不眠とひつじ
最近、彼は不眠気味だ。年末年始の休み中に睡眠のリズムが崩れ
た、多分それが原因だ。
しかし、原因が分かった処で意味はない。とにかく眠らなければ
ならない。でなければ、またお昼を食べた後に睡魔が襲ってきて、
仕事でミスをしないとも限らないではないか。
一日が終わり、彼はベッドに入る。少しだけアルコールも飲んだ
が、量が増えると眠りが浅くなると聞いて、ビールだけにしたのは
彼にしてみたら最大限の努力だ。
さて、電燈も消して、とは言っても彼は真っ暗では眠れないので
オレンジの小さな常夜灯だけにして、目を閉じる。さあ、眠るんだ。
何も心配する事はないし、不安も無いはずだ。眠るのだ。さあ!
しかし。彼はここでふと考える。
眠らなければ、という脅迫めいた考えは、かえって眠りを妨げて
しまうのではないか? 眠らなければならないのではなく、いつの
間にか眠りに落ちている……これが望ましいのではないか? うん、
そうだ。
しかし、その方法は……あ! 昔からの方法がある。試してみる
価値はある。
それはひつじの数を数える事だ。
この方法、よく考えてみると、ひつじの数を数えるという単純な
作業によって、他のわずらわしい考えを遠ざける事が出来るではな
いか。うまい具合に出来ている。
じゃ、早速やってみるか。
彼は目を閉じて、ひつじが一匹、と頭の中でひつじの数を数え始
めた。しかし、それだけじゃ芸がないな。彼は想像で、ひつじを牧
場の中に入れることにした。分りやすいように、牧場の柵を飛び越
えさせ、牧場の中に羊を集めるのだ。
よし、続けるぞ。ひつじが二匹。ひつじが三匹。
彼の頭の中では、ひつじが上手に柵を飛び越え、牧場の中に入り
始めた。
彼はそれに集中し、作業を続ける。ひつじが九十八匹、ひつじが
九十九匹。次でひつじが百匹か。やっと百匹まできた。やれやれ。
そう思う間も無く、彼は考える。
百匹のひつじ達が牧場に入ったはいいが、今のままでは狭すぎる
な。よし、もう少し牧場を広げよう。
彼は頭の中の牧場を拡大させる。柵をもっと広げるのだ。あ、で
もでも!
そもそも、ひつじは柵を飛び越えて牧場に入るのだ。逃げ出そう
と思えばいつでも逃げ出せるではないか。まずいな。
あ、そうだ、柵の中に牧羊犬を配置させておこう。これで逃げ出
そうとする羊を牽制すればいい。早速彼は牧羊犬を用意した。
よし! これでいいな。続き続き、と。ひつじが百一匹、ひつじ
が百二匹……いいぞ、順調だ。……ひつじが三百二匹、三百三匹……。
あれ? ちょっと待て! 今の三百三匹目のひつじ、何かおかし
いぞ?
彼は牧場の中にいる、たった今柵を飛び越えた三百三匹目のひつ
じをよく観察してみた。それは今までのひつじたちとは違って見える。
「おい、お前、お前はひつじか? アゴの下に毛が生えているが?」
「え? わたしですか? いやだなぁ、あなたがわたしをここに導い
たんじゃありませんか。あ、でも、正直に言いますよ。わたし、ヤギ
です」
「あ! やっぱりか! 道理でおかしいと思った。オマエ退場な!」
「ちぇっ!」
そう言うとヤギはまた柵を飛び越えて牧場から出て行った。
「危ない危ない、変な奴を牧場に入れてしまうところだった。ヤギ
はひつじと違って攻撃的だからな。輪が乱れてしまう恐れがあるじ
ゃないか。う~ん、これは単純作業に嫌気がさした俺の無意識が起
こさせた現象なのだろうが……」
そう思った彼は今まで以上に慎重にひつじを想像し、柵を飛び越
えさせる。
「ひつじが三百三匹……ひつじが四百五匹……、ひつじが七百七匹、
ひつじが七百八匹、あ!」
今柵を飛び越えたのは、明らかにひつじとは違う。黒の背広に蝶
ネクタイ。白い手袋、お前は……執事だな!
「あ、ばれましたか。ワタクシめは確かに執事でございます。ばれ
たからには失礼を」
そう言うと執事はホホホ、と笑いながら柵を飛び越え、どこぞに
走り去っていった。
「う~ん、俺の無意識もベタといえばベタだな。ひつじと執事か。
もうひと工夫欲しいものだが。いやいや、ここはひつじの数を数え
るのが本道だ。しゃれのセンスは、今はどうでもいい……」
彼は決意も新に、本物のひつじをよく選びながら柵を飛び越えさ
せ始めた。
「ひつじが七百八匹、ひつじが七百九匹、ひつじが……うん、順調
順調!」
ようやくひつじの数が千に近くなった時、彼はまた考える。やっ
ぱりひつじの数が増えたからには牧場をもっと拡大して、牧羊犬だ
けじゃなく、使用人もつけよう。そう、カウボーイならぬシープボ
ーイを。
あ! そうなると、彼らの宿舎も用意しなければ。彼はシープボ
ーイの乗るバイクやその他諸々の施設も、牧場のならびに配置した。
うん、これで心配する事はないな。ひつじの数を数える事に集中
出来るぞ。
彼は順調にひつじの数を数え続けていった。しかし、規模が拡大
するにつれて様々な問題が発生し、その度にそれを解決しなければ
ならなかった。
そう、ひつじの食料の調達、その為には飼料会社との取引も必要
だったし、有能な会計役も雇わなければならなかった。資金調達の
為、ひつじの牧場に観光客を誘致し、レジャーランド化もした。そ
うなると当然CMも作らなければならし、そもそも規格を株式会社
にした方がいいかもしれない、彼は早速そのように手を打った。当
然、従業員の数も増えていった。
そうこうしている内に、牧場を中心に、やがて町が出来た。牧場
の近くにはシープボーイ相手の飲み屋、レストラン、従業員家族の
為のスーパー、洋品店、雑貨店、美容室、住宅街、幼稚園、小学校、
病院、警察署、消防署などなど、次々と施設が出来てゆくのだ。
ひつじの数は今では十万を越えていた。牧場の数も今では十箇所
に分かれている。
当然彼一人では間に合わないので、彼の使用人たちがいつしかひ
つじを数えるようになっていた。
彼は今ではこの町の町長だ。当然忙しい。彼の口癖は
「ああ、何も考えないでぐっすり眠りたい……」だ。あれ? なん
か変だな……?
今日も明日も明後日も、いや、当分の間は、彼の不眠は続くのだ
ろう。
こういう性格の人は、考えれば考えるほど、眠れなくなります。かく言う私も……数えた羊から攻撃を受けそうになった事が……いや、なんでもないです……