幸か、不幸か
二つの帽子が、同時に飛んだ。
とある街角。
海に面したカフェテリア。
まばらに埋まったテラス席。
柔らかに潮風の吹くティータイム。
空は突き抜けるような青天で、雲一つ無い大空を白いカモメが舞っている。
突如、強い潮風が、のどかなテラスに吹きつけた。
テーブルのナフキンが飛び、コースターが飛び、そうして帽子が二つ飛んだ。
茶色の帽子は空高く吹き上げられ、カモメ達と一緒に空中を舞い踊る。
紺色の帽子は上昇する風に乗り遅れたか、一度ふうわりと宙を舞うと、右に左に揺れながら、海に向かって落下を始める。
二人の紳士が、飛んだ帽子を追うように、白い椅子から立ち上がって手を伸ばした。
二人の手の遥か先を、風に攫われた帽子が二つ。
やがて帽子は舞い落ちて、海の波間に見えなくなった。
悪戯な風が吹き止めば、テラスにはもとののどかさが戻って来る。
上品な洋服の婦人たちがスコーンに手を伸ばし、若い恋人達がティーカップ片手に笑い合う。
誰も、攫われた帽子の事など知らないように、テラスには元通りの空気が流れ始めた。
二人の紳士は手を伸ばしたまま、呆然と立ち尽くす。
テラスを、穏やかな風が走りぬけた。
「ああ、すごいもんだな」
「ああ、ついてない」
二人の紳士は同時に漏らすと、ようやく互いの存在に気がついた。
背中合わせに隣のテーブルに座っている相手を、互いに見遣る。
「やあ、あの紺色の帽子は貴方のものでしたかな」
にっこりと笑んで、豊かな白い顎髭をたくわえた紳士が青い空を指差した。
「ということは、あの茶色のはお宅のですか」
溜息をついて、洒落た銀縁眼鏡をかけた紳士が肩を竦める。
「いやはや、お互いとんだ災難でしたな。こんな穏やかな日に、あんな風に帽子を攫われるとは」
再びどっしりと椅子に腰を落ちつけながら眼鏡の紳士。
苛ついた様子で紅茶のカップを手に取って、一啜り、喉を潤す。
「まあ、滅多に見れない帽子とカモメの共演が見れましたし、良しとしようではありませんか。それに、お互い飲み物までは飛ばされなかったようですし」
髭の紳士は言いながら、青空に舞うカモメを眩しそうに眺めて、椅子に座りなおした。
香ばしい珈琲を片手に、ゆったりと笑う。
眼鏡の紳士はちらりと目線だけを髭の紳士へと向けた。
「そりゃそうですがね…、あの帽子は去年の誕生日に息子夫婦が贈ってくれたものでして。私にとっちゃ、大切な物だったんですよ。それをよりによって風なんかに飛ばされて…」
運がない、と嘆息する眼鏡の紳士を、髭の紳士が驚いて振り返った。
「おや、奇遇ですね。私のあの帽子も去年、娘夫婦がプレゼントしてくれたんですよ。攫われて飛んでいってしまいましたが…、まあきっと、笑い話で許してくれるでしょう。だってそうでしょう?こんな事は滅多にありませんよ。穏やかな昼下がりに、似たような境遇でやってきた帽子が、同時に風に攫われてひらひら飛んでいくなんて。まるで示し合わせたみたいじゃありませんか」
上機嫌で、髭の紳士は少し冷めた珈琲を傾けた。
眼鏡の紳士は、眉間に皺を寄せながら紅茶を啜る。
「笑い話になど、なりはせんよ。だいたい、私には帽子が必要なんだ。それなのに…」
溜息ながらに、鬱々とした表情で眼鏡の紳士は薄くなりつつある頭を撫でた。
髭の紳士は軽く首を傾げる。
彼の頭は見事に額から禿げ上がり、光を受ければ眩しいほどだ。
「それを言うなら、私など。見てみなさい、髭はあるのにこの頭ときたら。…私こそ、帽子がないと恥ずかしくて出歩けんというものだよ」
言葉とは裏腹に、どこか楽しんでいるように茶目っ気たっぷり自分の頭のてっぺんを指差す髭の紳士を一瞥すると、眼鏡の紳士は鼻を鳴らした。
「そこまで無くなってしまえば、逆にすっきり見えて良いのではないですかな?この薄くなってきたみっともない具合の頭の方が、私は恥ずかしくて堪らないんですよ」
髭の紳士は、ちらりと眼鏡の紳士の頭を見遣った。
潮風に、そよそよと薄くなった頭の柔らかそうな毛がそよいでいる。
「………」
「………」
眼鏡の紳士は、音を立てて紅茶を啜った。
髭の紳士は、冷めた珈琲を一口飲み下した。
「だいたい、近頃の私ときたら、良い事なんてとんとありゃしない」
紅茶のカップを白い丸テーブルに置きなおして、眼鏡の紳士は溜息と共に言った。
珈琲を飲んでいた髭の紳士が、僅かな動作で振り返る。
「つい先日には、件の息子夫婦が車で事故を起こしおってな。息子は足を骨折するわ、嫁はムチ打ち、孫は顔に痣を作った」
おや、という風に髭の紳士が自分の髭を撫でた。
「それはまた、大変でしたね」
「そうなんだ。そしてまたこれが息子のわき見運転で…、我が息子ながら情けないが、保険にも入っていなかったらしくてな。おかげで多額な医療費やらの請求が、金のない息子夫婦から私のところにまわってきよった」
苛立たしげに、テーブルの端を指先で叩く。
しばらく考えて、髭の紳士は目許を緩めながら珈琲で唇を湿らせた。
「けれど貴方。息子さん夫婦が無事で、何よりでしたね。不幸中の幸い、というやつではありませんか」
やれやれ、というように眼鏡の紳士が首を振る。
「そりゃあそうだがね。けれどどうしてまた、私の息子が事故など起こすのか…。それも保険に入っていないなんて、貴方、普通はあまりないでしょうに」
肩を落としながら言うのに、髭の紳士はたっぷりとした髭を撫で撫で苦笑する。
「…いやあ、そうでもありませんよ。実はうちの娘夫婦も、先月事故を起こしてましてね。これがまた、奇遇なんですが、うちも保険に入っていなかったらしくて…」
眼鏡の紳士は瞠目して、それからすぐに肩を竦めた。
「それは本当に奇遇ですな。…それで、そちらの事故では娘さん夫婦は…?」
「はあ、おかげさまで、生きておりますよ」
やはり髭を撫でながら、紳士は表情を緩めて頷いた。
「つい先日、孫が昏睡状態から目覚めましてな。本当に、生きていてくれて良かったと思います」
「それは良かった」
眼鏡の紳士は紅茶を啜りながら素早く頷く。
「しかしあれですな、先月ならもう面倒な手続きやら何やらは終わっているのでしょう?うちはこれからなんで、それを考えると頭が痛くて…。私には私の仕事もあるというのに、息子夫婦の事故の事まで押しつけられて、敵いませんよ、本当」
一気に捲くし立てて、随分と減ったカップの紅茶を飲む。
目を瞬いてから、髭の紳士はやんわりと笑んで頷いた。
「それは、これから大変ですな」
「そうなんですよ、どうしてこう、不運が重なるのか」
しみじみと呟いて、さらに紅茶のカップを傾ける。
「………」
「………」
空を舞うカモメの鳴き声が、間延びしてテラスに響いた。
「奥さんは、どうしてらっしゃるのですか?」
唐突な質問に、髭の紳士は飲みかけていた珈琲を持つ手を止めて、眼鏡の紳士を見遣った。
眼鏡の紳士は、トントンと、指先でテーブルを叩きながら首を傾げていた。
「そうですね…、妻は、もう亡くなりました」
しばらく間を置いてから、思い出すように言って髭の紳士は珈琲を喉に流しこんだ。
トントントンと、音のリズムが早くなる。
「なんでしょうな、私達は似た者同士と見える。私も妻を亡くしておりましてな」
やや早口に、眼鏡の紳士は言った。
「つい3ヶ月ほど前の話なんですよ。思い返す度、胸にぽっかりと穴が開いたようです」
早口のまま言葉を続けて、沈痛な面持ちで首を振る。
密かに息をつきながら、髭の紳士はやはりやんわりと笑みを浮かべて頷いた。
「お気持ち、分かりますとも。お可哀相に…」
「それで、そちらはいつ頃…?」
トントントントン、指がテーブルを叩く音が会話の合間に耳につく。
髭の紳士は、すでに空になったカップを、さらに一つ口許で傾けてから、眼鏡の紳士を見遣って言った。
「もう、4年ほど前になりますね」
トン、と。
テーブルを打つ音が止まった。
眼鏡の紳士が、それはそれは、と数度深く頷いた。
「そうですか、4年も前に…。4年ほども時間が経てば、このような悲しい想いも、幾分かはましになっているのでしょうね。今の私は、とても辛くて…」
そう言うと、しんみりと、眼鏡の紳士は海を眺めた。
髭の紳士は、かすかに目を眇めて、同じように海の向こうを見遣った。
「………」
「………」
テラスの下からは、どこか遠く聞こえる潮騒が、繰り返し押し寄せては引いていく。
「そもそも私は、昔から不運というか、恵まれていないというか…」
ぽつり、潮騒の音に混じって眼鏡の紳士が呟いた。
「……」
髭の紳士は顔を向けて、横顔の眼鏡の奥で閉じられた紳士の目を見遣る。
その瞳が、哀しげな色を浮かべて薄く開いた。
「幼い頃には両親が離婚したし、好きになった相手とはデートをしたこともなかった。階段から落ちて5針も縫う怪我もしたし…そうだ、子供の頃には右手と左手の長さがほんの少し違うなんて事で苛められもした」
眼鏡の紳士は切々と語る。
「そんな心無いやつらのおかげで、少年時代は人間不信に陥って、一般的な楽しい学生生活とは到底かけ離れた生活しか出来なかったよ…。他にも…」
続く眼鏡の紳士の話を、髭の紳士はじっと耳を傾けながらも、時折小さく頷いて聞いている。
「…私は時折、私にこうも試練を課す神すらも、恨みたくなってしまうんだよ」
ふう、と眼鏡の紳士が溜息を吐き出した。
髭の紳士が、ひとつ大きく頷いて、眼鏡の紳士の横顔を見遣った。
「…そうですか。それは、いろいろと、貴方は大変な思いをしてきたのだね」
髭を撫でながら、紳士が柔らかく静かに言うと、眼鏡の紳士は頷いた。
「ああ。私は、どうしてこうも不幸なんだろう」
それから顔を上げて、髭の紳士をじっと見つめる。
髭の紳士は、軽く首を傾げてみせた。
腹の底から溜息を吐き出して、眼鏡の紳士が首をゆっくりと横に振る。
「貴方が羨ましいよ」
髭の紳士は、呟いた眼鏡の紳士をしばらく何も言わずに見つめていた。
そうして、大きく息を吐き出すと、ゆったりと笑みを浮かべた。
「ええ」
肩の力を抜いた様子で、一つ頷く。
「私は、とても幸せですから」
精算を済ませて、帽子を無くした二人の紳士はカフェテリアを出る。
髭の紳士は、軽く頭を下げた。
「では、お気をつけて」
頭を下げ返して、眼鏡の紳士は憂鬱そうに髭の紳士を見遣る。
「ありがとう。…貴方は、そちら側ですか」
カフェテリアを出て道路を右へと進もうとしている髭の紳士に、眼鏡の紳士が呟くように言った。
「ええ。貴方は逆なのですね」
髭の紳士が、左に行こうとしている眼鏡の紳士に頷いて答える。
「家がこちらなもので。…ああ、貴方は帽子を無くしても、そちらの道から住宅街に出るなら人に頭を見られる事も少ないだろう。私だけが、今からメインストリートを通って自宅まで戻らねばならない…」
言葉の合間に3度の溜息を挟んで、眼鏡の紳士が言う。
そのまま髭の紳士に背中を向けると、どこかおぼつかない足取りで、メインストリートへと続く道を歩き始めた。
「ああ、なんて不幸なんだろう」
立ち止まったまま、遠ざかっていく眼鏡の紳士の背中を見送っていた髭の紳士の耳に、風に乗って低い呟きが聞こえてきた。
「………」
通りの人々に紛れていく背中を見守る。
その姿が見えなくなるまで見送ると、髭の紳士はその豊かな白い髭をゆったりと撫でた。
思案するように、数度、指で髭を撫でてから、やおら空を仰ぐ。
青い空には、一点の曇りもなく、澄み渡っている。
髭の紳士は、小さく肩を竦めた。
ゆるゆると首を振ると、一つ息を吐いてから、踵を返して歩き出す。
メインストリートに背を向けて、やがて髭の紳士の姿は、通りの向こうへと消えていった。
『幸せ』と『不幸せ』。さて、決めるのはダアレ?