ジュリアン・リンジーの悩み事
「信じられない! 幸運が舞い込んできたぞ!」
そう叫んだのは、いとこのエディだった。
書斎で難しい顔をして書類整理をしていたジュリアン・リンジーは、ノックもなしに飛び込んで来たエディを軽く睨んだ。
「静かにしてもらえないだろうか、エディ」
ジュリアンは伯爵位を数年前に父から継承し、頭を悩ませる日々が続いていた。
日に日に募る負債の山。
それも全部父が遺してくれたものだ。
伯爵の称号を継ぎ、第5代フォード伯爵と呼ばれているが、名前ばかりたいそうなだけで、真実を知ればまわりは青ざめるであろう。
父がエリンギウムカースル(城)を中も外も頑丈に作るために投資したので、生きていくためのお金が底をついていた。
机の上の書類を見て、ジュリアンが再びため息をついた時、エディが隣に立って肩を叩いた。
「聞くんだ、ジュリアン! 王妃がお前とアナスタシア王女を結婚させると言ったぞ」
それを聞いたジュリアンはさすがに呆れて、組んでいた腕を解いてエディを凝視した。
「お前、とうとう幻聴が聞こえるようになったんじゃないのか?」
エディは無類の酒好きで女好きである。ハンサムな顔を武器にして、若い娘を虜にしてきた。
酒の事を言われたエディは、ジュリアンを睨みつけた。
「信じないのは自由だが、僕の悪口はやめてもらおう」
「すまない、お前があんまりひどい嘘をつくので口が滑った」
謝ったつもりだったが、エディはますます眉を吊り上げてジュリアンに詰め寄った。
「僕は本当の事を言っている。王妃は、あの第2皇女アナスタシアをフォード伯爵になら安心して嫁がせることができる、とはっきりおっしゃったのだ」
「ちょっと待ってくれ…」
ジュリアンは額を押さえた。
アナスタシア姫と言えば、ケイン国王の娘、アナスタシア・ノヴァラ・ルーゼ王女の事だ。
ケイン国一の美女、そして、おそらく国中で一番気高く手のつけられないわがまま娘で、国王ですら手をこまねいていると聞いている。
ジュリアンは机に置いてあったデカンタを取り上げ、グラスにウイスキーをついで一気に呷った。焼けつくようにブランデーが喉を通り越し、思わずむせ込む。それを見たエディが大笑いした。
「祝いの酒か、僕も頂こう」
そう言って、自分もグラスにウイスキーをなみなみと注いで飲みほした。
「これは格別にうまい酒だ」
ジュリアンは、うそぶくエディを睨んだ。
嫌味な奴だ。
ジュリアンが統治するサッサス領土に極上の酒があるはずがない。それくらいジュリアンは貧乏で日々の生活に喘いでいた。
サッサス領の貧乏領主であるというのに…。
ジュリアンはまたも深く息を吐いた。
「最近聞いた話だが、アナスタシア王女は探してきた救世主に向かって、薄汚いメス豚め! 頭を丸めてしまえ、と命令したと聞いたぞ」
知っている噂をエディに投げつけた。すると、エディは、え? と言う顔をして、
「僕が知っているのは、救世主の髪が抜けんばかりに引っ張り、女狐め、姿を現せと叫んだと聞いているが」
と、平気な顔で答えた。
ジュリアンは腰に手を当てて、呆れたようにエディを見た。
「お前はその慎みのない口を持つアナスタシアと、本当に俺を結婚させたいのか?」
「当り前だ。アナスタシアは有り余るほどの持参金を持っているのだぞ」
持参金。
その言葉に目がくらむ。喉から手が出るほど、欲しい金。
しかし――。
「観念するんだな、ジュリアン、お前がどんなに言い訳をしようとも無駄と言うものだ。なぜなら、これは王妃の命令なのだから」
ジュリアンは首を振った。
なぜだ? なぜ、王妃はあんなに可愛がっているアナスタシアを俺のような貧乏領主にくれてやろうと思うのか。
不思議でならない。
「と言うわけだから、さあ、すぐにでもケインへ向かい、花嫁を迎えに行こう」
「しかし、俺にはアナスタシアを着飾ってやるだけの金を持っていない」
「金の事は心配するな。いつものように僕が何とかするから」
いとこのエディは、ジュリアンと違って商売がうまくいき金持ちだった。
ケイン国王に呼び出されるとサロンやら舞踏会、パーティーがあるが、いつもエディの世話になっていた。
しかし、これがよくなかったのかもしれない。
エディから借りている衣装はどれも値の張る物ばかりで、国王はジュリアンの貧困ぶりを知らないのかもしれない。
ジュリアンがお金に困っている理由は戦争のせいだった。
先代の領主、ジュリアンの父が自分の城を守るために、たくさんの騎士たちを雇いいれ、防壁を強くした。
ところが、戦争を恐れた女たちがほとんど逃げて、農作物を作る小作人も減り、血気盛んな騎士たちは城を荒らして出て行ったあげく、父は病で倒れそのまま帰らぬ人となった。
残されたのはわずかな金と簡単には崩れないだろう鉄壁の城。
しかも、城にまともな人間はおらず、土地は荒れ放題、新たに人を雇う金もない。
こんな状態の城にアナスタシアが本当に嫁いで来るのだろうか。
まるで、どこか別の世界の話に聞こえる。
本当に国王の口から聞かなければ、ジュリアンはまだ信じられずにいた。
※※※※※
救世主が消えてしまった。
アナスタシアは呆然とミアが消えた辺りを見つめた。
何かを恐れるように後ずさりするミアに手を伸ばしたが、突如、彼女の背後に空間が現れた。
ハッと息を止めた瞬間、ミアが取り込まれ、消えてしまった。
「消えたわ…」
アナスタシアの手が空しく宙をさまよう。
今までここにいたのに。
人が消えるなんて……。
信じられない思いで茫然としていると、いつの間にかマレインが側に立っていた。
「マレイン、なんてことをしたの。救世主が消えてしまったわ」
「落ち着くのじゃ、アナスタシア王女」
マレインはにやりと笑って、長い銀髪を後ろに撫でつけた。
「教えたろう? 三つの翼について」
アナスタシアは、ぎくっとして唾を呑んだ。
マレインは普通の人間ではない。彼女は本物の魔女で預言者だ。彼女の言う事はほとんどが真実で、父も母もそれを信じている。
三つの翼。
それは救世主を探す手掛かりの言葉。
マレインが厳かに唱え始めた。
「ひとつの翼は高く舞い上がる。そして、もうひとつの翼は愛でつくられる。そして、三つ目の翼はいたるところに羽ばたく」
マレインが唱え終えると、その目が鋭く光った。
「ひとつは高く舞い上がる。まさに、あのミアと言う少女こそ間違いなく救世主である。あの者は時空を超えて、再びここへ戻ってくる。変化を待つのじゃ」
「どうしてそんなことが分かるの?」
アナスタシアは不気味に思った。
マレインの言う事は絶対だ。人々は彼女の言葉に支配されて生きてきた。
彼女こそ、絶大な力を持っている支配者なのではないだろうか。そして、アナスタシアの質問にマレインは答えたことはない。
マレインは不気味な笑みを浮かべて笑いかけた。その時、ドタドタと騒がしい音とともにドアが開いて首にナイフを突き付けられたグレイスが中へ入って来た。背の高い若者がグレイスの背後に立っていて、屈強な彼女が震えていた。
ブラウンの髪色をした若い男性が声を張り上げた。
「ミアをどこへやった」
アナスタシアは素早くグレイスに目をやった。彼女は口を真横に結んで恐怖に耐えている。その真剣な顔を見てすぐに悟った。
「グレイスを離して、今すぐに」
アナスタシアが毅然と言うと、彼の目がさらに強くなった。
「ミアの居場所が先だ」
若者の背後にいる金髪の男性は青いブルーの澄んだ瞳をしていたが、表情は暗く青ざめている。
アナスタシアはこの場にいる全員を納得させるにはどう説明すべきか、一瞬、考えた。
彼らは救世主の事をどれくらい理解しているのだろう。
彼女が消えた理由を知っているのだろうか。
すると、マレインがのっそりと前に進んでひとことで片づけた。
「救世主は消えた」
「嘘をつくな…」
一瞬、若者の心が揺れた時、グレイスが肘を引いて彼がお腹を押さえて呻いた。その隙にグレイスが彼から離れた。たちまち、ドアの後ろに控えていた衛兵たちが中に飛び込んできて彼らを押さえつけた。
「全く…」
マレインが怒って鼻から大きく息を吐いた。
「王女に何かあったらどうするんじゃ」
若者二人が連れて行かれる。アナスタシアは気がつけば声を出していた。
「その者たちに危害を加えてはなりません。聞きたいことがあります」
衛兵に命じると、グレイスに向き直った。彼女は頭を垂れて膝を突いていた。
「グレイス、説明しなさい。彼らは何者です」
グレイスは頭を下げたまま、しぶしぶと口を開いた。
説明を聞いたアナスタシアは、彼女のしたことに対して呆れた上に怒りが湧いた。
「じゃあ、あなたは彼らを騙して、救世主をここに連れて来たのね?」
すぐにでも彼らを自由にしなくてはならない。
グレイスは項垂れて、それ以上何も言わなかった。
彼女を見ると心が痛んだ。
グレイスは全て自分のためにやったのだ。彼女を責めるのはかわいそうだった。
事情は分かったが、救世主が消えてから半日が過ぎている。
アナスタシアは食事も喉を通らず、少しでも早く救世主が戻ってくるのを願った。
グレイスの話からすると、あのブラウンの髪色の若者は彼女の兄で、心から妹を案じている様子だった。今もきっと苦しんでいるに違いない。しかし、救世主が消えた事を説明するのは無理だった。
なぜなら、アナスタシア自身もよく分かっていないのだから。
この中で理由を説明できるのはマレインただ、一人。しかし、彼女が素直に聞いてくれるとは思えなかった。
時間だけが過ぎていく。
とにかく考えなくてはいけない。
アナスタシアは両手を組んでため息をついた。そして、ふと思いついて顔を上げた。
救世主はどこで消えた?
消えた位置に立ってみる。追い詰められた救世主がいた場所にはマホガニーの机があって、その辺りで彼女は消えたことが分かった。
机には何がある? 蝋燭立てに文鎮、インク壺とペン立てと閉じられた本。
特に変わったものはない。しかし、アナスタシアは何を思ったのか、ミアが消えた辺りに向かって声を出した。
「ミアっ、戻って来て! あなたが必要なのっ」
自分でもバカみたいだと思った。しかし、これ以外に方法が思いつかなかった。
「ミアっ、戻って来て!!」
アナスタシアは救世主でも何でもない。ただのちっぽけな女だ。
今年で21歳になる。キスだってしたこともない。
これからは、時々、宮廷に現れる大きな男性、無口で笑った顔を見せない。女性たちから恐れられている(中には憧れもある)。
あのジュリアン・フォード伯爵と結婚させられるのだ。
アナスタシアに自由などもともとなかったが、これからはもっと拘束される。
きっと夫となる人は、自分を宮廷一の出来損ないだと思っているに違いない(実際そうなのだから)。
アナスタシアはだんだん腹が立って悔しくなってきた。
本物の救世主がうらやましくなってくる。
自分が人々からバカにされていることは知っている。紫だのラベンダーだのと光によって変わる目の色のせいで、まがいものの救世主と噂されているのだから。
とうとう涙が出てきた。
自由で、力のあるミアがうらやましかった。
「ミアっ、戻って来ないと容赦しないわよ。わたしだって辛いのよ。あなた一人が不幸みたいな顔をしないでよっ」
叫んだ時、机がガタガタと揺れ始めた。あっと悲鳴を上げて離れようとした時、何もない空間から、白い華奢な手が現れた。アナスタシアは無意識にその手をつかんだ。引っ張るとあの美しい救世主が現れた。
先日とは打って代わり、輝くような笑顔で、目を潤ませてアナスタシアの胸に飛び込んできた。
「戻れたっ」
ミアは抱きつくなり、大きい声で泣きだした。
「ありがとう、アナスタシアっ。わたしを呼んでくれてありがとう」
泣いていたアナスタシアも思わず抱き返していた。
「あなたがいなくなったら、本当に困るのよ」
ミアが顔を上げてにっこりする。その笑顔のかわいさにびっくりした。
彼女はまだ少女と言える年齢だった。しかも、どこかでこの顔を見た事があると思った。
どこで見たのだろう。
思い出そうとしたが、今は思い出せなかった。
「聞いて! わたしはミアだったの。このままでよかったのよ。ずっとずっとミアになりたいと思っていたけど、わたしは……」
これが本当の彼女なのだろうか。
はしゃぐ姿を見ていると、消える前の彼女と今の顔はどこか違って見えた。
その時、ミアがハッとして目を見開いた。
「どうしたの? 泣いていたの?」
アナスタシアの顔を見て心配そうに言う。アナスタシアは泣き顔を見られて、一瞬、恥ずかしく思った。
「いいえ、なんでもないのよ」
「わたしでよければ力になるわ」
ミアがアナスタシアの手を強く握った。
彼女の手は小さいがとても温かく、そして、どこから力が湧いてくるような気がした。
彼女は本物の救世主なのだ。
「ミア、あなたのお兄さんが探していたわ」
「テオがっ?」
彼の名前を呼んだミアの表情が一瞬で変わった。
「テオがここにいるの? 今すぐ会いたいっ。彼に、わたしは無事だと言う事を伝えなきゃ」
「ええ。そうよ。あなたが戻ってくれて本当によかった」
アナスタシアは胸を撫で下ろし、すぐにでも捕えられている彼らとミアを会わせようと思った。
ミアを書斎に通し、捕えられている彼女の兄たちをすぐ解放するように伝えた。
彼らを待っている間、ミアは部屋の中を行ったり来たりしている。
「ミア、落ちついて、すぐに会えるわ」
「ええ」
ミアは手を合わせて息を吐いた。
「ありがとう、アナスタシア」
「いいえ、わたしの方こそ謝らなければいけないわ。あなた方を巻き込んでしまって、ごめんなさい」
「そのことなのだけど…」
ミアが何か言いかけた時、ノックがしてドアが開くと、兵士に連れられてミアの兄と金髪の男性が入ってきた。二人とも警戒した顔つきでいたが、ミアを見たとたん、笑顔になった。
兵士に解放されると、ミアが彼に飛びついた。
「助けに来てくれたのねっ」
「ミア、無事でよかった」
兄が優しく妹の背中を撫でた。金髪の男性も安堵の顏で見ている。
「君が無事で本当によかった」
「ヘンリーもありがとう」
ミアは、金髪の男性とも抱き合って二人は喜んだ。
兄がすまなそうな顏でミアに言った。
「グレイスが元兵士だと言うのを聞いてから、ずっと怪しいと思っていた。それなのに、隙を突かれてしまった。怖い思いをさせてすまなかった、ミア」
それを聞いたミアが目を丸くして、そうだったの……と呟いた。
「トマスとソフィーはどこにいるの?」
ミアが尋ねると、テオが二人は安全な場所にいると答えた。
「アナスタシア様、わたしたちは旅を続けている途中なのです。すぐにでも出発したいのです」
ミアの言葉を聞いて、アナスタシアは突然、いいようのない寂しさを感じた。
自分に友達はいない。
忠誠を誓ってくれるグレイスのような兵士はいるが、楽しくおしゃべりできる友達が欲しかった。しかし、これから自分は結婚をしなくてはならず、わがままでミアたちをとどめておくことはできないと思った。
「ええ、もちろんよ。グレイスがひどい事をして本当に申し訳なかったわ」
すると、今まで黙って話を聞いていた金髪の青年が口を開いた。
「お尋ねしたいことがあるのですが、あなたはキャクタス国とダイアン国の話をご存知ですか?」
「キャクタス…」
その言葉を聞いた瞬間、すぐに閃いた。
「ええ、もちろん、知っているわ!」
どうしてすぐに気がつかなかったのだろう!
ミアの顔をどこで見たのか思い出した。
「ミア、あなたの顔をどこかで見たことがあると思ったの」
「え?」
ミアがキョトンとした顔をする。
そう。この整った美しい少女の顔は、今彼が言ったキャクタス国の王女の肖像画とそっくりなのだ。
はるか昔、今ではおとぎ話となって語り継がれているが、元となる本当の話は、キャクタス国の第1王女レジーナ・フォン・ベルクは、ダイアン国の王子に見初められたが、抵抗したために殺された。
キャクタス国一の美女であり、最大の力を持つ魔女としての彼女が、なぜ殺されたのか、という謎もある。
アナスタシアは王女には珍しく国中の本を読むのが大好きで、特にこの悲劇については詳しく知っていた。
それに、もっと重要な事を知っている。
アナスタシアがミアを見たことがあると言ったとたん、彼の兄の顔が険しくなった。
「そんなことより、早く俺たちを自由にしてくれないか」
鋭い声にアナスタシアはびくっとしたが、気の強い彼女は首を横に振った。
「いいえ、わたしたちはもっと話しあうべきではないかしら? ここで出会ったのは偶然ではないわ。ましてや、あなた方は旅に出ると言った。もし、よければその目的を聞かせてもらえれば出来る限り力になるわ」
ミアが不安そうな顔で兄に寄り添った。兄がミアの肩をしっかり抱き寄せる。
二人ともきれいな顔だちだが、似ていないことが分かった。
金髪の青年がふうっと息を吐いた。
「アナスタシア姫。僕たちの目的は新たな救世主を探しているのです。この世界の平和を守るために。そして、この石の持ち主を探すために」
そう言って彼が小さい小石を取り出して見せた。
アナスタシアは、その石を見て息を呑んだ。
「これは、救世主の宝石ね」
「我々の目的はゴーレが生まれた理由を求め、そして、原点に戻ろうと考えています。ゴーレがいなくなれば平和が訪れる」
「この世界の争いの原因がゴーレにあると思っているのね?」
「ええ」
アナスタシアはゴーレを見たことがなかった。ゴーレの恐ろしさは噂で聞いてはいるが、どんな生き物なのか知らない。
わたしたちはまだ知り合ったばかりだ。けれど、もっと彼らの話が聞きたい。わたしも旅に加わりたい。
アナスタシアの心の声が顔に出ていたのか、ミアが駆け寄って来てそっと手を握った。
「グレイスがあなたのためにわたしを誘拐した。何か困っていることがあるのではないですか?」
困っていること。
アナスタシアは窮地に立たされている。
結婚と救世主。
この二つはどちらもかかわりがある。
なぜなら、アナスタシアが嫁ぐ先は、キャクタス国の領土の一部、サッサスに嫁ぐのだから。
グレイスが戻ってくる前、アナスタシアの現状は最悪だった。
と言うのは、彼女は19歳まで自分は本当に救世主だと思っていた。しかし、20歳の誕生日パーティーの日、偶然知ってしまった。
あの王女は出来損ないだ、と。
この国が守られているのは、アナスタシアのおかげではなくたまたまで、王女はただのきれいな人形だ、とどこかの貴族の娘が言っていた。
自分が救世主だと信じていたアナスタシアは、最初はわけが分からなかった。
今、話しているのは自分の事だろうか。
困惑のあまりその場を動けずにいると、自分を探しに来た侍女に今の話を聞いて見た。すると、侍女はギョッとした顔で強く否定した。
「とんでもないデマでございます。あなたは救世主でございます!」
侍女は力を込めて訴えたが、その言い方がなんとなく嘘っぽかった。
アナスタシアは、陰口が本当であるか確かめるため、魔女と呼ばれているマレインの元へ行った。
彼女は城のすぐ近くに小さい家を建てて暮らしている。
マレインは、アナスタシアが来るのを分かっていたのだろうか、問いただしても驚きもせずこう言った。
「お主は救世主と深いかかわりを持つ王女だ。救世主ではないが、お主ほど重要な姫はおらぬ」
それを聞いた瞬間、自分がいったい今までどんな醜態をさらしていたか、あまりの恥ずかしさに立っていることもできないほどだった。
そこで自ら『アナスタシアは救世主ではない』と言う噂を立てて、民衆を混乱させた。
混乱を鎮めるため国王たちが部下に命じたのは、本物の救世主を探してアナスタシアに似せて、証拠を見せつけてやる事だった。
命ぜられた部下は方々へ散り、救世主を探し始めた。
これが世間を騒がせた『美しい救世主が現れた』と言う噂である。
もし、救世主が見つからない場合は、国王陛下から、他の国へ嫁がせると命ぜられた。
救世主を待っている間、魔女マレインは王妃に、フォード伯爵こそがアナスタシアのために生まれてきた夫だと申し出た。
こうして、アナスタシアの身の回りで、着々と事が進められていった。
しかし、アナスタシアもただ指をくわえて見ているわけではなかった。もし、救世主が連れて来られたら、その場で逃がし、自分も逃走しようと思っていた。
結婚相手のフォード伯爵の事はほとんど知らない。
むしろ、怖い人だと思っている。
彼はなぜか自分を嫌っている。顔を合わせても笑いかけてくれたこともなく、他の女性とはダンスを踊っても、アナスタシアとだけは踊ってくれなかった。
無視されるたび、フォード伯爵は自分を嫌っていると思い込んだ。
しかし、本当は彼が気になって仕方なかった。
どうしてあの方が気になるのだろう。
相手をしてくれないのだから、自分も気にしなければいいのに。
アナスタシアの心はいつもフォード伯爵にかき乱されていた。それからの日々はため息ばかりだ。
救世主を探しに出かけた部下たちがいなくなって一年が過ぎようとしている。もうすぐ自分は21歳になる。
自分を愛してくれない人と結婚なんて、想像もつかない。
いつものように息をついた時だった。
ドアをノックする音がして、マレインが顔を出した。
「アナスタシア姫、フォード伯爵との結婚の日が決まりましたぞ」
それを聞いた瞬間、みぞおちから冷たくなるのを感じて、アナスタシアは真っ青になった。
何がどうしてこうなったの? わたしが何か悪いことをしたの?
わけが分からずパニックになった。
アナスタシアは立ち上がり叫んだ。
「嘘を言わないでっ」
「嘘ではない。何度も言うが、あの男は王女の夫として誰よりも条件を満たしている。彼の城は誰にも破ることができぬほど頑丈で、身分も申し分なく威厳があり、お主を宝石のように大事にするだろう」
アナスタシアは宝石と聞いて憤慨した。
「もうたくさんよっ。わたしは救世主じゃなかった。これ以上、侮辱するのはやめて!」
「ご自分の価値を分かっておらぬのはお主じゃ。どうしてわしの言う事をなにひとつきかぬ」
生まれてから今日までずっと騙されてきたからよ、とアナスタシアは言いたかった。
ずっと救世主だと崇められ、いい気になっていた自分をみんなは出来損ないの救世主、と陰で呼んでいたのだ。
これ以上惨めな思いは嫌だった。
マレインは魔女で年齢も分からない。
彼女はアナスタシアの怒りなど鼻にもかけぬ様子で、淡々と言った。
「わしの言う事は全て当たる。これまで外れたことは一度もない。お主は救世主と深いかかわりを持つ王女でジュリアン・フォードと結婚する運命にある」
アナスタシアはなおも言い返そうとした時だった。ドアをノックする音に口を閉じた。
興奮している自分を何とか落ち着かせて息を吐きだし、入ってもよいと命令すると、侍女が開けたドアの向こうに一年前からいなくなっていた部下、グレイスが立っていた。
アナスタシアはぽかんと口を開けて彼女を見た。
グレイスは大人びて髪も伸び、大人の女性になっていた。そして、彼女は告げたのだ。
救世主を見つけてきた、と。
とうとう、恐れていたことが現実になってしまった。
アナスタシアは何とか卒倒せずにグレイスを冷ややかに見つめた。
「今までどこにいたの?」
グレイスは、ハッとした顔で膝を突いた。
「我が王女様、国王陛下がお命じになった救世主を連れて参りました」
グレイスの声は興奮を隠せず、体は震えている。アナスタシアは絶望を感じていた。今すぐ泣き伏せたい気持ちをぐっと我慢して喉から声を出した。
「どうせ、偽物でしょ」
「いいえっ」
ガバッと顔を上げたグレイスの顔は必死だった。
「本物です。居間に待たせていますのでどうぞ見て下さい」
アナスタシアは、息を呑んだ。
もし、本物だったら。
わたしは、もうここにはいられない。
アナスタシアは決心して震える足を動かし、グレイスの後に従った。
そして、救世主の待つ部屋に入った。
それから、現在に至る。
アナスタシアは長い回想から頭を切り替えた。
まだまだ物事はなにひとつ解決していない。
アナスタシアは、グレイスが連れてきたこの救世主が大好きになっていた。
これ以上、この国に縛られるのは嫌だった。
ここを出て行く。
それにはフォード伯爵と結婚するしかない。
これが一番いい方法だと思った。
国王には、自分から素直に結婚すると言えばよいだけだ。
アナスタシアは、大きく息を吸い込んだ。
書斎のソファには、ミアとその兄である青年、そして、肘掛椅子にどっしりと座る金髪の男性がいる。
彼らを見ながら、どこから話したらいいのだろう、と心が逸った。
こんなにたくさんの事が一度に起きるなんて、まるで冒険への入り口に立ったみたい。
わたしはこれからサッサスへ嫁ぐのだ。
彼らを道案内するくらいはできるかもしれない。
それを考えると、アナスタシアは急に元気になった。
そうよ! みんなも一緒にサッサスへ行けばいいのだわ。だって、あそこは元ダイアン国の領地だったのだから、彼らが探している何かがあるかもしれない。
「そう言えば私たち、きちんと自己紹介していなかったわ」
そう言うと、金髪の青年がハッとした顔で頷いた。
「本当だ。プリンセスを前にして大変申し訳ありませんでした。わたしはヘンリー・マーシャル・オーウェンと申します」
アナスタシアはその名前を聞いて目を見開いた。
「まさか、あなたはジニア国の皇太子ではありませんの?」
ヘンリーが微かに顔をこわばらせ頷いた。アナスタシアは口を押さえた。
「なんてことかしら。こんなところで殿下に会えるなんて。でも、今、ジニアは大変な事が起きていると聞いていますわ」
「え?」
ヘンリーが眉をひそめた。
「ジニア国王陛下が危ない状態だと聞き及んでおります」
「父上が?」
ヘンリーの顔がさらに青白くなった。ミアの兄が彼を支えるように肩をつかんだ。
「ヘンリー、大丈夫か?」
「ああ、テオ、僕は大丈夫だ」
アナスタシアはちらりとミアの兄を見た。彼はヘンリーをしっかり支えた後、アナスタシアに向かってお辞儀をした。
「先ほどは失礼な真似をして申し訳ありませんでした。ぼくはミアの兄で、テオと申します」
「わたしこそ、あなた方に謝らなくてはなりません。グレイスのしたことは決して許されることではありませんが、命令に従ったことなのです。どうか、彼女を許して下さい」
「ミアを誘拐した理由はなんだったのですか?」
明らかにまだ怒っている口調だ。
無理もない。自分も同じことをされたら、決して許せないだろう。
「わたしは救世主ではありません。しかし、20歳になるまで自分は救世主だと思っていました。この国にゴーレがいないのも、平和であることも自分のおかげだと思っていたのです。しかし、20歳の誕生パーティーの日、偶然聞いてしまったの。わたしは救世主ではないと陰口を言われていました」
何とか言葉を振り絞ったが、声は震えていた。
あの時の事を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。貴族の娘たちが顔を突き合わせて囁いていた光景を思い出す。
悔しさのあまり、涙が出そうになった。
アナスタシアは口を噛んで我慢した。
「ずっと救世主だと思っていたわたしはすぐに周りの者に確認しました。それから真実を知ったのです。わたしが生まれた時、目の色を宝石だと勘違いした乳母の言葉が瞬く間に広がってしまった、と。しかし、宮廷の者たちはすぐに嘘であると見抜き、黙っていた。わたしと民衆だけが愚かにも気付かなかったのです」
アナスタシアは一度、言葉を切って息を吸い込んだ。
「でも、真実を知ってすぐに救世主であることをやめました。自分で噂を広めたのです。王女は救世主ではなかった、と。すると、民衆から証拠を見せろと言う声が上がりました。わたしはこれを機にどこかへ逃げるつもりだった。しかし、それが出来なくなってしまった。国王が本物の救世主を探し身代わりをさせようとしたのです。そして、グレイスは本当に連れて来てくれました」
気がつけば、ミアが手を握っていた。優しい目が見つめている。
「これからどうするの?」
アナスタシアは、ミアの柔らかい手を握り返した。
「あなたは何もしなくていいわ。わたしはこの国を出ることにしたの。結婚するのよ」
「誰と?」
「ここよりずっと東にあるキャクタス国にあるサッサスの城主と結婚するのよ」
「キャクタス…」
テオが茫然と呟いた。
「ええ、そう。あなた方が探しているキャクタス国にわたしは嫁ぐのよ」
三人が驚いている。
びっくりするのはこれだけじゃない。
これから話す内容を聞いてどうするだろう。
信じるかしら、とアナスタシアは不安に思った。
「さっき、ミアの顔をどこかで見たことがあると言ったでしょ」
ミアが急に顔をこわばらせた。
「ええ…」
「わたしはマレインに救世主と深いかかわりがある、と言われ続けていた。だから、自分なりに救世主について詳しく調べたわ。すると、キャクタス国の王族の肖像画を見つけたの。その中にミアによく似た顔があったわ。ミア、あなたはキャクタス国の第1王女とそっくりなのよ」
そう言うと、ミアが茫然として首を振った。
「そ、そんなはず…ない。だって、わたしは…」
ミアは口をつぐんだ。そして、唇を噛みしめた。
「わたしには3歳以前の記憶がないの…」
テオが震えるミアの手を取って強く抱きしめた。
アナスタシアはそんなテオをじっと見つめた。
「あなたは? テオ、何か知っているのじゃないの?」
テオは口をつぐんだままだった。
何も言わないところを見ると、彼は何かを隠しているように見えた。
テオはしばらく黙っていた。ヘンリーも彼が何か言うのを待っている。
「テオ、どうなんだ」
その言葉にハッとしてヘンリーを見た。テオは唇を噛んでいたが、やがて静かに息を吐いた。
「俺は何も知らない。ただ、母が自分の生い立ちを話してくれたことがある。生まれはキャクタス国で、全てを捨てて逃げ出してきた。ミアは知り合いの女性が死んでしまったから、彼女に託されたと聞いた」
「君たちはキャクタス国の出身だったのか…」
ヘンリーが驚きで目を見張った。ミアも同じだったようで何も言えずにいる。
アナスタシアは思った。
テオはまだ何か隠している。どうしてそれを打ち明けないのか、それとも、打ち明けられないのだろうか。
その時、部屋の静けさを打ち破るかのように、ドアをノックする音がして、アナスタシアは口をつぐんだ。ドアが開いて、侍女がゆっくりと入って来た。
「アナスタシア様、お客様でございます。フォード伯爵がご挨拶をしたいとお見えになられています」
アナスタシアはびくっと肩を揺らした。緊張のあまり息ができなくなる。
「アナスタシア…?」
ミアが側に立っていた。アナスタシアは大きく息を吸い込んで自分を落ち着かせた。
「わたしの婚約者よ。すぐにお会いするわ。こちらにお通しして」
「ですが…」
侍女が中にいる三人をじろじろ見た。
「こちらにお通しするのよ」
「は、はい!」
彼女は顔をこわばらせると、すぐに出て行った。
「わたしたちいない方がいいんじゃないの?」
「いいえ、いてほしいの」
「でも…」
「ミア、わたしができる唯一のお礼は、あなた方を彼に紹介することだわ。フォード伯爵こそ、キャクタス国にゆかりのある方ですもの」
言いながらアナスタシアの声は少し震えていた。
口もきいたことのない婚約者に、これから図々しい頼みごとをするのだから。
アナスタシアは笑ったつもりだったが、内心、恐怖で一杯だった。
ジュリアン・リンジーはどのような男性なのだろう。
全く想像もつかなかった。