六/隣のお姉さん
始業式という事で、本日の学校は早めに終わった。
その日、色々な嬉しさが重なって顔が緩みっぱなしだった僕は、佐々木先生からの鉄拳制裁を何度か受けたわけだが、その痛みも今は全くと言っていいほど気にならなかった。
しかし一つ心残りなのは、帰り道を不死原とご一緒できなかったという事ぐらいか。
まあそれは仕方無いだろう。転校初日に一緒に帰ろうとは言いにくいし、それが異性となると尚更だ。
その辺りの壁は、時間というハンマーがコツコツと取り壊していってくれるだろう。
「いや、つーか女子と一緒に帰ろうとするのがそもそも奇怪しいだろ」
僕の横で、登校時と同じように自転車を乗らずに押しながら、大志はそう言った。
「何でさ。クラスメイトとして当然の事だろう」
「そういうのはまず女子に任しときゃ良いんだよ」
「そうやってのんびりしている間に、その女子の誰かに不死原が取られたらどうするんだ!」
「落ち着け少なくとも三組にレズっ気のある奴はいねえよ多分。つーかお前……本当にゾッコンなのな」
またもや呆れたような表情で言われた。別に、何も悪い事はしていないだろ。
僕の初めてを捧げる事になるかもしれない人なんだ、本気にならずに何になるというのか。
「ああ、好きさ。大好きさ。結婚を前提にお付き合いしたいぐらいだ――否、むしろ血痕を前提にお突き合いしたいぐらいだ」
「向こうも初めてとは限らねえぞー」
「なっ、ばばば馬鹿を言うな大志! あの不死原に限ってそんな事は絶対に無い! 絶対にだ!」
「現実を見ろ公平。そして落ち着け」
ぽぬん、と大志は諭すように僕の肩に優しく手を置いた。
確かに今の僕は主観的に見ても冷静さを欠いている。彼の言うとおり、ここは一度落ち着くのが得策だろう。
どうやら僕には欲しいものが目の前にあると途端に焦って周りが見えなくなる悪癖があるようだ。まさに思い立ったら即行動、目的の為に手段を選ばない、猪突猛進、ブレーキを失った特急、制御のきかない競走馬というわけだ。本当に、恋は盲目なんだなと実感せざるを得ない。
「うん、ありがとう大志。お陰で目が覚めた。とりあえず、連絡先を知る事から始めてみるよ」
「お前のその積極性はどっから湧いてくるんだ。まあ、サッカーのにわかファン程度の応援はしておくよ」
呆れつつも応援してくれるその姿勢は、中学時代から変わっていない。
変わる事は大切だが、変わらないのも……うん、良いものだ。
大志とは程なくして別れ、一人となった帰り道。
今日の気温は一段と高いようで、真上からの日差しと照り返しによるダブルパンチが帽子も何も無いノーガード状態の僕を容赦無く襲う。頭を触ってみると物凄い熱を持っている。これはまずい、早急に水分補給しなければ。
自然、僕の歩くスピードは速くなっていた。家に帰れば冷蔵庫という名のオアシスが僕の帰還を祝福してくれるだろう。とまあ、それはちょっといきすぎた表現かもしれないな。実際、冷蔵庫は祝福なんてしれくれないし、ただ『む゛ぉ~ん』という奇怪な機械音を出しているだけの家電にすぎない。
「……暑さで頭の中が沸騰でもしているのか」
と、僕は無意識の内にぶつぶつと独り言を漏らしていた。
「――って」
これでは不審者と思われてしまう、と思ったが辺りの人通りはかなり少なく、閑散としていた。
都会の喧騒から少し離れた鬼屋敷町の住宅街。普段ならそれなりに交通量がある一帯なのだが、現在時刻は十三時を回っている。時間が時間だから、これほどまでに静かなのかと納得した。
平日の昼下がりにこうしてぷらぷらしていると、何だか学校をサボっているような気持ちになる。
まあ恐らく、北日常以外の学校も大抵は今日が始業式だろうし、あまり『今、自分は悪い事をやっているぜ』みたいな高揚感は湧いてこなかった。創立記念日なら、それは充分に湧き出てくるのだけれど。ちなみに北日常高校の創立記念日は四月十日。もう過ぎている。
そんなこんなで自宅前である。大きくも小さくもない、普通の二階建ての一軒家だ。
鍵穴に鍵を差し込み、回す。玄関を開けると、ひんやりとした冷気が漏れ出してくるのを肌で感じた。良かった、どうやら冷房はしっかり入れてくれているようだ。
しかし家中の照明は消されており、人の気配は無い。母さんは仕事だからいないのは当然として、妹の鋭利がいないのは奇怪しい。何故なら妹が通っている三日月中学も本日、始業式なのだから。
考えられる可能性としては、僕より先に帰宅して外出したか、どこかで寄り道をして帰りが遅くなっているかのどちらかだろう。どちらにしても、元気が必要なのに変わりはない。
とりあえず僕は手洗いうがいを済ませ、二階にある自室へ向かった。
扉を少し開けると、またもや冷たい空気を肌で感じた。そういえば学校へ行く前に冷房のタイマーを設定していたのだった。よし、今日は早めに帰ってきた事だし、快適な空間で漫画でも読もうと心に決めて僕は扉を完全に開けた。
「…………、」
するとそこには、金髪ロングの巨乳美女が僕のベッドでスピスピと熟睡しているという状況があった。
しかもタンクトップにパンツ一丁という、現役の男子高校生にとっては理性が崩壊しかねない格好でだ。
だが、この状況を何度も経験している身としては、いつもどおりの対応をするまでだ。
「おい白湯。起きろって、おい」
彼女の肩を揺らすようにして、起床を促す。その度に服から二つの大きな膨らみがこぼれそうで、目のやりどころに困る。
「んっ……あぁー、おかえり公平」
寝惚け眼をこすりながら、右左美白湯はそう言った。第一声がソレかよ。
「おかえり公平、じゃない。何やってたんだ僕の部屋で」
「ん~~? 寝てた」
「寝てたのは見ればわかる。僕は何やってたんだって訊いているんだ」
僕は自分の声が少し怒り気味になっているのがわかった。だが白湯はそんな事を気にも留めず、あくびをしてから言う。
「え~っとねぇ、暇だから公平の部屋に突撃したら誰もいなくってぇ、そしたら丁度ゲームがテレビに繋いであったからちょろっとだけやってぇ、んで飽きてきたから漫画を読んでてぇ、次に読む本を探してたら眠くなってきてぇ、今に至る~~ってぇ感じ?」
ヘラヘラと半笑いを浮かべながら不法侵入してからの行動を丁寧に教えてくれやがる。自由人か。
僕と白湯の家は隣同士で、更に言えば僕と白湯の部屋は窓を挟んですぐ隣――つまり鍵さえ開いていればいつでも行き来できる状態というわけだ。それをいい事に彼女は僕の部屋に度々忍び込んではベッドに寝転がって(寝心地が良いらしい)漫画を読み、まるで自分の家のようにくつろいでいるのである。ホント自由人か。
ちなみに彼女との関係は僕が物心ついた頃からのもので、僕にとっては姉のような存在だ。
尤も、弟の部屋に勝手に上がりこみ、勝手に漫画を読んで散らかしていく姉なんて絶対に嫌だが。
「はあ……全く。わかってるのか、これ立派な犯罪なんだぞ。フホーシンニューだフホーシンニュー」
「てかさぁ、漫画を探してる時に見つけたんだけど、あんたってエロ本持ってんだね意外~~」
「聞けよ人の話をォ! そして何エロ本を発見しちゃってるんだよ! かなりわかり難い場所に隠しといたはずなんだけど!」
「アハハ、男の考える事なんて単純でわかりやすいよ~~ん」
得意気な顔で僕の秘蔵の書物をひらひらさせる白湯。すっげえムカつく。
白湯と喋っていると僕のペースが乱されて、いつのまにか彼女のペースに持っていかれるから苦手だ。
「……ああもう、いいからさっさと出て行けよ。ハウスハウスっ」
「えぇ~っ、だって外あっついんだもん。出るの嫌だ~」
これは、意地でも動かない気だ。こうなった白湯を家に戻すには骨というか心が折れる。
強硬手段に出てもいいのだが、それをすると十秒も経たない内に折りたたまれるのが関の山。
白湯は高校時代、護身術にと思い柔道部に入部し、そこで類稀なる才能を開花させあっという間に全国大会で優勝してしまった化物だ。その金色の髪にちなんで『黄金色の武神』という異名で恐れられたほどだ。
対して、僕は長年帰宅部のエース。つまり、年齢だけでなく力関係も圧倒的に白湯の方が上なのだ。
「ったく……じゃあ、日が落ち始めたら帰れよ」
「さっすが公平~、やっさしぃ♪」
そもそもにおいて、僕は昔から白湯に逆らえる事は一度も無かったのである。
いや、たとえ逆らう事ができる立場であったとしても、僕は今と同じ台詞を言っていただろう。
白湯は僕の事を優しいなどと評したが、それは間違いだ。僕はただ……甘いだけの人間だ。