宇井渚—ウイナギサ— ②
詩乃宮先生はクラス担任を持っていなかった。私が入学してくる二年前までは、詩乃宮先生も担任をやっていたらしいけれど、今は専科としてうちの高校で二学年現代文を各クラス受け持ち、空いた時間では図書館の管理職を任されている。学校図書館司書教諭という免許を教員免許とは別に独自で所有しているみたいで、放課後に図書館へ足を運ぶと、必ずそこには詩乃宮先生の姿があった。
詩乃宮先生は、我が高校の人気教師ランキングツートップの片割れである。クラスすら持っていないものの、彼の整った美貌と、どんな生徒に対しても平等に、そして丁寧に向き合う姿勢を、女子生徒の大半が評価している。
ランキング同率一位、英語担当で私のクラス担任六丸先生とはまた違った良さがある。お洒落な黒縁眼鏡が特徴の六丸先生みたく、誰とでも打ち解けてしまうラフさとは別に、大人の落ち着きが、詩乃宮先生には感じられた。私も、どちらかと言えば詩乃宮先生推しである。
「先生」
私の声に反応して、詩乃宮先生はパソコンのタイピングを止めた。「ああ、来てくれましたか。ありがとうございます」と嬉しそうな顔をされ、私は不器用に笑って返す。
詩乃宮先生の黒髪は、嘘偽りのない黒髪だ。教師にしては少し前髪が長い気もするけど、その雰囲気にあった髪型だ。年齢不詳、そんな言葉が、先生にはよく似合う。
鼻はつんと高く、唇は薄いが血色が良い。何よりその肌。限りなく透明に近い白さをしていて、産毛の一つすら見当たらない。脱毛サロンに通っているのか気にはなったが、美意識は低く、自分磨きには疎そうな一面もある。人形、そう言い切ってしまうのが一番近いかもしれない。
「私、太宰治はやっぱり好きにはなれませんでした」
貸し出し用カウンター越しの会話。私はスクールバッグから、『人間失格』と、先生がイチオシだと言っていた『ヴィヨンの妻』の文庫版を取り出し、机の上へ置く。
「どこが苦手だったんですか」
「登場人物、全般です。どの人も、私には贅沢に見えて仕方ないんです。葉蔵はもちろん、堀木やヨシ子はどうにも。あ、でも、堀木がツネ子を無下にするシーンは良かったです。あそこだけは、良かった」
「そうですか」詩乃宮先生は本を机に這わせながら、自分の手元に引き寄せる。「もし、彼の文章を気に入ってくれたなら、また別のものを勧めようと思っていたのですが。余計なお世話になってしまいそうですね」
「いや、でも」でもの後に続く言葉に、ろくなものなど存在しない。「私、未だ二冊しか読んでいないので、苦手かどうかを判別するには少し足りないかと」呆れられる、見放される、こいつはセンスがないなと思われるのが嫌で、私はそう言った。
「宇井さんは大人ですね。そんな宇井さんだから、私も本を勧めたくなるのですが」
先生の選ぶ言葉には品がある。教室にいる生徒たちや、適当に授業をやっているような他の先生たちとも違う。正装した清い言葉だけが、先生の口からは溢れ出てくる。だから私は、この監獄の中で、唯一先生とだけは会話ができる。私を傷つけない。先生は私の何にも触れる気がないからこそ、私にとって安全な存在だった。
「私が気に入る作品、ありますかね」
「うーん。『道化の華』とかは、さすがにダメですかね」
「それって」
「そうです。『人間失格』の始まりの作品です。あえて、あえてね」
詩乃宮先生は私に本を紹介する時、いつも無邪気に頬を緩める。その表情は、無垢そのものだ。先生は空気のような人だ。つかめないし、吹いたら飛んでいきそうだ。
立ち上がり、カウンターから抜け出した先生が、本棚から『道化の華』を抜き取り、私へと手渡した。一瞬、私の中指と先生の人差し指が触れた。どきんと胸が鳴ったけど、人と触れるのが久しぶり過ぎて驚いただけかもしれない。
「読みますね」
「忙しいと思うので、あまり無理はなさらずに。宇井さんの勉強の差支えに、本好き教員がなってしまっては本末転倒ですからね」
「平気ですよ。私はたぶん、暇なんで」
少し投げやりな言い方をしてみたが、先生は気にも留めていないようだった。そうだ。私がどれだけ過酷な学園生活を過ごしているか、そのことについて先生は何も知らない。私が告発しなければ誰も知ることはない。私を苦しめる外的要因は陰湿さを極めているのだから。
「では、もしまた私がお勧めする本を知りたくなったら、声をかけてください。太宰以外の本でも、たくさん、紹介したいものがあるので」
「わかりました。その時は、言いますね」
学校に居場所がなかった私に、唯一できた居場所はここだ。
放課後の資料図書館。勉強に勤しむ生徒や、パソコンでDVDを鑑賞する生徒だけが居残っている。初め、詩乃宮先生が放課後には必ずここにいるという話が出回った時は、そこは資料図書館とは思えないほどの賑やかさだった。しかし、詩乃宮先生はそれを「迷惑です」と一蹴。さすがに心が折れたのか、真面目で優しい先生の厳しい一言は、女子生徒たちをすぐに宥める一撃となった。以降、先生の狂信的なファンは減り、糸目で怒らない六丸先生へと徐々に人気が流れていったのも事実である。
私の居場所を、先生は間接的に守ってくれている。本を読むのは好きだし、静かな場所は何よりも好きだ。部活動もやってない私は学校に居残る理由なんてないけど、そこで失われた青春を、先生との会話で何とか補填する。恋や夢など、そんな煌びやかなものじゃない。生命維持活動としての、救済措置としての放課後。私は、この時間をそう呼んでいる。
先生に借りた本を開こうと、私は窓際の席に腰を下ろした。グラウンドでは、野球部が汗を流しながら二列縦隊でランニングをしている。掛け声がここまで響いてきて不快だった私は、イヤホンを取り出し、耳に装着してお気に入りの音楽を流す。あと何日、これで耐えられるだろうか。そう思いながら本のページを捲る。
すると、私のスマートフォンが一件の着信をキャッチした。アルバイト先の先輩からの連絡。私は急いで応答し、手で携帯を包み、口元に近づけて小声で話す。
「お疲れ様です、麻奈美さん。どうしましたか」
「ごめんねいきなり。明日さ、どうしてもシフト代わって貰いたくて」
「明日は……」予定はないが、正直面倒くさい。ただ、お世話になっている先輩の頼みを断れるほど、強い自我も、断る理由も私は持ち合わせてはいない。「いえ、わかりました。四時九時ですよね?」
「うん! 本当ごめんねぇ。今度なんか奢るからさ!」
「いえいえ。お構いなく」
「ありがとう! じゃあ、本当ありがとね!」そう言い残し、電話はぷちんと切れた。
私は現在、イタリアン系のファミリーレストランでアルバイトをしている。お金に困っているわけではなくて、何か生産性のあることをしていないと、私は自分を更に受け入れられなくなりそうだったので始めた。今となっては、私が頑張っていることはアルバイトぐらいで、こちらも私の生命維持活動としての役割を果たしてくれている。ホールでオーダーを取り、料理を運ぶ時だけ、私はこの世界に存在するのだ。
電話が切れ、再び集まる閑静な時間。
私は先生を目の端に入れた。頬杖を突きながら、私が返した『人間失格』を読んでいるのが見えた。その横顔は彫刻のように美しく、活字を目で追っているのが勿体ないほど芸術的だった。見惚れる。それが、私の中で先生への恋の始まりだと判明するのは、もう少し先の話だ。
先生が授業で見せる時の顔と、図書館で会って話をする時の顔に微細な変化を感じたのは、紛れもなく私の妄想でしかないことも、まだこの時には気づいていない。




