宇井渚—ウイナギサ— ④
「なんで名前なんか、しかも呼び捨てにしたんですか」
翌日の放課後、私は先生に怒鳴り込みにいった。勢い余って張り上がった声に、自習中の生徒が居心地の悪そうに資料図書館を足早に出て行くのが見えた。
「嫌でしたか」
「そうじゃないです。意図がわからないから怒っているんです。それに、あの場所にはクラスメイトがいたんです。先生は人気者ですよ。わかりますよね、私が言いたいこと」
「クラスメイトがいる場所で、『渚』と呼び捨てにすることが、そんなにあなたの怒りを買ってしまうことでしたか」
頬に空気を詰めた私の目が、先生の薄く儚い瞳と交錯する。紳士的な眼差しに見つめられ、先生が何故、ここまで子供っぽい反論を私にぶつけているのか理解した。先生は、私の口から言わせようとしているのだ。私の実情と、その告白を。
「回りくどいですよ、先生」
「何がですか」
「言いたいことがあるなら、ちゃんと言ってください」
「私はただ」
珍しく、先生が言葉に一瞬だけ詰まった。瞳を外へと逸らし、なんともばつの悪そうな顔で、少し舌足らずにこう続けた。
「彼女らに、私と宇井さんの仲の良さを見せつけたかったんです」
「はい?」聞き間違えかと思った。「なんて言いました?」
「いや、どうにも考えが幼稚過ぎましたね。それに、生徒との関わりに差を付けてしまうなんて完全な依怙贔屓だ。私は、教師失格です」
「いや、どういう意味ですか、それ」頭がぐるぐるしている。先生が勝手に恥ずかしがっていて、私の思考が追いつかないままだ。「ちゃんと説明してください」
「あまり茶化さないでくださいね」先生は、息をゆっくりと吸い、落ち着いたスピードで話始めた。「私は、生徒とは一定の距離を取って関わろうと決めて、教職というものに就きました。このご時世、よかれと思って取った行動に、変な疑いをかけられてしまったりするのでね。とくに、男性教諭と女子生徒というものは。だから、私がどれだけ女子生徒にもてはやされようと、私はそれを鵜呑みにはせず、規律を重んじた固い教師でいようと決心しました。
しかし、私も人の子です。嬉しかったり、胸が弾むような経験や出逢いから意識を背けられるほど強くはない。私はね、宇井さん。あなたが現代文の授業終わりに回収するノートに書いてくれる、あの授業コメントを読むのが大好きなんです。そもそも、一行すら誰も書いてくれない感想を、宇井さんは毎回書いてくれる。そのコメントはいつだって知的で、俯瞰的で、それでいて激情的な文章。担任を持たない教師として、こんなに嬉しいことはありません。そんなあなただから、私は自分の愛する本を読んで貰いたいと切に感じた。そして、感想を執拗に求めてしまった。教師という毛皮を羽織っていようと、やはり私も人だった。生徒に腹を立てたり、この職から離れたくなることだって日常茶飯。でも、私にとってあなたは救済なのです。社会の歯車として、このパノプティコンから脱獄することのできない私にとっては、宇井さんと過ごす時間だけが救済なのです。あなたは私にとってかけがえのない、唯一の愛する生徒なのです。誰よりも、大切な存在なのです」
「えっ、あ、いや、はい。ありがとう……ございます」
告白とも取れる言葉を、私は貰った。
胸が軋轢を生んで痛み始める。私は今、世界で一番幸福な言葉を貰った気がした。
私が先生を救済だと感じていたように、先生も私を、救済だと言った。心拍数が自然と上昇し、四肢がじんじんと痛み始める。私達は、知らずの間に救い合っていた。求められる人間と、虐げられる人間。先生と、私。その大きな壁の隙間を縫って、私達はずっと、密かに手を握り合っていたのではないか。
幸福がじんわりと私を溶かしていく。しかし、私の爪先が言う。「騙されるな。どうしてお前なんかを特別扱いする? 調子に乗ったら、一寸先は死だぞ。いいのか」そうだった。私は、そうやって人を信じてきたから間違いを犯してきたんだ。この笑みも、疑れ。執拗なほど、疑るんだ。
「……でもそれは、私に固執する理由にはなりませんよ。もっと先生の期待に応えられる文才を持った生徒は山ほどいるし、私はただ、先生に無害だからそう感じるんじゃ……」
「参ったな」私の言葉を遮る先生。「宇井さんを納得させるには、全てを簡潔に話すべきでしたね。ただ、もう一方の理由はかなり不純な動機です。私の、亡くなった姉によく似ているんです。宇井さんは。だから、どうしても、特別に見えてしまう」
窓の隙間から、生温い六月の風が流れ込んでくる。先生の瞳は、私を透かして何か別のものを見つめているようだった。私はそれ以上何も聞かず、先生の隣で、お勧めされた小説を開いた。先生の告白を受けてから見るその横顔は、今にも消えそうな灯りで滲んでいた。




