五/一目惚れ
結局、僕が生徒指導室から脱獄できたのは始業式が始まる直前だった。
小走りで二年三組へ向かうと、既に教室前の廊下に皆が並んでいて、何故か哀れむような視線を幾つか浴びせられた。
それが夏休み明け最初、クラスメイトに向ける視線なのかと思ったが、まあ恐らくこうなった事情は先生から聞かされているのだろう。
「お。うぃーっす一之瀬。お前ナニいきなり生徒指導に連行されてんだよ」
苦笑交じりに話しかけてきたのは八重葎祭事だった。誰にでも分け隔てなく接する良い奴である。
彼の台詞には語弊があるので僕は、
「生徒指導にじゃない、佐々木先生に連行されたんだよ」
と、訂正した。
「夏休み前も何度かあったよね。確か十五回くらい?」
柔らかな声でそう言ったのは、おかっぱ頭の少女――五月女芽衣。
十五回とは聞き捨てならない。僕が夏休み前に生徒指導に連行されたのは十四回だ。大きく違うぞ。
僕が再びクラスメイトの間違いを正そうと口を開いた瞬間、
「違うって五月女。十六回だぁって。なあ一之瀬?」
得意気な顔で僕の代わりに五月女の間違いを訂正したのは、見た目草食系男子――朝比奈深夜。
いや、ちょっと待ってくれ何なんだこの流れ。めちゃくちゃ面倒臭いぞ。
「朝比奈。それに五月女。どっちも間違ってるから。僕が夏休み前あそこに連行されたのは十四回だ」
頭を抱えて僕は溜息交じりに状況を整理した。
「お前、しっかり回数覚えてるのな」
八重葎はカラカラと笑いながら言った。僕にとってはあまり笑えない事柄なのだが。
とまあ、久々にクラスの面々と顔を合わせたのも束の間、列の先頭にいる先生が声を張り上げた。
「うーっし! 全員いるなー。そんじゃ行くぞー」
号令がかかり、三組の列はぞろぞろと気だるげに動き出す。ちなみに並び方は出席番号ではなく適当だ。
ところで北日常高校には大きな講堂があり、規模は軽く全校生徒の倍の人数は収容できるほどだ。一学年六クラスで、一クラス約三十人。よって全校生徒数はおよそ五百四十人。そしてその倍だからおおむね千八十人。
どうして高等学校ごときにこれほどのサイズの講堂があるのかというと、北日常は吹奏楽部や軽音楽部に力を入れているからだそうだ。二年三組唯一の吹奏楽部員女子――瑠璃科瑪瑙から聞いた話だが、週に一回ぐらいのペースで演奏会? 的なものを開いているらしい。生憎、僕は音楽に関してはオタマジャクシからわからないから特に興味は無いのだけれど。
何が言いたいかというと、今から行われる始業式はその講堂で行われるというわけだ。他の『式』とつく行事も同じく。
……そういえば。佐々木先生は全員いるなと言ったけれど、月見里が口にしていた『転校生』とやらの姿が見えないな。
前にも、後ろにも。見慣れない生徒は見当たらない。朝のホームルームでは紹介しなかったのだろうか?
「どーしたぁ公平、キョロキョロして」
と、大志の声がした。後ろから聞こえてきたので、僕は歩きつつ首だけをそちらに向けた。
「ああ……いや、転校生がいないなと思ってさ」
「お前、そんなに眼鏡の転校生が気になるのか」
茶髪の悪友は呆れかえった様子でそう言った。どうやら既に転校生への興味は僕の方が上回っているみたいだ。
「勿論。先生からはまだ何も言われていないのか?」
「始業式が終わってから紹介するってよ」
よし終われ、今すぐ終われ、始業式(季語無し)。
――と、まあ始業式はものの四十分ぐらいで終わったのだが、僕にとっては四百分ぐらいに感じられた。
待てを命じられた犬になった気分である。振る尻尾は無いけれど。
校長の無駄に長ったらしい話も、その他の教員の諸連絡も、全て右から左だ。
講堂から教室に戻るまでの道のりでさえも、終わりの見えない道に思えた。
既に三組のメンバーは全員教室に戻ってきており、今は佐々木先生待ちという感じである。
ざわざわと賑やかな教室は、転校生の話題で持ちきりだ。
「どんな子だろうねー」
「頭良かったりするのかなあ」
「てか、どっから転校してきたんだろうな」
「部活とか、何してるんだろう」
「ウチに来るんだから、何か音楽系とか?」
「どこに住んでるんじゃろか」
「地元が近いと遊べるよね」
「何か歓迎会とかしねえわけ?」
「それは転校生に訊けばいいんじゃない」
「いや転校生に『歓迎会する?』って訊いて『ああじゃあやってください』って言うか普通……」
「じゃあ、校内案内ぐらいなら良いんじゃね」
歓迎会だの校内案内だの、基本的にフレンドリーなスタンスの二年三組であった。
そういうのは悪い気はしないが、僕はあまり乗り気にはなれない。
「あっ、先生きた」
と、クラス委員長の高嶺沢七夕が言った。
その声に、皆は特に慌てる様子も無く自然と自分の席へと戻っていった。僕は最初から席についていたので動く必要は無かった。教室に戻ってきてから気付いた事だが、いつの間にか僕の席の右隣には既に真新しい机と椅子が用意されていた。ここに転校生が座って、使うのだと思うと、いやに胸の鼓動が高くなる。
廊下の方へ目をやると、曇りガラスの窓の向こうには二つの影があった。先頭を歩いているのが先生だという事はすぐにわかった。という事は、その後ろの影が――噂の転校生か。
二つの影はそのまますぐに教室へは入ってこなかった。恐らく先生が転校生に、ここで待っていろという感じで打ち合わせをしているのだろう。
ガラゴッ、と勢いよく教室の扉が開き、佐々木先生が入ってきた。この人は扉を勢いよく開けるのが趣味なのだろうか。
「あーぁ疲れたぁ。オマエらも疲れたろ。夏休み明け初っ端からあのハゲの長話を聞かされちゃあな。参っちまうよマジで」
ハゲ、とは恐らくというか十中八九、校長先生――四十万語録の事だろう。
始業式で長話をしたハゲは校長しか該当しない。
そんな事、生徒の前で言っていいのか……と、クラス全員の心の声がシンクロしたような気がした。
「よし、全員いるなー。いなくてもいいけど。えーっと、まあ聞いてると思うけど……」
尻すぼみ気味にトーンを下げていく先生。何故か教室中に緊張が走り、空気が張り詰める。
そして――、
「転校生を紹介すんぞオラァーッ!!」
「「YEAAAAHHHHHHHHッ!!」」
ライブ会場の如き盛り上がりを見せる二年三組。まあ、僕も同じように叫んだのだが。
「ひゃっはっは、イイねえオマエらのノリ。そういうトコ好きだよアタシ。そんじゃま、入ってきてー」
先生が呼びかけて間も無く、『彼女』は教室に入ってきた。
まず釘付けになったのは、腰の辺りまで伸ばされた濡れ羽色の髪だった。歩く度にさらさらと揺れるそれは、かなり手入れが行き届いているものだと一目でわかる。顔付きはどこか冷淡というか、落ち着いた印象が強い。ちょっとやそっとで驚く事は無さそうだ。同時に、どうすれば彼女の顔を驚愕と悲痛と絶望で歪ませる事ができるのだろう、という暴力的な衝動に駆られた。
そして自然に視線は、彼女がかけている眼鏡にいった。銀色のアンダーリムが、転校生のクールな印象を更に強めていた。極限まで研ぎ澄まされた刃物に見蕩れてしまっているような感覚だった。触れれば怪我をするとわかっていても、触れずにはいられない……そんな、危険で魅力的な存在感。
全体的に見れば文学少女的な容姿で、白と紺を基調とした北日常のセーラー服が異様なまでに似合っている。
目を背ける事ができない。ずっと見ていたい。僕の背筋に、電撃のようなものが狂乱的に疾駆する。
有り体に言えば、僕はまだ名前すら知らない転校生に、一目惚れしたのだ。
ハッと我に返ると、クラス中がざわついている事にようやく気付いた。
人は極限の集中状態になると周りの音が聞こえなくなるみたいな事を、三組の知恵袋と呼ばれている少年――西園寺東真から聞いた事がある。普通はスポーツ選手とかによくある現象らしいが、ごくごく普通の平凡でありふれた普遍的で標準的で平均的で特にこれといった特徴も無く変わったところも無いどこにでもいるノーマルで取るに足らない一介の男子高校生である僕が、転校生を見ただけでその領域に足を踏み入れてしまうなんて、何だかスポーツ選手に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
「こらー。騒ぎたいのは先生も同じだが、静かにしろオマエらー。ケジメだケジメ」
先生がパンパンと手を叩いてそう言うと、騒がしいクラスはフェードアウトするように静けさを取り戻していった。
「えーっと、そんじゃまあ、とりあえず黒板に名前書いて、簡単に自己紹介してくれる?」
こくん。と転校生は頷いて、先生から渡されたチョークを受け取り、カツカツと自身の名前を書いていく。
見た目相応というか、イメージ通りの丁寧で綺麗な字体だ。習字でも習っていたのだろうか。十秒も経たない内に、黒板には不老不死の『不死』に原子力発電の『原』そして三途の川の『三途』の五文字が、縦書きで記されていた。何て読むのだろう。ふしはら、さんず?
名前を書き終わった転校生は流麗な動きで振り向き、ゆっくりと口を開いた。
「向日水女学院から今日付けでこの北日常高校に転校してきました、不死原三途です」
僕は――いや僕だけじゃないが、その時クラス全員が彼女の声を初めて耳にした。
川のせせらぎのような、目を閉じてそっと、ずっと耳を澄ましていたくなるような、濁りの無い声。
これほど綺麗な部分しか無い人間が存在していいのだろうか。確実に天はこの転校生に二物以上のものを与えている。
「どうか皆さん、よろしくお願いします」
ぺこりと一礼。この一連の動作もいちいち品があって感心してしまう。
まあ、何というか当たり障りの無い――悪く言えば味気の無い自己紹介だった。
結局のところ、判明したのは転校してくる前に在学していた学校と、名前。そしてその名前の読み方ぐらいである。
もう少し細かく区分するならば、字と声が綺麗なのと、それなりに胸の膨らみが大きいという事か。
「……って、もう終わりか? 何かこう趣味とか、得意科目とか、好きな食べ物とか無いのか?」
予想以上に短かった自己紹介に、流石の佐々木先生も少なからず肩透かしを喰らったようで、あたふたと提案を幾つか挙げた。
「趣味は人間観察と読書で、得意科目は保健体育。好きな食べ物はプリンです」
と、転校生――不死原三途は、律儀にも先生が挙げた提案全てに答えた。
しぃーん……と教室が静まり返ったと思った次の瞬間、線が切れたように教室内がどっと湧いた。
「ひゃっはっは、掴みは完璧ってトコかァ? ま、わかんねえ事があったらコイツらに訊きな。コイツらバカだけど優しいから」
「センセー、教え子にバカって言うのはどうかと思いまーっす」
「ハイー文句言ったから減点なー獅子宮ァ」
「はあ゛ァ゛ァァァァァッ!?」
クラスの八割が抱いたであろう意見を代表して発言してくれた獅子宮雷緒だったが、佐々木先生の前では何の意味も無かった。さりげない暴言に反論しただけで減点だなんて、もはや教師じゃなくて暴君じゃないか。勿論、冗談なのだろうけれど……。
「まあ、すぐに席替えするつもりだけど、とりあえず不死原の席はそこな」
「はい」
先生に指示され、不死原は僕の隣の席に向けてゆっくりと歩を進めた。僕の列の、右側を通るようにしてこちらへ向かってくる。
彼女が僕の横を通る時に、ほんのりと良いにおいがした。どうして女子はこう、良いにおいがするのだろう。
近くで見ると、本当に綺麗だった。眼鏡をかけているからそう見えるのかもしれないが、それを差し置いても不死原三途という少女は罪作りなまでに綺麗な存在だ。
意を決して、僕は彼女に話しかける事にした。
「あ、あの」
切れ長の目を少しだけぱちくりさせて、不死原は不思議そうに首を傾げた。
「僕、一之瀬。一之瀬公平。その……よろしく、不死原」
いきなり呼び捨てにしても良かったのだろうかと脳内反省会を開こうとした次の瞬間、
「ええ、よろしく。一之瀬、くん」
微笑と共に、僕の名前を呼んでくれた。
転校生が最初に名前を呼び、笑顔を見せてくれたのが他でもない僕だという事に、強い優越感を感じた。
いよいよ僕にも人生の春が来たのだと、確信した。