柔らかい、優しい声。

 暖かい陽だまりにいるような心に沁みてくる歌声は後ろから聞こえた。


 ゴーレの動きが鈍り、一頭ずつが空高く昇っていく。

 そして、頭上で旋回を始めた。


「何が起きたんだ?」


 ジュリアンが馬を止めて振り向くと、ミアが歌っているのが見えた。


「ミア…」


 ラテン語で聖歌を歌っている。

 アナスタシアはラテン語が分かったので、その歌詞を聞いて涙が出そうになった。



――命を受けた者たち

あなた達を讃えん


ケガと悪臭を放つ傷

その度ごとに高価な宝石に変えた



 ミアが、ゴーレを殺したくないと言っていたのは、この事だったのか。



 数万匹ともいえるほどのゴーレが森へと戻って行く。

 その間、ミアは歌うのをやめず、馬が城を目指す間もずっと歌い続けていた。


 ソフィーやトマスも共に歌ったが、時々喉を休めた。

 しかし、ミアだけは2時間3時間と歌い続けた。


 馬を走らせてようやく道らしい場所へ出た。

 ようやく安全であることを確かめると、ミアは歌うのをやめた。

 疲れ果て、ぐったりとテオの体に自分を預けて目を閉じた。



 ミアがいなかったら、みんな殺されていたかもしれない。

 アナスタシアは、改めて救世主であるミアに感謝した。


 ゴーレの森から4時間程過ぎて、ようやく目の前に城らしき頂上が見えてきた。

 あれが、エリンギウムカースルだろうか。

 確かに、頑丈そうな作りで入り口も分からない。

 城の前には橋がかかっていて、一行はその橋を渡った。


 とうとう着いた。

 これが、わたしが暮らすエリンギウムカースルだ。

 アナスタシアはごくりと唾を呑んだ。






 ジュリアンが馬を走らせ、入り口らしき場所へ着くと、一人の男性が待っていた。

 身長はジュリアンよりもずっと低く、身につけている服はボロボロで、髭を生やした怖そうな顔をしていた。年齢は不明だが、アナスタシアの倍はありそうだ。


 彼はジュリアンにお辞儀をすると、アナスタシアを鋭い目で一瞥してから、軽く顎を引いて挨拶をした。


「ようこそおいで下さいました。奥方様」


 しゃがれ声はあまり歓迎しているようには思えなかったが、アナスタシアは、エドワードに馬から下ろしてもらい、従僕に挨拶した。


「こちらこそ、これからお世話になるわね」


 従僕は深く頭を下げると、ジュリアンを見た。


「お館様、お帰りなさいませ」

「うん。アナスタシア、紹介させてくれ、この者は城の執事でマロリーだ」


 アナスタシアは内心びっくりして執事と紹介された男を見つめた。


 この汚いナリをした男性が執事?


 思わず目をぱちぱちさせてしまうと、城の中からもう一人男性が現れ、マロリーが馬を休ませるようにと指示をした。彼は馬丁ばていだろうか。


 その後、一行を出迎えたのはたった二人きりだったので、テオやマシューは自分たちで馬を厩舎へと連れて行った。

 

 アナスタシアは、ジュリアンの腕を取って共に入り、その後をミアとトマスとソフィーが執事に案内されて中へ入った。

 後ろから来るミアたちは目を丸くして辺りを見ていたが、アナスタシアも同じだった。


 確かにこの城は抜け穴がない程に手を加えてあるが、優雅さからは程遠く、汚さと殺風景な様相はなぜだろう、と疑問に思った。

 徐々に、アナスタシアは不安で胸が張り裂けそうになった。


 広間に案内されてアナスタシアは、この城は城主が留守の間に盗賊に襲われたのだと判断した。

 机も壁もタペストリーもカーテンも、何もかもがめちゃくちゃに荒らされている。

 ジュリアン自身も顔をしかめたままだ。


「あなた」


 立ち止ったアナスタシアは、優しくジュリアンの腕に手を置いた。


「くよくよすることないわ、わたしたちでこの城を元通りにして見せましょう」


 一瞬、ジュリアンが呆けた顔をする。

 マロリーもぽかんと口を開けた。


「いったい何の話だ?」

「あなたが留守の間に盗賊たちが城の中身を根こそぎ盗んでしまったようだけど、もう安心よ」

「あー、オホン」


 マロリーが咳をした。


「奥方様、あの、何か大きな勘違いをなさっていらっしゃるようですが…」

「マロリー!」


 突然、ジュリアンが厳しい声を出した。

 マロリーが黙る。

 しかし、じろりとジュリアンを見上げた。


「何もご説明していないのですか?」

「その通りだ」


 いったい、何の話かしら。


 アナスタシアが怪訝に思っていると、マロリーが、はあっと息を吐いた。


「俺は嘘をつくタイプじゃねえんです。先代からお世話になったこのエリンギウムでまっとうに生きてきた。こうして執事という最高職をもらっているのもそのおかげだと思ってます。なので、奥方様には真実を告げる義務がある。そうじゃありませんか?」

「その通りかもな」


 ジュリアンが重々しく頷いた。


 マロリーは、アナスタシアに向き直ると静かに言った。


「奥方様、このエリンギウムは盗賊になんぞに荒らされたわけではありません。ずっと以前から、この状態なんです。先代が城のために金を全部つぎ込んで以来、召使いもおらず、料理人もいない。いるのは、馬丁と俺だけなんです」


 アナスタシアはあんぐりと口を開けた。

 今のは空耳だろうか。


「今、なんて言ったの?」

「何度だって説明しますよ」

「もういい」


 ジュリアンが遮った。


「マロリーの言った通りだ。黙っていて悪かった」


 ジュリアンが頭を下げる。

 アナスタシアはいまだ頭がついていかず、顔をこわばらせた。


「ここに女性はいないの?」

「いねえです」


 マロリーがすかさず答える。


 愛人の姿はなかったが、それどころか何にもないのだ。

 ようやく事の重大さが分かってきた。

 足が震える。


 言いたいことはたくさんあった。

 ジュリアンは何を考えているの?

 わたし一人に全て押し付けるつもりだったの?

 持参金目当てで結婚したのかしら?


 ふつふつと怒りが湧いてきた。

 城中がシーンと静まり返っているようだった。

 すると、トマスがそっと後ろから出てきて口を開いた。


「アナスタシア様、もし、よかったら俺とソフィーに厨房を任せてもらえませんか? 料理はできます」

「皆さん、お疲れでお腹も空かせているのでしょう。荷物を置いて、昼食にしませんか?」


 ソフィーも恐る恐る言った。


「そうよ。そうしましょう。ね? ナーシャ」


 ミアが、アナスタシアの手を取った。

 アナスタシアは、ミアの手をぎゅっと握りしめた。


「ええ、トマス。あなたに厨房はお任せするわ。ありがとう」


 深呼吸をして自分を落ち着かせる。


 自分には仲間がいる。決して一人じゃない。


 もう、ここまで来てしまったもの。引き返すことはしない。


 アナスタシアは、ジュリアンを見ないまま、執事を見た。


「マロリー、わたしのお部屋へ案内して下さる? そして、このエリンギウムについて、詳しく教えて欲しいの」

「喜んで、奥方様」


 マロリーが目を輝かせて笑った。


 まずは彼にお風呂に入ってもらってきれいな姿になって欲しいわ。

 悪い人ではないみたい。

 実直そうな人間に見えるもの。


 それだけが救いだった。


 マロリーが部屋を案内しようとすると、後ろから手を取られた。

 振り向くと、ジュリアンがアナスタシアの手をつかみ、マロリーを睨んでいた。


「客人の部屋を用意してくれ。アナスタシアは俺が連れて行く」

「かしこまりました」


 執事はすぐにアナスタシアから離れた。


 ジュリアンは何も言わず黙っている。

 アナスタシアは物凄く怒っていたのに、握られた手が熱くてドキドキした。


 彼が何を考えているか分からない。

 不安と恐れもあったが、ほんの少し期待もあった。

 これを機にいろいろ話し合える関係になりたい。



 連れて行かれたのはとても広い居間だった。部屋の中にはさらに扉が三つあった。


「ここは俺の部屋だ。今日から君はこの部屋を使う」


 アナスタシアはおとなしく頷いた。

 まだ、手は握ったままだ。


 まるで手錠のようね。

 わたしはどこへも逃げないのに。


「ここのドアは寝室へ繋がる。隣は更衣室と風呂場がある。そして、子供部屋もある」

「子供がいるの?」


 アナスタシアは一瞬、胸をえぐられたような衝撃を受けた。


 ジュリアンは眉をひそめたが、びっくりして目を見開いた。


「まさか! 俺の父と母の代から作られたから、つまり、俺たちが子供の頃に使っていた部屋だ」

「あら、そう」


 早とちりした自分が恥ずかしい。


 ホッと胸を撫で下ろすと、ジュリアンがアナスタシアをソファヘ座らせた。

 自分も隣に座ると手が離れていった。


 彼は少ししてから、静かに話しだした。


「責められても仕方ない。君を苦しめることは分かっていたが、言い出せなかった」


 彼の苦しそうな顔を初めて見た。

 誰だって、こんな状況なら話しだせないだろう。


 アナスタシアは、自分の指先を見つめながらポツリポツリと言った。


「ゴーレの森…」

「ん?」

「森を抜けて盗賊に追い詰められた時、とても怖かった」


 アナスタシアの人生の中であの時が一番怖かった。

 眠っているゴーレよりも人が怖かった。


「お父様がどうしてこの城にお金をつぎ込んだのか、分かる気がするわ。近くにあんな森があれば誰だって恐ろしいもの」


 ジュリアンは目を見張ってアナスタシアをじっと見た。しかし、何も言わなかった。


 彼の瞳はエメラルドグリーンの色をしていることに気づく。

 緑色をしているのは知っていたが、こんなにも綺麗な色だったなんて。

 アナスタシアはその瞳を見つめながら続けた。


「ゴーレの森を抜けた後、どうするつもりだったの?」

「持っている物全て渡して命が助かるのならそうしたが、そうでなければ、君だけには指一本触れされるつもりはなかった」


 ジュリアンは思い出すようにして、こぶしを握りしめた。

 アナスタシアがそっと手を乗せると、その手を握り返してくれた。


 アナスタシアは、夫となる人を信じたいと思った。


「あなたはわたしを守ってくれると思っていたわ」

「君の愛称はナターシャ? ナーシャ?」

「好きな方で呼んでくれたらうれしいわ」

「ナターシャの方が君らしい」


 ジュリアンが、そっとアナスタシアの手を持ち上げて手の甲に口づけをした。


「できる限り、君の理想の城に近づけるよう努力する。ここは広大な土地と豊かな資源がたくさんある。人を雇えば、すぐに君を領土一の金持ちにしてやる」

「そんなにいらないわ。ドレスが2、3着買えたらいいの」

「伯爵夫人はもっと欲を出さなくてはいけない」


 ジュリアンが、アナスタシアの乱れた髪をそっと耳にかけた。

 指先が耳たぶに触れる。

 キスしてくれるのだろうか、と期待したが彼は手を下ろした。


「風呂に入るといい。更衣室の隣にはバスタブがあるからゆっくりと旅の疲れを取るんだ」

「ええ、ありがとう」


 ジュリアンは立ち上がると、急ぐように部屋を出て行った。


 アナスタシアはため息をついて、部屋の中を見渡した。

 この部屋はずいぶんまともだ。絨毯もカーテンも立派なテーブルも壊れていない。

 ただ、埃がつもっているけれど。


 アナスタシアは、しばらくぼんやりしてから気づいた。


 そうだった。

 この城にはメイドは一人もいないのだ。

 どうやってバスタブにお湯を張るの?


 全部、自分でやるしかなさそうだ。

 再び大きなため息が出た。




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