スコピエルの魔物 その四
4
水に濡れた石畳を滑りながらも、俺たちは懸命に走る。土砂降りの雨の中、息が切れそうになっても決して立ち止まらない。ここで立ち止まれば、俺たちはもう二度と走りだせない。そう分かっているからこそ、俺たちは走り続ける。
雨の音にかき消されているせいなのか、それとも彼の殺戮が少しでもストップしたせいなのかは分からないが、先程まで聞こえた悲鳴が今は聞こえなかった。だが、相変わらず人が怒鳴ったり、走ったりする音は響いていたので、この街がやはりまだ相当な混乱状態にあることだけは容易に理解することが出来た。
喧騒がまだあるのなら、彼の言う皆殺しはまだ達成できていないということになる。ならばまだ間に合う。俺がそう、微かな希望を掴みかけた時だった。
「ゆ、勇者様! あ、あそこに……!?」
「な……!?」
そこにあったのは、親子と思われる母親と子供の姿だった。走りながらだから細部までは見えなかったが、彼女らは無残にも首を深く切り裂かれ、もうすでに息絶えていた。
雨が、生命を洗い流して行く。彼女らから溢れた血液が雨に薄められ、消えていく。誰もその行方を知る者はいないのだろう。
彼女らをしっかりと葬ってやりたかった。この冷たい雨の中野ざらしにさせるのはあまりに惨いことだが、これ以上彼女らのような人間を増やさないためにも、今の俺たちは立ち止まれない。
「あれを、あいつがやったのか……」
「わたしには、信じられません……。どうして師団長が、あんなことを……」
後ろを走るミナトは、きっと唇を噛みしめていただろう。自分の無力さ、彼のあまりの変貌ぶりに、心を極限まで乱されているはずだ。
それは俺とて同じ。今すぐにでも叫び出してしまいたいくらい、俺の心は荒れ狂っていた。
城壁に辿り着くまでに、すでに20体以上の死体を見た。
それだけに、外よりももっと多くの死体があるであろう城壁の中を見ることは躊躇われた。俺は恐怖で足が竦む思いだった。
「わたしが見てきます。勇者様は、そこでお待ちください」
俺の怯えを悟ってか、ミナトがそう進言した。
「ば、馬鹿! そんな情けないことできるか。俺も行く。ミナト、ついてこい」
「はい……」
城壁に近づいてすぐ、見覚えのある顔を見た。城壁の開け閉めをしていた、2名の団員だ。だが、一人はもう顔すら分からなかった。
なんと彼には、首がついていなかったのだ。
「うっ……」
吐き気が込み上げる。ミナトも必死にその気持ちを抑える。
城壁の付近だけで10人以上の団員の死体があった。その中には、Bグループを率いていたレイ、Cグループを率いていたアキトの姿もあった。
門番以外の全員が、その手に武器を持っていた。交戦したんだ。突然の師団長の豹変に驚き、混乱に陥りながらも彼らは戦った。
だが圧倒的な戦力差に、彼らはなす術もなく敗れた。せめて俺が、彼らにコウダイの異変を知らせることができていれば……。
俺は人知れず、爪を噛んでいた。それを見たミナトが言う。
「今は、後悔してもどうにもなりません……。生存者を、探しましょう……」
「わ、分かった……。人の声は聞こえた。だから必ず生存者はいるはずだ。このまま一緒に探すより、二手に分かれた方がいい。やつは恐らくもう城壁の中にはいない。俺が外を探すから、辛いだろうが、ミナトは中を探してくれ」
「で、ですが、それでは勇者様が危険な目に……」
「部下に危険な命を与え、勇者が安全な所にいることなどできると思うか? これは命令だ。お前は中を探せ。遺体の数が多くて、気分が悪くなるかもしれないが、あいつからの直接の脅威があるよりはましなはずだ。だがもし、あいつを見かけたら……下手に交戦せずに真っ先に逃げろ。逃げて俺を探せ。それでいいな?」
俺に譲る意思がないことを悟ると、彼女は大人しく首を縦に振った。俺はミナトを残し、その場から走りだす。
誰かが叫ぶ声。悲鳴ではない。その勇ましい声は間違いない。やつと、コウダイと戦っている者の声だ!
俺は一目散に駆けだそうとする。だがすぐに、俺は立ち止まった。
「アイカ……」
俺の視線の先、道端でうずくまっている彼女の姿があったのだ。この土砂降りの中、容赦なく雨に打たれながら、彼女は一体何をしているんだ。
仲間を助けに行かなければならない。だが、コウダイの婚約者であり、この事態に最も大きな衝撃を受けているであろう彼女を放っておく訳にもいかず、俺は彼女の元に駆け寄る。
「アイカ、お前……」
「……」
アイカは無言で誰かの身体を抱きしめていた。その人物は脱力し、腕は力なくぶら下がっているだけだった。もう彼女が死んでいるのは、一目瞭然だった。
死体の女性は、騎士団のメンバーだった。
「勇者、この子、さっきまで生きてたんだよ……」
勝気で快活な彼女からは想像できないほど弱り切った声で、アイカは言う。この女性団員、セラはBグループのメンバーだった。彼女は俺が城内から出る時確かに見た。少し不安そうに瞳を揺らしながらも、必死にコウダイ救出作戦に参加しようと名乗りを上げていた。そんな彼女が、今は変わり果てた姿で俺の前にいる。助けようとしたあいつの刃で、命を落としてしまった……。
「あたしに、『これは何かの間違いです。あの方が、こんな酷いことをするはずがありません。アイカさん、あの方を信じてあげてください』って言ってくれたんだよ……。あたし、信じようと思ったの。でも、あたしが少し目を離した内に、この子は……」
俺はいても立ってもいられず、彼女の身体とセラの身体に触れた。
「何も言うな。もう何も、言わないでくれ……」
口に出せば辛さは募るだけだ。だから俺は、彼女にそう言った。だが、
「そんなの、無理だよ……。あたしに、この気持ちを一人で背負ってろって言うの……?」
「アイカ……」
「もう、嫌だよ! どうして!? どうしてコウダイがあんなことをするの!? あんなに、この世界を、人間を愛していた彼が、どうしてこんな惨いことをするの!?」
もう、誰も彼女を止めることはできない。コウダイとの付き合いが短い俺でもこれだけの衝撃を受けているんだ。もう5年以上の付き合いがあって、互いに愛し合っていたはずの彼女が受けた苦痛など、俺には想像することができない。
彼女の痛みを語ることすらおこがましい。彼女の身に寄りそう資格すら俺にはない。
駄々っ子の様に、俺の胸を拳で殴り泣き続けるアイカ。俺は、この子が憎しみを発散するのを助けてやることしかできない。
「あの時と、何にも変わってねえじゃねえか……」
あの日、一瞬にして孤独になった俺と明日香。俺はなんとか耐え抜いたが、彼女にはそれが出来なかった。俺をはけ口にして、何度も俺に憤りをぶつけた。
同じ境遇だったのに、俺たちは同じじゃなかった。親とあまり仲が良くなかった俺。甘えたで両親にべったりだった明日香。俺と明日香は幼馴染だった。だが親友ではなかった。もちろん恋人でもなかった。所詮、俺があいつについて知っていたことなんて、あいつにとってのほんの数十分の一に過ぎなかったんだ。
俺は、あいつのことが好きだった。でもそんな俺が、彼女を理解し、共感してやることなんてできっこなかった。俺はそんな無力感を思う存分味わった。
目の前の少女、アイカを俺はどれほど知っている? 正直、俺は彼女を何も知らなかった。俺は近くにいた人間を知る努力をまた怠ったのか? 仲間面しておきながら、そんなことすらできなかったのか?
「助けて……。お願い、誰か、あたしを助けて……」
セラの身体を俺に預け、彼女はフラフラっと立ち上がる。彼女はもう、俺を見ていなかった。
待てと、言いたかった。そっちは危ないと、警告したかった。だが言えない。俺には資格がない。
勇者になったのに、俺が味わう無力感はいつも同じ。想いの強さが、この力の強さに反映しているんじゃなかったのか? 俺の想いは強いんじゃないのか? だったら、どうして俺はまだ無力なガキのままなんだ!?
誰も救えない、誰も癒やせない。だったら、俺の価値ってなんなんだよ!?
「くそおおおおお!!」
叫んだって無意味だ。自分の不満を吐き出すだけの行為に、価値なんてないのに、また俺は……。
「そこに、いらっしゃったんですね、ユーリ様……」
だが、今回ばかりは俺の大声も無駄だったわけじゃないらしい。
「イズミ!?」
俺は、最も会いたかった人を呼び寄せることができた。
イズミの目は真っ赤だった。白かったローブも真っ黒に汚れている。
「ユーリ様、ご無事でよかった……」
赤い目を更に潤ませ、彼女は俺を見つめる。そんな彼女を、俺は、
「ゆ、ユーリ様!?」
ギュッと、抱きしめていた。
イズミは何が起こったのか分からずただひたすら困惑している。
俺は以前彼女にこうしたように、彼女を励ますために抱きしめたんじゃない。
俺は今、俺自身のためにイズミを抱きしめている。この震えを止めるには、彼女が必要だ。俺の恐れを消すためには、彼女がいてくれないと駄目なんだ。そんな自分勝手な想いから、俺は彼女を抱いたのだ。
「軽蔑してくれて構わない……。俺、怖くて、怖くて仕方なかったんだ。お前を見つけて、お前の顔を見たら、泣きそうになっちまって……。こうしてないと、俺はもう、立っていられなくて……」
自分でも何を言っているのか分からない。次から次へと信じられない様なことが起きたせいか、俺もついにおかしくなっちまったみたいだ。
イズミにこの身を振り払われても、汚らわしい物を見る目で見られても、どれほど罵られても、俺は驚かないし、イズミを恨んだりしない。むしろそれが必然だ。必然なのに、それが正しいに決まっているのに、なのに、彼女は……
「……軽蔑なんて、する訳ないじゃないですか。怖いのは、当たり前です。泣きたいほど辛いのも、当然です。怖いから、人は人を求めるんです。辛いから、人は人の胸の中で泣くんです……。だからユーリ様も、わたしの胸で泣いてください。怖いって、言ってください。わたしは受け止めます。大好きなあなたの想いを、残らず受け取ってみせます」
俺にはっきりそう言い、俺の身体をきつく抱き返してきた。
その瞬間、俺の心が落ち着いたような気がした。
こんなに寒いのに、心の内が温かくなったような気がした。
「そう、だったのか……」
ここにきて、俺はようやく分かった。こんな状態なのに、俺はやっと自分の心を理解した。
――俺は、この子のことが好きなんだ。
この子なら、俺は心を寄りそえる気がするんだ。
無力な俺でも、強くなれるような気がするんだ。
その時、完全に不意打ちに、俺の唇に、温かな感触が触れた。
「い、イズミ……?」
「忘れたんですか? あなたが戻ったら、わたしにキスしてくれるって、言ったじゃないですか?」
イズミが悪戯っぽく笑う。俺は気が動転し過ぎててすっかり忘れていた。
「ユーリ様、わたしは、あなたが好きです。あなたは、わたしを好きでいてくれますか……?」
そう尋ねる彼女の顔に、もう不安の色はなかった。俺の答えは知っている。そんな自信に溢れている。俺はなぜか、そんなイズミの態度が無性に悔しくて、なぜか一矢報いようと、よくわからない決意を抱き、そして、
もう一度、彼女の唇に、俺の唇を重ね合わせた。
今度は一瞬なんかじゃない。ちゃんと彼女を感じられる、長い長い口づけだった。
絶望の中で、少年は微かな希望にすがる。




