宇井渚—ウイナギサ— ③
あくる日、放課後の資料図書館で学校内引き籠りを続ける私に、先生は「どうです。たまには気分転換に一緒に屋上へ行きませんか」と誘ってきた。意図がわからず、私は「嫌です」と答えた。先生は意外そうな面持ちを浮かべた後、「どうしてですかね」と困り顔になった。
私は迷った。先生になら、自分が今、どういう状況に置かれているか、全てを打ち明けてしまえるかもしれない。私の顔写真でヌードのコラ画像が作られていること、生理用ナプキンを盗まれていること、教科書の間に蛾の死体が挟まっていること、お気に入りのストラップを焼却炉に投げ込まれたこと、どの事実であっても、先生が知れば、即座に私を救済してくれる可能性もあった。
「先生」私の声は酷く重く、そして温い。
「はい」
「私は、先生を信じてもいいんですか」
「いきなり何を言っているんですか」先生は、私の神妙な面持ちとは打って変わって、天井に吐息を吹きかけるよう、上を仰いで笑っていた。「当たり前ですよ。私は、宇井さんにとって先生なんです。生徒を裏切る教師が、何処にいますか。仮にいたとしても、そんな人は教師ではありませんよ」
ピン。私の命に、充電ケーブルが繋がれたみたいに、私は電力の供給減を手に入れた気がした。詩乃宮先生は、紛れもなく私の救済だ。私は、先生に依存することで、この監獄内でも生きていけるような気がする。
そう思えば、意図のわからない屋上への誘いも断る理由はなかった。壁に張り付いた丸時計を確認する。時刻は午後六時過ぎ。さすがに屋上で暇を潰していた生徒も、飽きて帰っている頃だろう。何も心配はいらない。私は屋上で、先生に全てを話そう。そして、大胆に現状を打破してもらうのではなく、こっそりと、心の支えになってもらうのだ。「じゃあ、行きます」
先生の大きな背中の陰に隠れて、階段をゆっくりと昇っていく。手ぶらの先生の手が目の前にあって、あわよくば、不安な気持ちそのまま手を握ってしまいたかった。そんなことをする勇気があるなら、私はこんなふうにはなってないのだけど。
重いドアが軋んだ音を鳴らしながら外向きに開く。屋上へ出ると、空は既に茜色と夜のグラデーションが綺麗に流れていた。しかし、その黄昏は泡沫に消え、私は、屋上に設置された白い長ベンチに腰を下ろす女子生徒と、その正面で下手な踊りを披露する女子生徒に目をやった。ベンチに座っている方の手にはスマートフォンが握られている。何かを撮影して遊んでいるところだったのか。どちらも同じクラスメイト。私は咄嗟に先生の背後に隠れる。
「あ、しのみんだ! どしたの!」顔の彫りが深い方の女生徒が詩乃宮先生に手を振る。
「え、待って、なんで渚と一緒なの?」もう一人の、清潔感の無い茶髪が、私に何の遠慮もなくこちらを見て顔を歪めているのがわかった。
先生は「少し、用事がありまして」とだけ言って、屋上の中心部まで進み始めた。
私は、その離れていくグレーの背中を上手く追うことができなかった。しかし、進むことのできない電池切れの私は、当然、戻ることすらできはしない。屋上の入り口で、ただアスファルトに両足を張り付けた状態で突っ立っていた私は、俯瞰すればするほど惨めだった。爪先と目が合う。私を見て、憐れだなと笑っている。こいつは昔から、そういうやつだ。
――死にたい。
私は、その言葉が嫌いだ。でも、必然的にそう思ってしまう。弱い自分が嫌いだ。死にたい自分が嫌いだ。あの彫り深も、茶髪も、宿泊体験の時に私の下着姿を盗撮し、クラスの男子生徒へ流した犯罪者だ。そんな奴らが楽しそうに小躍りをして時間を過ごす中、私は、死にたいと思わなければいけない。理不尽だ。いっそ、私が死んだら、彼女らは踊っていられるのだろうか。私に死ぬ勇気がないとわかっているから。きっとそうだ。逃げ出そう。全てから。目の前に広がる緑色の金網を越えることぐらい、十七歳の私にはできないことはない。焦る顔を拝んで、この夜に溶け出してしまおう。ああ、それでいい。ごめんなさいは、全て、お母さんにあげるから。
そんなことを考えて真っ黒になっていく頭に、一つの衝撃が走った。殴られたような、いや、もっと柔くて、痛くて、雷鳴のような衝撃。
「渚、おいで」
先生が、私の「名前」を呼んだ。
普段は「宇井さん」や「あなた」と呼ぶくせに、生徒にはもれなく「さんづけ」の先生が、私の名前を、呼び捨てにした。
恥ずかしかったのは一瞬だった。火照る頬には、多少の喜びが混じったけれど、それも刹那の話。私は、先生が私を呼び捨てにした事実を彼女らが聞いてどう思うのか、考え始めると怖くて仕方がなかった。次の瞬間には、私は先生のことをきつく睨んで屋上から逃げた。
怒りという緊急時のバッテリーが起動して、逃げることができた。階段を駆け降りながら、C棟三階の多目的トイレへと逃げ込んだ。余計なことをしてくれた。俯いて、上履きの爪先に毒を吐いた。「本当、先生、どういうつもりなの」赤い爪先は、私に共鳴し、先生のことを悪く言った。「渚のこと、馬鹿にしてんだよ。詩乃宮も」




