恋が
「こちらの塗り薬は差し上げますね。夜寝る前に塗って、絹の手袋をして寝ると、傷の治りも早いですよ」
「ありがとう!とっても良い香りだわ。前頂いたお薬も効き目が素晴らしかったけれど、すこし匂いがきつかったものね」
ついこの前まで使っていた薬のツンとくる刺激臭を思い出して思わず渋い顔になってしまった王妃は、フェルナンに薬を塗ってもらった手を鼻の近くに寄せてその香りを楽しんだ。ほのかに甘いがくどくはない、爽やかな香りである。
王妃の無邪気な仕草に、フェルナンは口元を綻ばせた。
「そうですね。こちらは私の故郷で重宝されていた塗り薬です。その地方でしか採れない、特別な花の精油が使われているのですが、切り傷にも効くし気分を落ち着かせる良い香りもするというので、名産品にもなっているんですよ」
「どんな花なの?」
「淡い紫色の、小さな花弁が密集してひとつの花になったような、かわいらしい花ですよ。
私の実家の近くにとても広い野原があるのですが、寒さも和らいだ頃になるとその野原一面が紫色になって、まるでふかふかな絨毯のようになるのです。そこでふざけて寝転がっていると、いつの間にかとても気持ちよく寝てしまうので、よく夕ご飯の時間まで寝過ごして母や姉に怒られていました」
「ふふふ、小さいあなたはとても可愛らしかったでしょうね。淡い紫色、あなたの瞳のような色なのかしら?いいわねぇ、いつか行ってみたいわ」
もし、
と、フェルナンは夢想する。
もし王妃の手を取りこの庭園から抜け出して、故郷の風景を見ることができるのなら、どんなに素晴らしいことだろう。
王妃は深い青の、フェルナンの故郷の空と同じ色の瞳を瞬かせて、「すごいわねぇ!」と声を上げて笑われるに違いない。初めて彼が心奪われた時と同じように、少女のように頬を赤く染めて、恐る恐るといった様子で薄紫の海にそのほっそりとした脚を入れ、大地を踏みしめる。フェルナンが幼い日に寝転んだ場所に誘うと、最初は戸惑われるだろう王妃も、好奇心に負けてその心地よいベッドに背中を預けるだろう。
ふたり手を繋いで、誰にも、邪魔をされることなく、……
「王妃様、」
「どうしたの?フェルナン」
急にぼんやりとしてしまったフェルナンを王妃は不思議そうに見つめている。
お優しい王妃様。時にドキリとしてしまうほど気品に溢れた方なのに、無邪気に愛くるしく笑われるから守ってさしあげたくなる。
聖母のように慈愛に満ちた表情で見つめられると全てを預け、曝け出したくなってしまう。
やはり、この身の程知らずの不遜な感情は、蓋を閉めたくらいでは閉じ込められそうにない。
フェルナンの指先が、無防備な王妃の白い頬に伸ばされる。
と、触れる直前に、鈴の軽やかな音が響き渡り、フェルナンの意識が強制的に現実へと引き戻された。
フェルナンにとってはまったく軽やかではない、忌々しい鈴の音、と思うのも不敬なことなのだが、そう思わざるを得ない事情があった。
「あら、何の用かしら」
魔法仕掛けの郵便受けに何かが届いたことを知らせる鈴の音に、王妃はパッと立ち上がり、ごめんなさいね、と言い残してから小走りで玄関前へと駆けていく。
フェルナンのかわいそうな指先は本懐を遂げることなく宙に浮いたまま、それからすごすごと彼の膝の上へ戻された。
忌々しいと思うのは決して許されない。
許されないのだが。
こうも何度も何度も何度も…良いところで邪魔をされてしまうのは非常に納得がいかないのである。
テーブルの上にひらりと舞い降りた小さな紙を取って嫌々ながら読み終えると、上着のポケットの中に突っ込む。
送り主がどちら様であれ構うものか!と自棄っぱちにもなる。御名前はお書き遊ばしていないのだし、どうせ数刻もすればこの魔法のメモはポケットの中で塵も残らず消えるのだ。
紙には書き殴ったと思われる字で、大きくこう書かれていた。
『近い。』
郵便受けに入っていた紙に目を通しながら王妃が東屋へと戻ってきた。
「まったく困った人だわ、『今日は早く上がる』としか書いていないの!もう!あの人の言葉足らずはなんとかならないのかしら!」
一人分を作るのも二人分を作るのもそんなに変わらないとはいえね!とぷりぷり怒ってみせているものの王妃の足取りは軽やかで口調も弾んでいるように聞こえ、フェルナンは苦笑を返すしかない。
「王妃様の手料理が食べられる陛下が羨ましいです」
つい、胸の内を過ぎった悔しさと切なさにぽろりと不敬な言葉を口にしてしまった。
言った直後に後悔したフェルナンだったが、王妃の青い瞳に見つめられた後、にっこりと笑われたのでほっとする。
「フェルナンは本当にわたくしを喜ばせるのがお上手ね!」
「光栄です。でも、本心からの言葉ですから。ミートパイの約束、忘れないでくださいね」
「もちろんよ!とびっきりおいしいミートパイを焼いて待っているわ!」
傷だらけだが温かさを失わない王妃の手を取り、手の甲に口づけた。
諦めることはできないだろう想いがここから伝わればいいと願いながら。
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また明後日にお伺いします、という丁寧な言葉と優しい微笑みを残してフェルナンは帰って行った。
王妃の住む区域と表の世界を繋ぐ門の向こうへ去っていく後姿が見えなくなるまで見送った王妃は、口づけされた右手の甲をそっと撫でた。
「……熱いわ」
指先も、口づけの感触も、しばらく冷めそうになくて、王妃はじわじわと熱くなる頬に手をやった。
「本気にしてしまいそうになるわ……優秀だけど、困った恋人ね」
いつものように手に薬を塗ってくれた後、じっと見つめられた時の言葉はまるで愛の……告白のようなものに思えて胸がうるさく高鳴った。
フェルナンの故郷の花の話になった時は、彼はなぜか急に夢の中にいるみたいな顔になって……(もしかしたら故郷を思い出したのかしら?)青年の繊細なようでいて、しっかりとした指が王妃の頬に触れそうなほど近づいた。あの時は何も考えられなかったけれど、思い出すと頬がさらに熱くなる。あの時彼は何を伝えようとしていたのかしら?
それから、それから、と王妃は東屋の椅子に座って、思いつくままに今日の『ときめきポイント』を思い出してはしばらく乙女のように恥じらってみたり内心できゃあきゃあと悲鳴を上げてみたりした。
それにしても、と王妃は唇を尖らせる。ただでさえこのような触れ合いには慣れていないのだから、もう少し手加減をしてもらいたいものだわ!
しかし王妃からこの“恋人ごっこ”を言い出したのだし、何より青年よりはるかに年上の身として、そんな情けないことは言えない。
余裕のある年上の恋人になりきるのはたいへんね!もっと頑張らなくっちゃ!と、手をパタパタと扇のように動かして頬の熱さを紛らわそうとした王妃は、現実的な問題を思い出し――今日の夕飯についてである――はたと手の動きを止めた。
昨日の残りのシチューがまだたくさん残っているからそれを温めるとして、副菜にはこの間採れた野菜を使おう。この間収穫した真っ赤なトマト、あの人は苦手にしているようだけれど。
恋人との貴重な時間を無粋な知らせで遮ったのですもの、これくらいのいじわるは許していただかないと。
「少しはフェルナンを見習ってあの人も甘い言葉のひとつやふたつ、囁いてくださればいいのに……」
あの人の常にむっすりと引き結ばれた口から甘い言葉がフェルナンのようにすらすらと流れたなら……と想像して王妃はぷっと吹き出してしまう。
そんなのきっと百年修行してもあの人には無理な話ね!フェルナンとはまた違う系統の美声をお持ちなのに、宝の持ち腐れってこういうことを言うのだわ。
ふと、あの日のことを思い出し、王妃は顔を赤らめた。
何の脈絡もなく、唐突に投下されたあの一言だけであの威力なので、甘い言葉はやっぱり想像だけに留めておこうと王妃は思った。
近頃になって子供たちだけでなく王も、王妃の住まいを訪れるようになっていた。
次話ラストです!