世界が滅びるその前に
空が紅い。
この世の終わりが近づいている。
記憶のない僕でも、それは容易に理解出来た。
ガチャと、扉の開く音。
音の方に目をやると、そこには少し疲れた様子のアスカの姿があった。
「どうしたの?」
僕は窓際から声を掛ける。
アスカは、そんな僕に向かって言った。
「ねえ、セツナ」
「なに?」
「あなたは、この世界をどう思う?」
「どうって……とても、大変なことが起きてると、思うよ……」
「あなたは、この世界の異変を、感知できるの……!?」
アスカは僕の予想と違って、心底驚いたような顔をした。
どうしてそんなに驚いているのだろうか? この世界がおかしいことくらい、誰が見たってわかるだろうに。
アスカは尚も驚きに満ちたその表情を変えない。そしてこう呟いた。
「どうして、あなたには分かるの……? みんなが、何も分からなくなってしまったというのに、どうして、あなただけ……? もしかして、あなたは、本物の……」
アスカがハッとする。まるで、何かに気が付いたような、そんな感じだった。
アスカは尚も驚愕の表情で僕のことを見つめている。でも次の瞬間、その顔を引き締めた。
「あなたはこれから、どうしたいと思っているの?」
アスカは視線を僕の後ろ、真っ赤な世界へと向けた。
窓の外では雷鳴が轟き、雨音が僕の耳に届いてきた。
ポツリ、ポツリと、おぞましい液体が、枯れ果てた大地を穢していく。
世界はもうじき終わる。
それは避けようのない定めに思われた。
では、世界が滅んだら、僕はどこで生きればいいのだろうか?
心を満たすのは、恐怖、不安、絶望。それらのネガティブな感情が、僕の中を駆け巡り、混沌の様に渦巻いていく。紅い毒が、僕の心を浸食しようとする。
自分が誰かも、どこで生まれたのかも分からない。そんな僕には、この世界しか、生きる場所がなかった。
この数日間、僕はアスカと一緒に時を過ごした。他には誰もいなかった。 訪れる人どころか、この辺りを歩く人もいない。まるで、この世界にたった2人で取り残されたような、そんな、孤独。
アスカは、不安で震える僕を抱きしめてくれた。
「大丈夫だよ」って、心を落ち着かせてくれた。
一緒に、ベッドの中で眠ってくれた。
泣き出しそうになる僕を、必死に励ましてくれた。
アスカの隣でしか、息が出来なかった。
ならば、僕はここを守らなければならない。
ここを守らなければ、僕は僕を維持出来ない。“セツナ”という人間を保てない。
いや、そんな観念的なことじゃない。
単純なことなんだ。僕は……
アスカに恋をしてしまったんだ。
アスカが抱きしめてくれた感覚が忘れられない。アスカの香りが僕の鼻孔をいつまでもくすぐり、アスカの声が僕の心を鎮めてくれる。
僕はアスカが好きなんだ。だから離れたくない。それだけなんだ。
目に映るのは、絶望の未来予想図。だけど、できる事なら、アスカと共にいられるこの世界を絶望の結末から救いたい。だから僕は……
「僕は、この世界を……」
「この世界を、なに……?」
アスカの顔が僕の間近に迫る。瞳には、僕の顔が映り込む。僕の瞳も、アスカの姿しか映っていない。
「この世界を、救いたい」
「どうして、そう思うの……?」
アスカの吐息が僕の鼻先にかかる。アスカの瞳は潤んでいる。すぐにでも、涙が零れ落ちてしまいそうなほどに。
「…………君と、一緒にいたいから」
「え?」
「君と……アスカと一緒に、いたいんだ! 僕は、君が好きなんだ! だから僕は、君と暮らせるこの世界を守りたい! この世界を絶望から救い出したい! 僕の願いは、それだけだよ……」
僅かに顔が上気する。
アスカは、泣いていた。
隠すことも、堪えることも、アスカはしなかった。
アスカは、両手で顔を覆い、子供の様に泣きじゃくっていた。
僕は、アスカの身体を、彼女がしてくれたように、後ろから抱きしめた。
「ごめんね……。悲しい訳じゃないの。ただ、ただ嬉しかったの。あなたにそんな風に想っていてもらえたことが、嬉しくて……」
「じゃあ、アスカは、僕をどう思っているの……?」
「だい、好きよ……。私は、あなたのこと、ずっと大好きよ」
アスカは泣き笑いを僕に向ける。アスカも僕を好きでいてくれた。だから、僕も素直に嬉しかった。でも、彼女の言葉に、少し引っかかる部分があった。
「『ずっと』って、どういうこと……?」
僕と君が出会ったのは、ほんの2週間前のことだ。ならばずっととは、どういうことなのだろうか?
「……なんでもない。大丈夫。あなたは、何も不安に思わなくていいの。あなたには、私がついてる。私には、あなたがついてる。それだけでいいじゃない……」
アスカが笑う。その笑顔を見てしまったら、僕の疑問など、ほんの些細なことにしか思えなくなった。
2人を包む温かな時間。世界は冷たい終わりが迫っているのに、今の僕たちは確かに、幸せだった。
不意に、アスカが言った。
「嬉しくて、とても幸せなのに、なん、なのかな……? なんか、身体が疼くような……。私、おかしく、なっちゃったのか……」
僕は、アスカの口を塞いでいた。アスカの言った気持ちは、今僕も味わっていることだったのだから。
僕は、アスカの唇から、自分の唇を離した。
アスカが切なそうに、僕を見つめていた。
我慢なんて、できっこなかった。
僕は少し乱暴にアスカの身体をベッドに押し倒した。
ベッドの上には、苦しそうに吐息を漏らす少女。黒くて長い髪が、ベッドの上一杯に広がっている。
「来て……セツナ」
彼女が僕を誘い、僕はベッドの上のアスカをきつく抱きしめたのだった。