王妃さま
ありふれた話だ。
若く美しく心優しい娘に心奪われた王に、嫉妬に狂い娘を害そうとする王妃。
間一髪王妃の企みは阻止され、王と娘は結ばれる。
幸せな2人の傍に悪役の王妃は用済みだ。
処刑されるか幽閉か。
幽閉ではなくて、こうして王宮の最奥に押し込められる程度で済んで本当に良かったわ。
しかも前よりずっと自由で快適。
王妃はお茶を飲みながらしみじみと自分の幸運を思う。
このお茶も、侍女が付かなくなった王妃が自ら淹れたものだ。
最初は渋かったり極端に薄かったりして飲めたものではなかったが、試行錯誤を繰り返しやっと人に出せるほどになった。
もっとも王妃の元を訪れる人なんて、片手で足りるほどだけれど。
「こちらにおられましたか、王妃様」
今日も良い天気ねぇ、と目の前に広がる黄色やピンク、薄紫など、目に優しい色の花々たちが風にそよそよと揺れるのを満足げに眺めていた王妃は、聞き慣れた声が聞こえて振り向いた。
片手で足りるほど、のうちの一番最初に挙げられる人物である。
まだ年若い、王妃よりも十は若い青年が笑みを浮かべて、王妃が休憩する東屋までやって来た。
かつては白く輝いていたであろうその東屋は、今や塗装ははげかけ装飾の施された天井はあちこち虫喰いが見えるような古びたもの。床も土で汚れ綺麗とは言い難い状態だったが、青年は気にする素振りを見せることなく王妃の前で跪いた。
慣れない水仕事や土いじりで荒れた手を、まるで高価な宝石か何かのように持ち上げる。
短くした王妃のまるい爪の先をそっと確かめながら、青年は甲に口付けした。
名残惜しそうに顔をあげた青年に王妃は親しみを込めて、にっこりと笑いかけた。
「いらっしゃい、フェルナン。おいしい紅茶はいかが?」
紅茶を口に含んだ瞬間、フェルナンは目を見張った。
「これは……美味しいですね」
「よかったわ!最初は“泥水のような”お茶しか出せなかったから、これからは美味しいお茶を淹れてあげられるわね」
少しの安堵を浮かべた後、王妃はいたずらっぽく笑う。
フェルナンは心外だと言うような顔をしたが、声は笑っていた。
「嫌だな、私は泥水のような、なんて言っていませんよ」
「似たようなことは言ったじゃないの!
『これまでに飲んだことのない、まるで……そう、遥か遠くまで続く大地を偲ばせる味が致しますね』って。つまり泥水ってことじゃない!わたくしその言葉が悔 しくて悔しくって、これまで練習を重ねてきましたのよ」
「それはもしかして私の声真似ですか?そんなに嫌味っぽく言った覚えはありませんが」
「あら、似ていませんこと?誰にも披露したことはありませんけど、かなり自信はありますのよ 」
フェルナンはますます心外だ、というような顔をしたが、王妃はすました顔で紅茶を飲んだ。
しかし視線が交わると、2人は堪えきれずに笑い声をあげた。
「本当に美味しいですよ。これまでこんなに美味しい紅茶を飲んだことはありません」
「相変わらず口がお上手ですこと。貴方、“泥水”の時だってそう言ったじゃない。信用できないわ、嬉しいけれどね!」
“泥水”の時どころか、王妃の淹れた紅茶を飲むたびにそう言うのだ。
拗ねて唇を尖らせる年上の可愛い“恋人”に、フェルナンは笑みを深くした。
「王妃様とご一緒するだけでどんなものでも美味しく、これまで感じたことのないような味わいになるのですよ」
その蕩けるような表情も併せて百点満点の回答ね、と王妃は微笑んだ。
彼の甘い言葉に胸をときめかせない女性はいないだろう。
今の職を辞して詩人か歌手になればいいのに!
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王妃とフェルナンが初めて出会ったのは2年ほど前、まだ王妃が王妃様と呼ばれ、表面上は多くの人に傅かれていた頃に遡る。
表に出ることを王から求められなかった王妃は、夜会に出ることも稀で、王妃は王の子を4人産んだこと以外の功績がない、“名ばかりの王妃”だと囁かれていた。
そんな王妃が珍しく公務を果たした王の即位二十周年の記念式典でのこと。
その式典の出席も宰相から直々に促されたからで、隣に立った王妃を見て王は良い顔をせず、ずっと不機嫌だった。
久しぶりに顔を合わせた子供たちも少し素っ気なく、一番末の姫は姉姫の後ろに隠れて王妃と目を合わせようともしなかった。
母親らしいことをしてやれていないのだから当然なのだと王妃は寂しいと思う気持ちに蓋をした。
我が子の側に居れる貴重な時間だった。
王に祝いの言葉を述べに来た貴族たちに慇懃無礼な態度をとられても好奇の目を向けられても、王妃は少しも疲れを見せることなく微笑んでいられたのだった。
そんな中、1人だけ王妃を気遣い、優しげに笑いかけた人がいた。
隣国から交換留学生としてやって来た、薬学を学ぶ青年。
彼こそがフェルナンだった。
『失礼ですが王妃様はお疲れのようにお見受けします。美しいお顔が雪のように真っ白です。少し休憩なさった方がよろしいのではないでしょうか』
王妃自身でさえ気が付かなかった不調を言い当てられた。言われて初めて、身体が重く、頭がぼうっとすることに気が付いたのだ。
礼を述べた王妃に青年は微笑んだ。
『よろしければ我が国に伝わる疲れによく効く薬をご用意させていただきます。王妃様は疲れたお顔も美しいですが、頬に赤みが差したらもっとお美しいことでしょう』
世辞だと分かっていたが、薬を飲むまでもなく、王妃の白い頬は少女のように紅く色付いたのだった。
その時はそれだけだった。
別室で身体を休めた王妃の元に青年の薬は届けられることは無かった。
王が許さなかったのだ。
王妃とあろう者が疲れを気取られるなど、と不機嫌な様子で、疲れの取れない王妃の身体を一晩中苛んだ。
おかげで王妃は次の日ずっと寝台から離れることが出来なかった。
とろとろとした微睡みの中で王妃は留学生の若者を思い出していた。
これまでに美しいと賞賛されることがないわけではなかったが、本当に「美しい」者が身近にいた王妃は、その形容が自分にはふさわしくないと幼い頃から思ってきた。
なぜ絶世の美姫と称される一つ下の妹の顔と自分の顔はこうまで違うのだろうと不思議に思ったことはあれど、劣等感に苛まれることはほとんど無く、自分は自分だと気にしないようにしていた。
「美しい」と称されるたび、胸中で「妹と似ていなくて拍子抜けされたでしょうねえ」と苦笑していた。
しかしあの青年の称賛は、素直に王妃の心に響いて、しばらくの間あたたかな余韻を残すことになるのだった。
それから半年ほどして、若く美しい娘が王に見初められ側妃としてやって来た。
元々の身分は低かった側妃だったが、王妃が出ることのなかった社交の場に積極的に参加し、王からの寵愛も熱いこともあり美しいだけではない聡明な側妃だと慕われるようになっていった。
王妃はと言うと、素晴らしいと評判の側妃の噂は耳にしつつも外に出ることを許されぬ身、それに自分の代わりを勤めてくれるならありがたいことだわ、とこれまでと何ら変わらない暮らし――昼に近い頃にやっと起き出して1人で朝食兼昼食を摂り、編み物や刺繍、日によっては部屋に備え付けの簡易台所でお菓子を作って日中を過ごし、夕食は週に4回ほど王と共にし時には稀にそこに子供たちが加わり、夜は長い湯浴みの後で入念すぎるほどの手入れを施され王の訪れを待つ――を送っていた。
王妃がこれといった危機感を持つことは無かった。
というのも王は、王妃が側妃の元へ行かなくていいのかしらと心配するほど夜は必ず毎晩王妃の元に訪れていたので。
20年近く続いた王妃の変わらない日常が漸く新しく動き始めたのは、側妃が嫁いで来てさらに半年ほど経ったある日のことだった。
これまで王の寵愛を独占して来た王妃が、若く美しく聡明な側妃を妬んで毒を盛り暗殺を謀った。
もちろん王妃にとっては事実無根、寝耳に水の話であり、側妃が毒を盛られたということも突如連行された地下牢の中、罪状を読み上げる兵士の口から初めて知ったのだった。
わたくしはやっていません、驚きと恐怖で硬直していた王妃が反論の言葉を許されたのは一度きり。
証拠として挙げられた品や女官の供述は全く知りもしないでたらめなものだったが、王妃を犯人と決めてかかっている周囲の態度に、王妃の心はぽきりと折れた。
何か言いたいことはあるか?
殺すことはしない、だが二度と表に出ることは許さぬ、と王宮の最奥での隠居を命じて王妃を冷たく見下ろす王に、王妃はやはり、と諦観の念で王を見つめ返した。
やはりこの人はわたくしを愛してなどいなかったのだわ。
ふたつ、お願いがございます、と王妃は口を開いた。
ひとつ、このことに子供たちは一切関係がありません、これまでと変わらぬ身分を約束すること。
そしてふたつ目。
『恋人を作ってもよろしくて?』
王妃の予想外すぎる言葉に、ただでさえ凍える寒さだった地下牢の温度は極寒の寒さになった。
だが、雪国出身の寒さに強い王妃はカチンコチンに空気が凍った周囲に気付かず、「恋人はおかしいかしら?愛人?」などと無邪気に首を傾げていた。
『わたくし一生に一度でもいいから、素敵な恋をしてみたいのです。
二度と表には出てきません、できるだけ誰にもご迷惑はおかけしないと誓いますし食糧だけ届けて貰えれば1人で生きていくわ。
だからあなた、お願いを聞いてくださる?』
沈黙がその場を支配した。
兵士たちのくしゃみが止まらなくなり王妃もうつらうつらと船を漕ぎ始めた、夜も白んできた頃になってやっと、王は苦虫を何百匹も噛み潰した表情で“身体は決して許さない清く正しいお付き合い”を条件に王妃の願いを聞き入れたのだった。