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裏切り



 それから数日は何も起きなかった。

 狩りをしたり、食べられる野草を採ったりしてゆっくりと進んだが、ゴーレにも人間にも出会わなかった。それがかえって不気味に思えたが、テオが言うには、人々は皆、滅多に外を歩いたりはしないとのことだった。



 その夜、森の中で休むため、野宿する準備をしていると、暗闇の方からゴーレの叫び声がした。


 ギャーッギャーッという独特の声にみんなの顏が凍りついた。


「みんな、静かにして」


 グレイスが剣を構えたその時、


 ――痛い…。


 と声が聞こえた。ミアが身震いすると、ヘンリーが気づいた。


「どうしたミア」

「誰かが痛いって言ってる」


 男か女かも分からない不思議な声だった。


 ――痛いよ。助けて…。


 声は闇の方から聞こえた。他のみんなも同じように耳を澄ましたが、全員首を横に振った。


「ゴーレの呻き声しか聞こえない」


 その言葉にミアはハッとした。

 あの日、あの図書室の時と同じだ。


「みんな、ここにいて」


 ミアはそう言うと、音を立てずに闇の方へ歩き出した。


「ミアっ」


 テオがすぐに追いかけて来て、ミアの手をつかんだ。


「何しているっ」

「声が聞こえるの」

「危険だ。行くな」

「でも、テオ…」


 声はしっかり聞こえる。

 ミアには分かっていた。これはゴーレの声なのだ。ゴーレが苦しんでいる。


「大丈夫よ」

「大丈夫じゃない」


 テオは目を吊り上げて、ミアの手首をぎゅっとつかんだ。


「痛い、テオ」

「俺は絶対に離さない」

「だったら一緒に来て」


 ミアは手を切り落とされても行くつもりだった。

 テオは痛い程ミアの手を握っていたが、観念したらしく自分が前に進み出た。


「俺が前を行く」

「ありがとう」


 心配そうに見ているみんなに、すぐに戻るから大丈夫だ伝えて、ミアとテオはゴーレの声がする方へ行った。

 ミアはテオのすぐ後ろに従った。


 草むらをかき分けて少しだけ進むと、月明かりに照らされた闇の中に、片方の翼を失ったゴーレが血を流して倒れているのが見えた。そして、その側に男の人がいた。


 テオが立ち止り、ミアも口を押さえた。


 男の人は何をしているのだろう。

 ミアは最初、彼がゴーレを傷つけたのだと思った。そして、苦しんでいるゴーレを観察しているように見える。瞬間、怒りに燃えた。


「あなたがそんなひどいことをしたのっ?」


 思わず悲鳴のような声をあげていた。

 男の人がびっくりして顔をこちらへ向けた。灰色の目をした穏やかな顔立ちの青年だった。銀縁の眼鏡をかけている。

 彼は目を丸くしてミアとテオを見た。

 テオは腰に帯びた剣を彼に向けていた。


「何者だ」

「いきなり出てきてそれはないでしょう」


 彼はにこっと笑って両手を挙げた。


「丸腰ですよ。争いは致しませんから」


 そして、ゴーレをちらりと見た。


「僕がやったのではありません。罠があったのです。それにゴーレがかかって腕を切り落とされた」

「罠…!」


 ミアとテオはお互いの顔を見た。確かに罠が仕掛けてあり、無残にも翼がちぎられている。


「みんなに知らせなきゃ」


 ミアが青ざめると、


「動かないで。この辺りは罠が多く仕掛けられています。気をつけて」


 と、青年が淡々とした口調で言った。


「あなたは誰? ここで何をしているの?」


 ミアが矢継ぎ早に聞くと、青年は肩をすくめた。

 テオより2、3歳ほど年上だろうか、ほっそりした長身で上品な顔立ちをしている。


「僕はマシュー。ゴーレの研究をしています」


 マシューと名乗る青年は体を起こすと2人に近づいて来た。

 その時、後ろからガサガサと草をかき分ける音がして、振り向くとグレイスが立っていた。彼女はゴーレの姿を見るなり弓を引き、その矢はゴーレの頭を貫通した。ゴーレは悲鳴を上げることもせず、息絶えた。


「なんてことを……」


 ミアは信じられない思いでグレイスを見た。彼女は険しい顔でゴーレを睨みつけると、次にマシューを見た。


「何者なの?」


 マシューは手を挙げて、肩をすくめた。


「何と勇敢なお嬢さんだろう。美しい顔とは裏腹に悪魔の心を持ったお人のようだ」

「何ですって」


 グレイスの目が鋭く光る。


「グレイス、やめろ」


 テオが彼女を止めた。グレイスは納得のいかない顔で息を吐いた。


「ゴーレは死んだわ。もう、戻りましょう」


 ミアたちを促して静かに戻って行った。

 ミアは首を垂れているゴーレに近寄った。

 目を閉じて死んでいる。人間と同じ赤い血は傷口から溢れ出て地面に染み込んでいった。


「殺すなんてかわいそうだわ」

「君は面白いことを考えるんだね」


 マシューが隣にしゃがんで言った。

 彼の瞳は優しい淡褐色ヘーゼルだった。よく日に焼けていて、頬にそばかすが散っている。

 ミアは警戒するように彼を見た。


「ゴーレの何を研究しているの?」

「もちろん、ゴーレと救世主の関係性だよ」

「関係性?」

「君は誰?」

「え?」


 逆に問いただされて戸惑う。


「わたしは……」


 答えようとしたが、うまく言えなかった。


「ま、今夜はもう遅いから休んだ方がいい。他にも仲間がいるのかい?」

「ええ」

「なら、戻ろう」


 マシューがミアに手を差し出した。

 ミアはその手につかまって立ち上がった。テオは黙って見ている。

 マシューが肩をすくめて手を離した。


「ここで野宿するということは、明日は村へでも行くのかな?」

「村って?」

「ここはケイン国の領土だ。この土地には小さい集落がいくつか散らばっているが、どこも貧しくてね。日々の生活がやっとさ」

「あなたはケイン国の人なの?」


 マシューは肩をすくめた。


「僕は違う。ただの流れ者だ。あああ、せっかくゴーレを見つけたと思ったのに、あっさり殺されてしまった。そうだ。見るかい? このゴーレの行く末を」


 マシューがくるりと身を翻す。ミアは慌てて彼の後を追った。


「ミア、戻れっ」


 テオが怒った声がしたが、ミアは従わなかった。

 マシューを追うと、ゴーレが先ほどの場所で倒れているのが見えた。テオが追ってきて背後で大きく息を吐いた。そして、ミアの腕をつかんだ。

 ミアたちは少し離れてゴーレを見ていたが、何も変化はなかった。しかし、どこから集まったのか、あっという間にたくさんの虫がたかってきて、ゴーレの姿が消えていった。


「このまま食われるんだ。ゴーレは元は人間だったって知っているんだろ?」

「……ええ」


 ミアはゴーレから顔をそむけた。


 言えない。

 ゴーレが痛いって悲鳴を上げていたなんて。


「さあ、行こう」


 マシューが促す。振り返ると、テオが真後ろに立ちミアの腕を取ったまま離さなかった。すると、グレイスが怖い顏で闇から再び現れた。


「ミア、遅いから迎えに来たのよ」


 鋭い口調で責める。


「ごめんなさい…」

「ミアって言うの? 可愛い名前だ。君にピッタリだね」


 マシューが笑う。

 どうして彼は笑えるのだろう。こんな状況なのに。


 不思議な人だと見ていると、温かい手に包まれてドキッとした。テオがミアの手を握りしめて強く引いた。


「行くぞ、ミア」


 強引に歩くテオに従ったが、ミアは心臓が飛び出そうなほどドキドキしていた。


「テオ、ごめんなさい、心配をかけて」

「誰でもすぐに信じるんじゃない」

「でも、悪い人には見えないわ」

「会ったばかりの人間だ。分かるものか」


 テオは吐き出すように言って、さらにミアの手を強く握った。マシューが後ろでくすっと笑った。


「恋人の言葉は従った方がいい。誰でも信じゃいけないよ。特に君みたいに可愛い女の子は」


 テオを恋人だと思われたのは初めてだった。

 ミアはあまりにびっくりして、頬が燃えるように熱くなる。なぜか、テオも誤解を解かなかった。

 マシューは笑顔を張り付けたまま、一緒についてくる。

 トマスたちの元へ戻ると、ソフィーがすぐに駆け寄って来た。


「何があったの? その人は誰?」


 マシューが改めて自己紹介をした。


「僕はマシュー。ゴーレについて研究をしながら、あちこち旅しているんです」

「へええ、それはいい」


 トマスが目を輝かせて食い付いた。そして、2人で話しこむとその中にヘンリーも加わった。


 ミアはへとへとだった。テオはミアの手を握ったままで、まるで、子供の頃に戻った気がした。


「テオ」

「ん?」

「わたしが眠るまでそばにいて」


 頼むと、テオはふっと笑った。


「いつだって、俺はお前を見ているから」


 テオはそう言ってミアの頭を撫でてくれた。

 その夜、ソフィーの隣で眠った。テオが守ってくれているのだと思うと、嬉しくて思わず笑みがこぼれた。




 翌朝、早く起きて出発の準備ができると、マシューが村はすぐ近くだと教えてくれた。


 夕べ、トマスとヘンリーは何を話したのだろう。

 トマスの顏はにこにこしているし、ヘンリーも彼を信じているように見えた。テオとグレイスだけは、マシューの動きを見ている。

 歩き始めて、ミアはソフィーに聞いてみた。


「ねえ、あの人どう思う?」

「マシュー? ハンサムだね。みんないい男ばかりだけど、ミアはテオしか見ていないしね」


 ソフィーはそう言ってミアをからかった。


「好みを聞いているんじゃないのよ」

「あらそう」


 ソフィーがにこっと笑う。そして、


「悪い人には見えないよ」


 と付け足した。


 それからミアたちは、マシューに罠がある場所を教わりながら慎重に進み、昼を過ぎてようやくクロエの住んでいた集落へ辿りついた。

 集落と言っても暗く寂しい場所で、見るからに貧しい村だった。井戸は枯れていて、村からは鼻をつく体臭がしていた。


「さ、着いたよ」


 クロエがいた村。

 ミアは呆然とその村を見た。粗末な小屋には不潔な服がぶら下がり、人の姿はない。

 クロエには弟がいるらしく、テオに案内してもらった。

 テオが汚い小屋の前に来て、ここだ、と言った。

 トマスが声をかけると、ためらうようにしてドアが開いた。中から痩せた少年が顔を出した。クロエに似ている部分があるだろうかと見たが、黒髪と黒い瞳は同じだが、細い目と尖った顎は似ていなかった。


 痩せ細った少年はテオを見ると目を吊り上げた。


「クロエを連れて行った男だ」


 テオにつかみかかろうとしたが、こちらの人数を見て静かにうなだれた。


「何しに来たんだよ…」

「クロエについて話が聞きたいんだ」

「今さら…?」


 少年は眉をひそめたが、ハッとして左右を見た。


「とにかく入って目立つから」


 中はひどい有様だった。


「あなた一人で暮らしているの?」


 ミアが聞くと、少年は頷いた。そして、サッと目を逸らした。

 ヘンリーが少年に近づいて、持っていたクロエの石を見せると、少年は目を見開いた。


「それはクロエの石!」


 そして、小さく言った。


「死んだんだな…」


 がっくりと頭を落とす。そして、ぽとぽとと大粒の涙を流した。


「母さん、クロエ死んじゃったよ…」


 呟いた言葉を聞いて、ミアは胸を突かれた。


「クロエを助けてあげられなくて、ごめんなさい」


 ミアが謝ると、彼は悔しそうに呻いた。


「いつかこうなると思っていた。それは、ゴーレを呼び寄せるんだ」


 マシューが身を乗り出して、石を眺めた。


「それは救世主の石? 初めて見たよ」


 少年が石から顔をそむけた。


「それを持っていると不吉な事が起きる。石はゴーレと繋がっているんだ」

「クロエはこの石を額に嵌めて生まれてきたんだね」


 ヘンリーが聞いた。


「そうだ。俺とクロエは双子だった」


 その言葉にみんなが驚いた。では、彼は18歳なのだ。

 少年はとても痩せており、背も高くない。顔も細く、とても18歳には見えなかった。


「石を持つ救世主が生まれたおかげで村は壊滅状態になった。俺たちの村では悪魔の石と呼ばれている。母さんはクロエが生まれてすぐにその石を取ろうとした。けど、あんまり泣くんでできなかった、と言っていた。母さんがどれほどクロエを守ろうとしたか、あんたらには分からないよ」

「今、お母さんは……?」


 ソフィーの質問に少年は沈んだ声を出した。


「死んだよ。あんたらがクロエを連れて行ってすぐ病気で死んだんだ」


 これ以上、少年に何かを尋ねるのは酷だった。

 ミアたちはすぐにその場を追い出された。


 小屋の外に出た時、誰も話さなかった。

 先ほどまでは曇り空だったのに、今にも雨が降り出しそうなほど空が暗くなっている。その時、温かい手のひらがミアの手を握りしめた。見ると、テオが隣に立っていた。


 ミアはぎゅっとその手を握り返した。

 テオはミアを探すためにこの村へ来た。そして、クロエと出会ってしまった。


 それだけだ。テオを責めることはできない。

 誰も何も言わず、ただ黙っていた。


 重苦しい空気を打ち破るかのようにトマスが励ますように口を開いた。


「さあ、過ぎた事は仕方ない。みんな元気を出して進もう」


 元気を出すには時間がかかりそうな雰囲気だが、みんながお互いの顔を見合わせたその時、がやがやと騒がしい音と共に村人が手に何かを持って家の中から飛び出してきた。

 ミアは咄嗟にテオにしがみついた。テオがミアを背中にかばう。

 彼らのほとんどは高齢の男性たちで、手には斧や鎌など物騒な物を持っている。

 ミアは怖くて足が震えた。

 すると、クロエの弟が家の中から飛び出して来て、村の男たちに叫んだ。


「みんな、やめてくれっ。争いはしないって約束したじゃないかっ」


 少年は必死で言った。しかし、斧を持った老人が叫んだ。


「今すぐこの村から出て行け。殺されたくないのならっ」


 目は血走っており、恐ろしい形相だ。

 ヘンリーが頷いた。


「すぐに出て行く。邪魔をして申し訳なかった」


 ミアたちは村人を気にしながら急いで出て行こうとした。急ぎ足でその村から離れ、ちらっと振り向くと、彼らはまだその場に立っていた。


 ミアはドキドキしながら、何も起こらないことを祈った。

 一刻も早くこの場を立ち去りたいと思っていると、後ろから風を切る音がして、見ると地面に矢じりが突き刺さっていた。


 びっくりして振り向くと、鎖帷子を着て兜をかぶった兵士たちがどこからか現れて弓を構えている。村人が慌てて家の中に逃げ込むのが見えた。

 ヘンリーが叫んだ。


「森へ逃げろっ」


 誰もが走り出した時、背後からまたあのいやな音がした。ミアたちの背後から弓矢が迫ってくる。

 ミアは恐怖で一杯だった。背後から狙われるなんて、子どもの頃以来だった。


 無我夢中で走った。

 みんなが森へ入り込んだ時、兜をかぶった人たちが剣を抜いて迫ってきた。

 

「ミア、動かないで」


 横にはヘンリーがいて、彼の顏はいつも以上に青ざめて見えた。テオはどこだろう。探すとすぐ後ろにいて、ミアの手を握った。


「絶対に離れるな」

「ええ」


 ミアはテオの手を握り返した。

 みんな無事だろうか。

 確認すると、全員無事でソフィーは体を震わせていた。


「静かに」


 ヘンリーが言って、テオに何か囁いた。テオが頷く。そして、みんなに向かって言った。


「俺たちがおとりになって奴らを引き寄せるから、その間、みんなかたまって少し離れた場所へ逃げるんだ」

「分かった」


 トマスが頷く。

 ミアはテオの服を握ったまま離せなかった。


「ミア、離すんだ」

「テオ…必ず生きていて」

「大丈夫だよ」


 テオが笑って、ヘンリーの方を振り向いた。2人が頷いて駆け出す。そして、わざと音を立てて走り出した。兵士たちが一斉にそちらへ顔を向け、弓を引いた。


 どうか二人を傷つけないで!


 グレイスがミアの手を引いて歩きだした。


「こっちよ、ミア」


 グレイスはミアの手をぐいぐい引っ張って先へと進んで行く。


「どこまで行くの?」


 グレイスに問いただしたが、彼女には聞こえないのか、足がもつれるほど早く進んでいく。このままでは他のみんなが追いつかないのではないか。


 グレイスはすごい力でどんどん進み、これ以上離れたら、見つけるのが困難になるのではないかと思った。


「グレイスっ」


 小声で呼んだが彼女の足は止まらなかった。

 どこまでも進みようやく止まったと思った時、目の前に兜をかぶった兵士たちが大勢いてミアたちを取り囲んでいた。

 ミアは小さく悲鳴を上げてグレイスに抱き付いた。

 グレイスはミアを抱きしめたまま、囁いた。


「大丈夫、味方だから」

「え?」


 ミアはグレイスから体を離し、彼女を見た。

 彼女はにっこりと笑ってミアの背中を押した。兵士たちの中に強く押され、地面に手を突いた。

 両手を奪われ後ろに手にまわされる。口を塞がれ目隠しをされた。あまりの恐怖に声が出なかった。


「気をつけて、その子は救世主だからゴーレを呼ぶかもしれない」


 グレイスの声が後ろから聞こえた。

 彼女に裏切られたのだと気づいた。





 何が起こっているの?


 頭の中は混乱し、目隠しをされているので、恐怖でいっぱいだった。

 それから何かに乗せられて、ガタガタ揺られながらどこかへ運ばれた。

 ミアは救世主だから、たやすいことでは死ぬことはできない。自分に言い聞かせたが怖くてたまらなかった。

 

 どれくらいの時が過ぎたのだろう。



 身を守るようにして大人しくしていたが、誰も何も言わないので、不安は大きくなるばかりだった。

 ようやく止まり、ミアは下ろされて歩くよう指示された。それから後ろから男の声がした。


「膝を突いて頭を下げろ」


 耳のあたりで男の低い声がしてぞっと身震いしながら、言われた通り膝を突いた。床は絨毯でふかふかしていた。


 ここはどこ?

 さらに不安が募った。


 突然、目隠しを外されると、明るい光りを放つシャンデリアが目の前にあった。こんな豪勢な物は見たことがない。


 目が慣れてくると部屋はオフホワイトの壁に男女の肖像画がたくさんかかっていて、どれもみな美しい顔をしていた。

 部屋の中央には立派なアンティークのイスがあり、唖然としていると右奥にある重厚な扉が開いて若い女性が入って来た。

 二十歳くらいだろうか、自分よりは年上に見える。


 髪の色は薄い金色で肌の色は真っ白だ。淡い黄色のモスリンのドレスには小さい花が散りばめられ、とても華やかだった。

 ドレス姿の女性はとても美しく、顎をツンと上げて優雅に入ってくると、椅子に座って感情のない目でミアを見た。


「この者は?」


 彼女は誰もが見とれるほど美しかったが、表情が乏しく蔑むような目をしていた。

 ミアはその女性の目を見て息を呑んだ。彼女の瞳は初めて見るヴァイオレット色だった。

 グレイスが前に出てきて膝を突いた。


「本物の救世主です。アナスタシア様」


 アナスタシアと呼ばれた女性は眉ひとつ動かさなかった。


「グレイス、あなた、しばらく顔を見ないと思っていたら、こんな薄汚れた少女を探しに行っていたの?」


 グレイスは焦った顔で口を開いたが、アナスタシアが手で制した。


「追い返しなさい」

「アナスタシア様、どうぞ聞いてください。今、あなた様は窮地に立たされています。この者がいれば、あなたの名誉は守られます」


 それを聞いたアナスタシアが、グレイスを睨みつけた。


「本気で言っているの?」

「はい。ミア、宝石を見せて」

「え?」


 ミアは顔をこわばらせた。


 こんな大勢の前で宝石を見せろと言うの?


 ミアは首を振った。


「嫌よ」

「刃向かえば命がないわよ」


 グレイスが腰に帯びていた短剣を取り、ミアの首筋に当てた。


「王女さまに見せなさい」


 ミアはグレイスの変貌に驚き、ショックを受けながら震える手でシャツをめくった。

 宝石を見たアナスタシアが弾かれたように椅子から立って、ミアのところへかけてきた。そして、手を伸ばしてそっと宝石に触れた。


「嘘でしょ…。本物だわ…」


 アナスタシアは顔をこわばらせて、ミアを見た。


「アンバー色の瞳…」


 そう呟いた瞬間、彼女の顔付きが険しくなった。


「この者の髪の毛を切りなさいっ」


 グレイスがまたもや驚いて目を見開く。


「で、ですが、この者にあなたの代わりをさせなくてはなりません。髪を切れば偽物とばれてしまいます」


 アナスタシアは唇を噛んだ。


「仕方ないわ……。では、すぐに支度を」

「はい」


 アナスタシアが部屋を出て行き、グレイスはミアに立ち上がるよう命令した。


「早く! 急ぐのよ、ミア」

「グレイス、いったい何が起きているの? 説明をして」

「説明している暇はないの。危険が迫っているの」

「なぜ?」


 あの偉そうな女性に危険が迫っているとは思えない。

 何が起きているのかどうしても知りたかった。


「説明をしてくれなきゃ、ゴーレを呼ぶわ」


 ミアが脅すと、グレイスの手が止まった。


「脅迫するの? 救世主ともあろう人が」

「あなたはわたしを誘拐したのよ。絶対に許さないわ」


 ミアがグレイスを睨むと、彼女は悔しそうに息を吐いた。


「悪かったわ。説明をするから、聞きながら着替えをして」

「着替え?」

「ええ。あなたはこれからケイン国第2皇女のアナスタシア姫として群衆の前で救世主の力を使うのよ」


 それを聞いた瞬間、血の気が引いた。


「……え?」

「我が国、ケイン国は危機にさらされている。救世主として崇められていたアナスタシア姫を何者かが偽物呼ばわりしたの。彼女は生まれながらの救世主であると言われていたのに、誰かが証拠を見せろと言いだしたのよ」

「救世主ではないの?」

「残念ながら…そうよ。だから、私たちは救世主を探していたの」


 ミアにはまだ理解できなかった。

 どうして、そんな嘘をついたのだろう。


「誰がそんな嘘を……」

「王妃の乳母よ。乳母が、王妃が美しい宝石を持つ姫を生んだ、と言ったの。それがたちまち噂となり、アナスタシア姫は宝石を持つ救世主として民に祝福された。彼女自身も自分は本物の救世主だと思っているわ」

「宝石は?」

「あるはずないわ。だって、彼女の不思議な目の色を勘違いした乳母が口から飛び出した嘘だったのだから…」

「その乳母はどうしたの?」

「国王に処刑されたわ」


 ミアは恐ろしさに身が震えた。


「どうしてそんなことに……」

「それよりも早くっ」


 グレイスがミアの手を引いて、どこかの部屋に押し込めるといなくなった。そこにはバスタブがあり数名の侍女が待っていた。洋服をはぎ取られ、宝石をじろじろ見られながらバスタブに強制的に入れられた。

 体が腫れるほどこすられ、髪の毛も抜けるかと思うくらい念入りに洗われる。

 涙が出るほどの屈辱にミアは唇を噛んだ。

 体を拭かれ、豪華なドレスを身につけさせられた。髪の毛には黄色い粉を塗りたくられて、ブラウンの髪が金色になった。髪を引っ張られて結い上げられると、鏡には見たこともない女性が立っていた。


 まさに、あの冷たい顔の人形。アナスタシアにそっくりだった。

 だが、目の色だけが違う。


「目はどう説明するの?」


 ミアがやけになって言うと、ちょうどタイミングよくグレイスが部屋に入って来て睨んだ。


「救世主の目の色は変わると言えばすむだけよ」


 吐き捨てるように言って、キラキラ光る小さい靴を差しだした。


「これを履いて」


 低いかかとの靴だったが、この世にこんなきれいな靴があったのかと驚いた。

 いつもブーツだったので、初めて履くヒールは歩きにくい。

 歩くと、グレイスに優雅に歩きなさいと叱られた。


 なぜ、こんな目にあわなくてはいけないのか。


 どうにかして逃げたいのに、グレイスはミアを離さない。

 腕を引かれ、今度は豪勢な部屋に連れて行かれると、そこには大きなバルコニーがあった。その向こうからは、わーっと言う人々の歓声が聞こえている。それを聞いた瞬間、足がすくんだ。


 このままではとんでもないことが起こる。

 それだけは分かった。

 急に立ち止ったミアの腕をグレイスが思い切り引いた。


「ミア、歩くの」

「いや、いやよっ。できないわ。わたしにはアメリアのように光を出すこともできない。嘘をつくなんて絶対にいやよっ」

「あなたは人を治す力を持っている。それを証明してくれたらいいわ」

「どういう事? 誰を治すの?」

「ケガをする人はいくらでもいるわ」


 ミアは唖然として彼女を見つめた。


「なんてことを言うの? 頭がどうかなってしまったんじゃない?」

「私は正気よ。アナスタシア様の命を救うなら、なんでもする」


 グレイスの目は真剣だった。

 ミアは抵抗したが、彼女の力には勝てなかった。

 その時、反対側のドアが開いて優雅にアナスタシアが歩いて来た。侍女が立ち止まって両手を組んで頭を下げた。

 アナスタシアはミアを見るなり、サッと手を振った。


「グレイス、わたしを救世主と二人きりにして」

「え?」


 グレイスが聞き返した。


「今、何とおっしゃられました?」

「救世主と二人きりにして、と言ったの」

「危険すぎますっ」


 グレイスが目を見開いたが、彼女は表情一つ変えず静かに言った。


「わたしの言う事が聞けないの?」

「はい…」


 グレイスは声を小さくすると、肩を落として部屋を出て行った。

 アナスタシアと二人きりになりミアは身構えた。


 部屋に誰もいなくなると、アナスタシアがゆっくりと近づいて来た。

 彼女からは甘い香水の匂いがした。美しい顔がミアを見ている。そして、そっと手を伸ばした。白くて細い手は微かに震えていた。


「こんな事に巻きこんでしまってごめんなさい」


 彼女は悲しそうにこう言った。そして、ミアの手を取ると、ドアの方へ引っ張った。


「アナスタシア様?」

「ここからすぐに逃げるのです」

「どうして……」


 ミアは混乱しながら彼女を見た。

 アナスタシアは鋭い瞳でミアをじっと見つめて素早く言った。


「さあ、早く、この者があなたを安全な場所へ連れて行ってくれます」


 扉の向こうに先ほどの侍女が立っていたが、その時、侍女を押し出すようにして黒いローブを羽織った老女が中へ押し入ってきた。

 侍女は怖気づいてドアの外へ消えた。


 重厚な扉がバタン、と閉まり、アナスタシアが後ずさりした。


「マレイン……」


 現れたのは、まるで絵本に登場するかのような魔女のような老女だった。

 老女はしわだらけの手でミアの手をつかみ、そして、アナスタシアを睨みつけた。


「いかがなさるつもりか、アナスタシア姫!」


 その強い叱責にミアは飛び上がった。

 老女の鋭い声は部屋の調度品を倒し、部屋中が震えるほどだった。


 アナスタシア姫は今にも泣きそうな顔で唇を噛みしめていた。


「あなたの言う事はでたらめだわ」

「いいや、でたらめではない!」


 老女はミアの手首をしっかりつかみ、アナスタシアの元へ引っ張った。


「その美しい宝石のような瞳でよく見るがいい、この者は正真正銘、紛れもない救世主。わしの予言は確かじゃ」


 いったい何が起こっているのか、全く分からない。


 アナスタシアは恨むような目でミアを見て目を逸らした。


「なぜ、そんなに拒む。あの男こそ、姫のために生まれてきた男ぞ」

「あの方はわたしを愛してなどいないわっ」


 それを聞いて老女が押し黙った。


「フォード卿と話をしたのですか?」

「とにかく、今はこんな話をしている暇じゃないわ。みんなが待っているの。これ以上待たせると、暴動が起きるのじゃなくって?」

 

 それを聞いて老女が鼻で笑った。


「暴動などおきぬ。姫がバルコニーでいつものように手を振ればよいだけの事」


 アナスタシアはそれを聞いてびくっと肩を揺らした。


「嫌よ、もう、こんなみっともない姿を民衆にさらすなんて」

「意気地のない姫さまじゃ」


 老女がニヤッと笑うと、ミアを睨みつけてひとこと言った。


「お主、わしから逃げようと思うな」


 恐ろしい顔ですごまれ思わず頷くと、目の前で信じられないことが起こった。

 老女がローブの中から杖を取り出し、自分に向けて振ると、何とその姿がアナスタシアに変わったのだ。

 ミアはあまりに驚いてその場に座り込んでしまった。


 アナスタシアが二人いる!


 老女はスタスタと窓の方に行くと、バルコニーへ出て手を振った。

 外からワーッと歓声が上がる。

 そして、手のひらを群衆に向けて空に向けて光りを放った。

 ミアは唖然としてそれを見た。


 群衆から、アナスタシア様コールが鳴り響き、それからしばらく手を振ってから部屋に戻ってきた。


 本物のアナスタシアはイスに座り込んで顔を押さえていた。

 老女はすっと杖を振り元の姿に戻った。


「どうじゃ、なんでもなかったろう?」


 アナスタシアは顔をも上げず、ただ首を振っただけだった。

 ミアは混乱したまま2人を交互に見ていたが、すぐにハッとした。


「わたしには大切な仲間がいるんです。今すぐ解放してください」


 老女はサッと手を挙げてミアに何か言うのをやめさせた。


「黙るんじゃ、救世主」

「わたしはミアよ。ちゃんとした名前があるの」

「ほお」


 老女はにやりと笑った。


「ミア……。本当の名前はそうじゃないはずだ、救世主よ」

「え?」


 ミアは瞬間、息が止まったかと思った。


「わしを欺くことはできない。真実の姿を隠した救世主の出来そこないめ」


 老女の言葉にミアはショックのあまり、足元がなくなるのかと思うほど、ぐらぐらと体が揺れた。


 ばれている。わたしの本当の姿を見抜いている。


 言葉を失ったミアに老女は追い打ちをかけるように言った。


「アナスタシア姫よ、この者は未熟な救世主。面白いことに、お主より不幸な生い立ちのようじゃ」

「やめて、マレインっ」


 アナスタシアはぴしゃりと言って、立っていられないミアの元へ駆け寄って来た。


「かわいそうにこんなにおびえて。マレインの言ったことは気にしないでいいのよ」


 マレインと呼ばれた老女がぎろりとアナスタシアを睨んだ。


「ようやく時が動き出した。わしの予言は当たる。この者が真の姿を取り戻した時こそ、平和が訪れるのじゃ」

「ミアと言ったわね」


 アナスタシアが、マレインの言葉を無視して、そっとミアを支えてくれた。


「あなたを助けてあげる。心配しないで」

「姫よ、この出来そこないの救世主にいい加減な事を言ってはならんぞ」

「出来そこないなんて言わないでっ」


 アナスタシアはマレインを睨みつけた。


 彼女は優しいまなざしでミアを見ていたが、ミアの心はそれどころじゃなかった。


 恐怖に呑みこまれ、頭がグルグルしていた。


 めまいがしている。死んだ方がマシなくらいだった。


「様子が変だわ…」


 アナスタシアが言った。


「ねえ、マレイン、救世主の様子がおかしいわ」

「出来そこないの救世主よ、真実を語れ! お主の本当の姿を本当の名前を名乗るのだ!」


 言っちゃダメ!


 心の奥で誰かが叫んだ。


 テオに会えなくなるんだよ!

 それでもいいの? この世界にいられなくなるんだよ!


 ミア! あなたはミアよ!


「ミアじゃないっ!」


 ミアは叫んだ。


「わたしはミアじゃない!」


 アナスタシアが後ずさりしている。


「じゃ、じゃあ、あなたは誰なの?」

「わたし、わたしは……」


 涙があふれてきて前が見えなくなった。


 手が薄れている。

 目の前が涙で滲んで見えなくなっていく。


「ミアッ」


 アナスタシアが叫んで手を伸ばしたが、ミアには届かなかった。

 マレインが恐ろしい形相で言った。


「名を名乗れ、お主を元の世界へ解放してやる」

「わたしは、ハルト……。春人はるとと言います……」


 世界が崩壊していく。


 アナスタシアとマレインが遠ざかる。


 どこかでわたしの名前を呼んでいる。

 違う、わたしの名前じゃない。

 わたしはミアじゃない。

 ただの、ちっぽけな、いじめられっ子の春人だ。


 テオ――。

 テオ、助けて……。



 ミアは意識が薄れかけては目を覚ますというのを何度もくり返しながら、どこかへ落ちて行った。


 そう。それこそどんどん落下している。それが分かる。

 少しずつ目を開けているのが辛くなって。

 もう何もかもがどうでもよくなってしまった。




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