雨を待つ男
大学内のカフェテリアは、授業のベルと共に、人気がなくなる。
僕は、いつものソファ席で、出来上がったばかりの抹茶ラテを口に含んだ。ガラス張りの店内からは、外校舎を見渡すことができる。なかでも、窓際の席から見る景色は、格別だ。ヨーロピアン風の気取った外壁に沿って緑の柱が立ち並ぶ。赤茶けた石畳を、ヒールの女子学生が駆けていった。講義に遅刻したのだろうか。次は、僕も、授業だ。確か、英語。でも、ここを離れる気になれない。まだ、入学して間もない一年生だというのに、僕には、もうサボりグセがついてしまっていた。
「今日は、雨でも降りそうな天気ですね」
同じく外を眺めていた向かいの彼が言った。
グレーがかった瞳は何色と言えばいいのだろう、彼は、透き通る肌の上で、その目をより一層、細くした。目を見張るような、日本人離れした風貌だ。その人は、決まって、天候が傾き出すとカフェにやってくる。おそらく、気ままな隣校舎の院生だ。何度か顔を合わせるたび、こうやって、世間話をするようになった。彼は、有栖川 春樹という。
「有栖川さんは、雨が好きですね」
「春樹です」
「え」
「春樹」
また、はじまった。無邪気なようで、彼は、頑固者だ。
「春樹さん」
僕が、折れると、春樹さんは、満足したように表情を弛めた。
「僕は、玲聞さんと雨宿りするのが好きなんですよ」
雨宿りね…この人は、本当に掴めないな。
春樹さんは、僕の背後に視線を巡らせた。店内には、カウンターでパソコンにかじりついている眼鏡の男子学生が一人と、テーブルを片付けているパートの店員がいるだけ。
「玲聞さん、もう良いですよ。また、何がありました?」
僕は、春樹さんのことを、こうも呼んでいる。雨男のセラピスト。
「いや、今回は、悪夢や幻聴じゃないんです。ただの悪戯で、そんな深刻なものではありませんよ」
言い忘れていたが、僕は、生まれながらの特異体質だった。それを霊感と呼ぶ人もいるかもしれない。だが残念ながら、現実世界では、これを幻覚と言う。
人間の脳は、実に不思議だ。その気になれば、バーチャルゲームと比較にならないほどの体感をシュミレートできる。誰だって一度くらい夢で、腕を捕まれて痛みを感じたことがあるだろう。
僕のような人は、目を開けたまま、妄想の人物に会ってしまうこともある。例えば、何年も前に亡くなった祖父だったり。もちろん、こんなこと誰にも話したことはない。病院に通って何になる。僕は、静かに生きたい。それだけ。そして、大学に入っても、他人を遠ざけるこのスタンスを貫くつもりだった。理解も同情もいらない。
春樹さんに出会うまで、僕は、ずっと一人だった。
「でも、気になっているでしょ。玲聞さんが、ラテの二杯目を飲む時はたいてい何かあるんだから」
春樹さんは、膝の上で長い指を組んで、話の続きを待っている。彼の整ったまつ毛が三回、閉じられた時、僕はやっと口を開いた。
「三週間前から同じ封筒が届くんです」
「自宅にですか」
「はい」
「どういったものですか」
「毎回、無地の封筒に、白い花弁が一片だけ入っています。宛名がないので、直接、届けられたものでしょう。夕方、家に帰ると、必ず、集合ポストにあって、はじめのうちは、きっと、部屋番号を間違っていれられたものだと思っていました。それから、前の住人に宛てられた郵送物である可能性も考えました。マンションには、まだ僕が入居して、さほど経っていませんし、封筒の送り主に転居先が伝わっていなかったのだとしたら充分あり得ることです。どちらにしろ、内容が内容だけに、気にかけていませんでした」
「どうして、玲聞さんに届けられたものだとわかったんですか」
「つい数日前、花と一緒にノートの切れはしが入っていました。僕が、このカフェで落書きしていたものです。中庭に抜ける廊下のダストボックスに棄てたはずの紙屑でした」
「大学で棄てたはずの紙がどういう経緯を辿ったか自宅に届けられた。つまり、犯人は、玲聞さんの行動を把握しているということでしょうか」
「可能性は高いでしょうね。警告か、ただの嫌がらせか」
「愛の告白」
「春樹さん、こっちは、真面目なんですよ」
「大真面目です。花弁だなんて、ロマンチックだ。古い小説を真似したのかもしれない」
「恋愛と犯罪は、紙一重ですね」
「これだから、玲聞さんは、ロマンチックが足りませんよ」
僕が、渋い顔をしていると、“そんな玲聞さんも、嫌いじゃありませんけれどね”と言って、春樹さんは席を外した。携帯が鳴ったらしい。女だな。この場で、話さないのが、何よりの証拠だろう。
僕は、外の花壇を見つめた。あの時、ノートに落書きした花がある。真っ赤な薔薇だ。封筒には、白い花弁が入っていた。花には、詳しくないが、毎日届くあれは薔薇の花弁なのではないか。