『パラオ・ペリリュー島の戦い』
おはこんばんちは!
今回は第二次世界大戦の中でも屈指の激戦と言われたパラオ・ペリリュー島の戦いと、その時日本軍が、パラオで何をしたかを解説しようと思うとる
1919年、第一次世界大戦後の『パリ講話会議』によって、パラオはドイツ植民地から、日本の統治領になったんじゃよ
これは当時の国際連盟の決定に沿って日本の委任統治になったんじゃな
ドイツ植民地時代には、学校建設や病院整備、道路などのインフラ整備がほとんど行われなかったんじゃが、日本統治時代になると、学校建設(教育奨励)・病院建設(衛生管理向上)・道路整備・発電所建設などインフラ整備や教育改革、疫病根絶などを積極的に行い、パラオに水田を普及ふきゅう)して米を生産し、米飯の習慣が無かったパラオに米飯を根付かせて栄養状態を向上させ、なす・きゅうりなどの野菜やサトウキビ・パイナップルなどの農業を普及させ、マグロの缶詰やかつお節工場を建設して仕事を作り出しておるんじゃよ
おまけに島と島を結ぶ橋を掛けたり、電話を引いたりもしてるんじゃな
な?植民地とはほど遠いじゃろ?
もちろん、日本の国益(防衛上の要所)が絡んでいたのも否定はせんぞ
で、パラオにはペリリュー島と言う島が有るんじゃよ
このペリリュー島で、日本軍とアメリカ軍が、73日間も死闘を繰り広げたんじゃな
アメリカ軍の兵力は、日本の約4倍
航空機は200倍
戦車10倍・重火器100倍!!の兵力差だったんじゃよ
この時日本兵は、大多数が死亡しておるんじゃな
そんな中、ペリリュー島に居た民間人は誰一人死んでいないんじゃよ
それは、日本軍が『ペリリュー島民を戦火に巻き込んではならない』と指令を出していたからなんじゃ
ペリリュー島の島民は、戦いが終わった島に戻って来て、多くの日本兵の亡骸を見て泣いたんじゃよ
それはこんなエピソードが有ったからなんじゃ
※老人は村の若者達と共にその作業に参加した
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたと言う
やがて戦況は日本に不利となり、いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に日本の守備隊長の元を訪れた
「自分たちも一緒に戦わせて欲しい」と
それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」
日本人は仲間だと思っていたのに・・・
見せかけだったのか?
裏切られた想いで、皆悔し涙を流した・・・
船に乗って島を去る日、日本兵は誰一人見送りに来ない
村の若者達は、悄然【精神的につかれている】と船に乗り込んだ
しかし、船が島を離れた瞬間に日本兵全員が浜に走り出てきた
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が・・・
その瞬間、彼は悟ったと言う
あの言葉は、自分たちを救うためのものだったのだと・・・
(毎日新聞より)
これは当時日本軍と共に暮らした老人の話を新聞記事にしたものじゃ
どうじゃな?本当に日本軍は悪の権化なのかの?
良く考えて見て欲しいぞい!
では次回をお楽しみにの?




